頬に冷たい感触がした。
それを皮切りに、意識がハッキリとしたものになっていく。
瞼の隙間から覗いたのは宵色の天蓋。
金糸の刺繍が星屑のように瞬いている。
ここは……お屋敷の中?
視界を傾けると、白く眩い壁が。
重ね塗りされた漆喰の上には、蔦や花々を模した美しいレリーフが連なっていた。
「エレノア様!」
「み、ら……?」
横になったままの状態で勢いよく抱き着かれる。
今日の彼女は深緑色の軍服姿。
治癒術師の正装に身を包んでいるようだった。
薬剤と……これはライラックの香りかしら?
香水もつけるようになったのね。
「会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった……っ」
ネグリジェの肩あたりがミラの涙で濡れていく。
変わらず素直であるようだ。
この十年、さぞ色々なことがあったでしょうに。
尊く、それでいて愛おしい。
わたくしは胸を熱くしながらそっと抱き返す。
「お加減はいかがですか?」
話しかけてきたのはレイだった。
服装は相変わらずの革製の黒のジャケット、パンツ、ブーツスタイルだ。
おまけに坊主頭で険しい顔つきで。
ふふっ、変わらないわね。
――そう思いかけて改める。
よくよく見てみれば、彼の下瞼は僅かながら確かにたるみ、額には薄くしわが走っていた。
彼も今年で三十九歳。十年という時の重さを痛感した。
それと同時に、肉体と精神の年齢が乖離してしまった自身の異様さも。
「ありがとう。少し怠いけど、それ以外におかしなところはないわ」
「では、ご容体について少しお話をさせていただいても?」
「お願い出来るかしら。そちらを踏まえて、相談に乗っていただきたいこともあるから」
「承知致しました。それでは」
レイは返事をするなり、褐色の手を白い扉に向けた。「一体何を?」と、わたくしが首を傾げている間に、扉が勢いよく開く。
「お゛わっ!?」
扉の向こうから紅髪の青年が現れる。ユーリだ。
どうやら聞き耳を立てていたみたい。
バランスを崩してつんのめっている。
「~~にすんだよ、師匠!!」
「しゃんとしろ」
「……っ」
レイに一喝されて唇を噛み締める。
その姿を見て、わたくしは思わず笑ってしまった。
今日の彼も上下白の軍服姿。
先日のものとは違って汚れも破れもない。
服装はこの上なく立派だけど、言動からはまだ幼さが見て取れて。
ユーリには悪いけどほっとする。
皆に置いていかれてしまったと、そう思っているからだろう。
バカね、エレノア。過去ばかり見ていないで、きちんと現在に目を向けなさい。
いくら足掻いたところで、もう取り戻すことは出来ないのだから。
自嘲気味に笑って手元のシーツを握り締める。
「何してんだ。さっさと来い」
「いいえ。その必要はないわ」
三人が揃って瞠目する。
驚き、戸惑い……。
そんな彼らの感情を、枢機卿仕込みの隙のない笑顔で躱す。
「ユーリ。悪いけど、出直してもらえるかしら?」
貴方には関係のないことだから。
言葉にはせずに、笑顔を深めることでそれを伝えた。
ユーリは顎に力を込める。
悩んでいる。わたくしの目にはそう映った。
なぜそんな顔を? 擡げかけた浅ましい期待を力任せに捻じ込む。
彼は優しいのよ。
父君を身を挺して守ったあの日から、何ら変わらず。
「聖女様は、命を焚べられた」
「っ! レイ」
レイは構わず続けていく。
ユーリに「残れ」と、そう命じるかのように。
「体力、魔力共に著しく低下している。過去の症例にもある通り、このまま衰弱されていくものと考えられます」
「余命は……」
ミラが説明を引き継いだ。
彼女もまたレイと同意見。
ユーリにもきちんと明かすべきだと考えているようだ。
沈痛な面持ちで続けていく。
「静養されるのなら二年。一日でも長く生きることを望まれるのなら、魔法は……っ、程度を問わず、使用をお控えいただかなければなりません」
「っ! それじゃ、癒し手は?」
「辞めざるを得ないだろうな」
「…………くそっ……」
ユーリは顔を俯かせた。
白い二つの拳が小刻みに震えている。
十中八九、自責の念に駆られているのだろう。
