ざまあをください。

コーチが凄まじい剣幕で睨みつけてきた。
そのあまりの迫力に、僕は思わず息を呑む。

厳巳(いずみ)、お前はもっと貪欲になれ。そうすればお前はもう一段上に行ける。2分4秒、いや3秒だって夢じゃねえ」

平泳ぎ200mの世界記録は2分5秒48。
僕の自己ベストは2分5秒59だ。

もう一段上がった先に、新記録が待っている。
でもそこは、前人未踏の『誰もいない世界』で。

「……そんなところ、行きたくな――痛゛っ!?」

頭突きを食らった。
悶絶している間に、コーチの体が離れていく。

「~~っ!!! 石頭っ。ガチで割れる……」
「バカ言ってねえで、気合入れ直せ。いいな?」

コーチは僕に背を向けた。
そんな背中を見送る内に、僕の胸の中でひとかけらの希望が(きら)めき出す。

発破をかけてきたのは、その人が――主人公足り得る人が出てきたからなんじゃないか?
今のままじゃ負けちゃう。そう思ったから。

「コーチ!!」
「っ! 何だよ、急にデカい声出して」
「あの……っ」

そんなわけない。
もう一人の僕が否定する。
だけど、聞かずにはいられなかった。

だって、ずっと……ずっと待っていたから。

「……っ、いるんですか? それとも出てきそうなんですか?」
「は? 何が?」
「僕の他に、世界新に手が届きそうな選手が」

祈るようにして問いかけた。
だけど、コーチは――無情にも首を左右に振った。

「っは! いるわけねえだろ、ンなヤツ」

目の前が真っ暗になった。
ああ、やっぱりそうなんだ。
発破をかけてきたのは、単に僕がナメた発言をしたからで。

「おい、何だそのツラは」
「……別に」

表情を隠すように顔を俯かせた。
早く出よう。とりあえずここから。

「おつかれさまでした」
「おいっ! 厳巳!!」

コーチの怒鳴り声と、いくつかの陰口を背に会場を後にした。
足早に。逃げるようにして。



施設の外には公園が広がっている。
至るところで満開の桜が、タンポポが咲き誇っていた。
周囲の人達が口々に春の訪れを喜んでいる。

どうしよう。物凄く居心地が悪い。それに胸もムカムカして。

「……っ」

僕は逃げるようにして脇道に入った。
そうしてそのまま奥に向かう。
華やかさの薄い方へと。

「……へえ、こんなところあったんだ」

低木がコの字型に植わっている。
概ね3mぐらいか。

金木犀(きんもくせい)

ネームプレートを一撫でして、手近な木を観察してみた。

季節外れであるせいか、葉は黄緑色だ。
一方で、赤茶色っぽい葉もちらほら見受けられる。
枯葉にしては瑞々しいような気がした。
案外あれが新芽だったりするのかな。

金木犀って、確かトイレの芳香剤みたいな匂いがしたよね。
……なんてことを、ぼんやりと思いながら更に奥に目を向ける。

ベンチがあった。
塗装も剥がれて大分古びた感じだ。

そんなベンチの手前にはゴミ箱がある。
錆びた丸形のゴミ箱だ。
中にはペットボトルやら、丸く膨らんだビニール袋やらが入っていた。

「あ……」

ひらめいてしまった。
凄く悪いひらめきだ。
我ながら最低だと思う。
でも、実行せずにはいられなくて。

「……いいや。やっちゃえ」

僕は黒いリュックをおろして、中から小箱を取り出した。
中に入っているのは金色のメダルだ。

「一発で入ったら引退だ」

鼻息荒く紅白のリボンをグルグル巻きにして、内側にそっと通した。
コンパクトになったメダルを両手で包んで、ゴミ箱に狙いを定める。

目算で7~8メートルってところか。

「よし」

左脚を持ち上げて大きく振りかぶる。
投げた。メダルがくるくると回転しながら飛んでいく。

「いけいけいけ――えっ……?」

直後、忙しない足音が聞こえてきた。
振り向くと誰かがいた。
その人は全速力で僕の横を走り抜けて――勢いよく跳ね上がる。

高く、それはもう高く。
無駄に背の高い僕の顎が、限界まで上向くほどに。