フヴェルゲルミルの黄昏 ―天然理系女子と温泉調査―

天使というものは唐突に顕れ、地上の人間に妙なお告げをする。

例えば、そこらの田舎娘に向かって「おめでとう、あなたのお腹には神の子が宿っています」と口走り、相手を困惑させたエピソードは、「受胎告知」として広く知られている。
――遠大な人類救済の計画すら、発端はこんな風だから、今日、あなたの身の上に事前説明抜きで椿事を運んできたとしても、まあ不思議ではない。

湧井薫もまた、ある日何の前触れもなく僕の人生へ舞い降りた。彼女は出現と同時に奇跡を引き起こした。教授の容赦ないお小言から、瞬時に僕を解放したのだ。だが、天使の降臨は大概、波乱の予兆に他ならない。僕はそれを身をもって知ることになるだろう。



――晴れ渡った4月半ばの昼下がり。

理学部棟の片隅にある教授室で、僕は指導教官の泉先生と向き合っていた。
僅かに開いた窓からは、和やかな風と、大勢の新入生を迎えたキャンパス特有の浮ついた喧噪が流れ込み、室内の緊張を一層際立たせている。
「確かに君はまだ三年生だ。研究室に本配属となって間もない時期に、卒論並みの研究計画を出せとは言わない。」
白髪交じりの眉根を寄せて、先生は続ける。
「だがね、今年一年で自分が何を目指すのか、もう少し明確にしよう。君のスケジュール案には、内発的な動機が足りない。旅行に例えるなら、一泊二日でこのご予算なら、京都か長野が良いでしょう、と提案しているに過ぎない。どうして京都へ行きたいんだ?長野で何をしたいんだ?大切なのはそこなんだよ。」
先生は自らの胸を叩きながら続ける。
「学術的探究心をもちたまえ。意思やパッションと言っても良い。今の君に最も必要なものだ。」

痩身の教授から射るような視線を向けられ、僕はたじろいだ。彼の言うことは正しい。
自分自身が誰よりも良く分かっている。僕は周囲と同調し、状況に順応し、流れるように生きてきた。それは、遠い日の挫折を原点に確立した処世術なのだ。以来、今日まで何の問題も無かったし、――明日からだってそうだろう。
だけど、胸の奥には、常に疼きがある。自分の星を追うことへの秘めた渇望がある。
だからこそ、僕は心の中で強く首を振る。そんな希みは、所詮白昼夢なのだ。泉先生の熱意は有難いが、中途半端に月へ手を伸ば、大切なものを失うことになる。――あの時のように。
教授は意思を示せと言った。ならば、そうするのが精一杯の誠意だろう。

「僕の今年の目標は、先行研究の隙間を埋める、何らかの学術的成果を挙げることです。そのために、まず自分の力量に見合った手つかずの領域を探します。既存の文献に幅広く目を通し……」
要は、何でも良いから自分に出来そうなテーマを見つけて取り組みます、という宣言だ。教授はゆっくりと息を吐く。
「アプローチとしては、決して間違ってはいない。寧ろ手堅く、ベーシックなやり方だ。しかし、君の場合は……。」
そこまで言うと、腕を組んで黙考する。
卓上の置時計が時を刻む音が室内に響く。
「君、今日はこのあと暇だろう?私と一緒に少し考えようか」
泉先生が僅かに身を乗り出して提案したとき、僕は心の中で身構えた。これは、なかなかハードな時間になるぞ、と。

教授室のドアがけたたましくノックされたのは、まさにその瞬間だった。
「泉先生、いらっしゃいますか?!」
若い女性の切羽詰まった声が響く。
大方、研究室への所属が決まっていない同期生だろう。先を読んで行動しないから、今頃焦るのだ。
教授も同じ考えであるらしく、軽く肩を竦める。
「いますよ、お入りなさい。」
こういう懐の広さが泉先生の良いところであり、同時にウザったさの源でもある。ちらっとそう思うか思わないかのうちに、すらりとした女学生が室内に駆け込んできた。緊張で頬を紅潮させ、胸の前で分厚いファイルを抱き抱える両手が震えている。