やはり、こうなってしまうのね。
いくら言葉を尽くしたところで結果は同じ。
大なり小なり背負わせてしまう。
死の真相は伏せるべきね。
予定通り、以降はごく限られた方にだけお伝えすることにしましょう。
「申し訳ございません。俺がもっと早く――」
「貴方が気に病むことではないわ」
「しかし――」
「これは報いなのです。あの日、わたくしは降伏した。皆の忠義を無下にしたのですから」
「違います! あれは、~~っ、あれはアタシやみんなを守るために――」
「戦意を喪失したに過ぎません」
「~~っ、違う!!」
ミラの濃緑の瞳が波打つ。
あの日の自分を恥じているのだろう。
何も出来なかった、ただ翻弄されるばかりだった過去の自分を。
「…………」
レイは無言のまま眉間にしわを寄せている。
真面目な彼のことだ、ミラ同様にあの日の自分を恥じているのだろう。
「変わらず、お優しいのですね」
口火を切ったのはユーリだった。
目を伏せて、口元には少し困ったような笑みを浮かべている。
「それだけに……掴めない……」
「どういう意味?」
ユーリが顔を上げる。
その目には強い意思が宿っていた。
覚悟と言ってもいいのかもしれない。
わたくしは激しく後悔した。
問い返したのは悪手であったと。
「あの日のように『結婚してくれ』と言ったら、貴方は俺の手を取ってくれますか?」
「……っ」
ユーリが一歩一歩と近付いてくる。
レイとミラが下がって、ユーリに道を譲った。
いいえ。わたくしは貴方の妻にはならない。
下を向くことで訴える。
これが今、わたくしに出来る精一杯。
ユーリが近付くたびに喉が乾上がっていく。
「お嫌なら、その時はキッパリ諦めます。ただ、もしも……変わらず、俺に夢を見てくれるというのなら」
ユーリの足が止まった。
彼は今ベッドの横に。
手を伸ばせば触れられるほど近くにいる。
「未来永劫、貴方だけを愛すると誓います」
その物言いには一片の曇りもなかった。
改めて思う。どこまでも眩しく、真っ直ぐな方であると。
叶うことなら、このままその胸に飛び込んでしまいたい。
だけど、それは決して赦されない。
これ以上、貴方を不幸にするわけには……っ。
「っ!」
衣擦れの音がした。
次の瞬間――栗色の瞳と目が合う。
しゃがみ込み、ベッドに肘を突くような格好で覗き込んでくる。
その瞳は挑発的でもあり、悪戯っぽくもあって。
ああ、……何ってこと……。
力強くも温かな光が、わたくしの心を照らしていく。
固く閉ざされていたはずの扉は次々と開かれていって。
「貴方と……共に在りたい……」
気付けば口にしていた。
心の奥底に封じ込めたはずの、その思いを。
「……どうしよう。すっげー嬉しい」
ユーリの口元から笑みが零れた。
爽やかで甘酸っぱい笑みが。
受け止めてくれた。
身勝手なありのままの思いを。
こんなにも……こんなにも嬉しそうに。だけど……。
衝撃は喜びに、喜びは悲しみに変わっていく。
残された時間はあまりにも短い。
二年なんて、そんなのあんまりだわ。
「及第点ってとこだな」
茶化してきたのはレイだった。
彼らしい皮肉の効いた祝福の言葉を、ユーリは擽ったそうに受けている。
「いつものことだろ」
足掻きに足掻いて辛勝する。
ユーリの歩みはそういった類のものなのかもしれない。
だからこそ、皆は貴方に夢を見る。
御多分に漏れずわたくしも。
「……よし」
ミラがぼそっと呟いた。
次の瞬間、床を踏み鳴らすようにして駆け出す。
どこに向かうのかと思えばベッドの反対側へ。
白いナイトテーブルの上に置かれた花瓶に、ぐっと手を伸ばす。
カットが無数に施されたミルクグラスの花瓶には、一輪の花が生けられていた。
ハルジオンだ。あれは間違いなく、わたくしと十年の時を過ごした花。
「ユーリ! もう一回!!」
ミラが花を突き出す。
それを見て意図を察したのだろう、ユーリは罰が悪そうに顔を歪める。
それを皮切りに、意識がハッキリとしたものになっていく。
瞼の隙間から覗いたのは宵色の天蓋。
金糸の刺繍が星屑のように瞬いている。
ここは……お屋敷の中?
視界を傾けると、白く眩い壁が。
重ね塗りされた漆喰の上には、蔦や花々を模した美しいレリーフが連なっていた。
「エレノア様!」
「み、ら……?」
横になったままの状態で勢いよく抱き着かれる。
今日の彼女は深緑色の軍服姿。
治癒術師の正装に身を包んでいるようだった。
薬剤と……これはライラックの香りかしら?
香水もつけるようになったのね。
「会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった……っ」
ネグリジェの肩あたりがミラの涙で濡れていく。
変わらず素直であるようだ。
この十年、さぞ色々なことがあったでしょうに。
尊く、それでいて愛おしい。
わたくしは胸を熱くしながらそっと抱き返す。
「お加減はいかがですか?」
話しかけてきたのはレイだった。
服装は相変わらずの革製の黒のジャケット、パンツ、ブーツスタイルだ。
おまけに坊主頭で険しい顔つきで。
ふふっ、変わらないわね。
――そう思いかけて改める。
よくよく見てみれば、彼の下瞼は僅かながら確かにたるみ、額には薄くしわが走っていた。
彼も今年で三十九歳。十年という時の重さを痛感した。
それと同時に、肉体と精神の年齢が乖離してしまった自身の異様さも。
「ありがとう。少し怠いけど、それ以外におかしなところはないわ」
「では、ご容体について少しお話をさせていただいても?」
「お願い出来るかしら。そちらを踏まえて、相談に乗っていただきたいこともあるから」
「承知致しました。それでは」
レイは返事をするなり、褐色の手を白い扉に向けた。「一体何を?」と、わたくしが首を傾げている間に、扉が勢いよく開く。
「お゛わっ!?」
扉の向こうから紅髪の青年が現れる。ユーリだ。
どうやら聞き耳を立てていたみたい。
バランスを崩してつんのめっている。
「~~にすんだよ、師匠!!」
「しゃんとしろ」
「……っ」
レイに一喝されて唇を噛み締める。
その姿を見て、わたくしは思わず笑ってしまった。
今日の彼も上下白の軍服姿。
先日のものとは違って汚れも破れもない。
服装はこの上なく立派だけど、言動からはまだ幼さが見て取れて。
ユーリには悪いけどほっとする。
皆に置いていかれてしまったと、そう思っているからだろう。
バカね、エレノア。過去ばかり見ていないで、きちんと現在に目を向けなさい。
いくら足掻いたところで、もう取り戻すことは出来ないのだから。
自嘲気味に笑って手元のシーツを握り締める。
「何してんだ。さっさと来い」
「いいえ。その必要はないわ」
三人が揃って瞠目する。
驚き、戸惑い……。
そんな彼らの感情を、枢機卿仕込みの隙のない笑顔で躱す。
「ユーリ。悪いけど、出直してもらえるかしら?」
貴方には関係のないことだから。
言葉にはせずに、笑顔を深めることでそれを伝えた。
ユーリは顎に力を込める。
悩んでいる。わたくしの目にはそう映った。
なぜそんな顔を? 擡げかけた浅ましい期待を力任せに捻じ込む。
彼は優しいのよ。
父君を身を挺して守ったあの日から、何ら変わらず。
「聖女様は、命を焚べられた」
「っ! レイ」
レイは構わず続けていく。
ユーリに「残れ」と、そう命じるかのように。
「体力、魔力共に著しく低下している。過去の症例にもある通り、このまま衰弱されていくものと考えられます」
「余命は……」
ミラが説明を引き継いだ。
彼女もまたレイと同意見。
ユーリにもきちんと明かすべきだと考えているようだ。
沈痛な面持ちで続けていく。
「静養されるのなら二年。一日でも長く生きることを望まれるのなら、魔法は……っ、程度を問わず、使用をお控えいただかなければなりません」
「っ! それじゃ、癒し手は?」
「辞めざるを得ないだろうな」
「…………くそっ……」
ユーリは顔を俯かせた。