「お忙しいところ、申し訳ありません!私、理学部1年の湧井薫と申します!地球物理学の大家でいらっしゃる泉先生にどうしてもご相談したいことがあり、入学早々ながらお部屋に伺いました!温泉と、火山の関係についてなんです!」
張り詰めた声で矢継ぎ早に言うと、ペコリと頭を下げる。意外な展開に先生は目を丸くしたが、すぐに穏やかな声で彼女に語り掛ける。
「熱心な学生は、学年に関わらず歓迎しますよ。私の専門は、地球の内部構造の分析や、それが地震や火山活動などの自然現象を引き起こすメカニズムの研究です。あなたの疑問には、幾らか答えられるでしょう。新歓イベントについてはあまり詳しくないですから、その積りでいて下さいね。」
闖入者は深く頷くと、ファイルを先生の机の上に置き、手書きの数字がびっしり書き込まれたページを開く。

「はい、サークルとかコンパとか、きっと今の私には縁がありません。そんなことより……これは近隣のある県の温泉地における定期的成分分析のデータを私が時系列で整理したものです。勿論、定期検査自体は、泉質の変化を継続的にモニタリングする目的で実施されるものではありません。しかし、この特殊な事例においては……」
突如火蓋を切ったマシンガントークを先生は片手で制し、こちらに目で合図する。僕は部屋の隅から折りたたみ椅子を持ち出した。彼女は再びお辞儀をしてから腰を掛け、膝の上で両手を重ねた。それを待って、先生が口を開く。
「彼は山崎君、新3年生です。今年度から私の研究室へ正式配属となりましたが、昨年度の後半期に体験入室に参加しています。ですから、幾らかはフィールドワークの経験を積んでいます。というより、現場での彼の順応性はなかなかのものですよ。」

湧井は僕に目礼する。
「山崎さん……宜しくお願いします。」
宜しくお願いされるつもりは無かったが、僕は笑顔で頷いて見せた。先生の注意を引き付けてくれたことには、感謝すべきだ。実際、彼は会話をしながら数値の羅列を凝視し、瞳には光が宿っている。
逃げ出すなら、今のうちかもしれない。だが、先手を打ったのは教授だった。
「なるほど、概要は把握できました。あなたの想定通り、これは興味深い現象だ。まあ、まずはコーヒーでも飲みましょうか。私と山崎君はミルクと砂糖を入れますが、あなたは?」
「ありがとうございます、ブラックで頂きます。」
そう答える彼女の声は幾らか落ち着き、柔らかくなっていた。

先生は部屋の片隅に立ち、ミネラルウォーターを古い電気ケトルに注ぐと、引き出しからコーヒーの個装パックを三つ取り出す。
何か良いことがあった時、彼は手ずからお茶を振舞ってくれるのだ。
ケトルが沸騰音を立てるのを待って、湧井にそっと耳打ちする。
「ドリップコーヒーって言うんだって。お湯を注ぐだけなのに、結構美味しいんだ。」
「じゃあ、ブラックにして良かったです。香りと味が澄み渡るから。」
彼女は控えめな笑みを浮かべる。
「温泉の研究?」
「はい、或る温泉地で発生した重大な変化について、火山との相互関係を考察したつもりです。独学の産物なので、正直確信はありません。――泉先生が優しい方で良かった。」

湧井はそう言って目を伏せ、膝の上にのせた両手の指をこすり合わせる。
その隙に、僕は素早く彼女を観察する。理知的な顔立ちを暗めのミディアムヘアで覆い、白いニットとデニムのパンツを身につけている。幾分あか抜けないが、清潔感のある佇まいだ。1年もすれば驚くくらい洗練されるかもしれない……本人にその気があれば、だが。
「良い先生だよ。色々詳しいだけじゃなく、凄く親切だし。あの様子なら、きっと力になってくれると思う。」
湧井ははっと顔を上げて僕を見る。その縋るような表情にただならぬ気配を感じ、思わず予防線を張ってしまう。
「僕の関心はマントルやコアみたいな深部の組成や構造変動にあるから、温泉ついては詳しくないけどね。」
「それは困りましたね。」
すぐ後で先生の声がする。お盆に載せた三つの不揃いなマグカップを机に置きながら、彼は言った。

「山崎君は、今日から湧井さんとコンビを組むのですから。」