白い二つの拳が小刻みに震えている。
十中八九、自責の念に駆られているのだろう。
やはり、こうなってしまうのね。
いくら言葉を尽くしたところで結果は同じ。
大なり小なり背負わせてしまう。
死の真相は伏せるべきね。
予定通り、以降はごく限られた方にだけお伝えすることにしましょう。
「申し訳ございません。俺がもっと早く――」
「貴方が気に病むことではないわ」
「しかし――」
「これは報いなのです。あの日、わたくしは降伏した。皆の忠義を無下にしたのですから」
「違います! あれは、~~っ、あれはアタシやみんなを守るために――」
「戦意を喪失したに過ぎません」
「~~っ、違う!!」
ミラの濃緑の瞳が波打つ。
あの日の自分を恥じているのだろう。
何も出来なかった、ただ翻弄されるばかりだった過去の自分を。
「…………」
レイは無言のまま眉間にしわを寄せている。
真面目な彼のことだ、ミラ同様にあの日の自分を恥じているのだろう。
「変わらず、お優しいのですね」
口火を切ったのはユーリだった。
目を伏せて、口元には少し困ったような笑みを浮かべている。
「それだけに……掴めない……」
「どういう意味?」
ユーリが顔を上げる。
その目には強い意思が宿っていた。
覚悟と言ってもいいのかもしれない。
わたくしは激しく後悔した。
問い返したのは悪手であったと。
「あの日のように『結婚してくれ』と言ったら、貴方は俺の手を取ってくれますか?」
「……っ」
ユーリが一歩一歩と近付いてくる。
レイとミラが下がって、ユーリに道を譲った。
いいえ。わたくしは貴方の妻にはならない。
下を向くことで訴える。
これが今、わたくしに出来る精一杯。
ユーリが近付くたびに喉が乾上がっていく。
「お嫌なら、その時はキッパリ諦めます。ただ、もしも……変わらず、俺に夢を見てくれるというのなら」
ユーリの足が止まった。
彼は今ベッドの横に。
手を伸ばせば触れられるほど近くにいる。
「未来永劫、貴方だけを愛すると誓います」
その物言いには一片の曇りもなかった。
改めて思う。どこまでも眩しく、真っ直ぐな方であると。
叶うことなら、このままその胸に飛び込んでしまいたい。
だけど、それは決して赦されない。
これ以上、貴方を不幸にするわけには……っ。
「っ!」
衣擦れの音がした。
次の瞬間――栗色の瞳と目が合う。
しゃがみ込み、ベッドに肘を突くような格好で覗き込んでくる。
その瞳は挑発的でもあり、悪戯っぽくもあって。
ああ、……何ってこと……。
力強くも温かな光が、わたくしの心を照らしていく。
固く閉ざされていたはずの扉は次々と開かれていって。
「貴方と……共に在りたい……」
気付けば口にしていた。
心の奥底に封じ込めたはずの、その思いを。
「……どうしよう。すっげー嬉しい」
ユーリの口元から笑みが零れた。
爽やかで甘酸っぱい笑みが。
受け止めてくれた。
身勝手なありのままの思いを。
こんなにも……こんなにも嬉しそうに。だけど……。
衝撃は喜びに、喜びは悲しみに変わっていく。
残された時間はあまりにも短い。
二年なんて、そんなのあんまりだわ。
「及第点ってとこだな」
茶化してきたのはレイだった。
彼らしい皮肉の効いた祝福の言葉を、ユーリは擽ったそうに受けている。
「いつものことだろ」
足掻きに足掻いて辛勝する。
ユーリの歩みはそういった類のものなのかもしれない。
だからこそ、皆は貴方に夢を見る。
御多分に漏れずわたくしも。
「……よし」
ミラがぼそっと呟いた。
次の瞬間、床を踏み鳴らすようにして駆け出す。
どこに向かうのかと思えばベッドの反対側へ。
白いナイトテーブルの上に置かれた花瓶に、ぐっと手を伸ばす。
カットが無数に施されたミルクグラスの花瓶には、一輪の花が生けられていた。
ハルジオンだ。あれは間違いなく、わたくしと十年の時を過ごした花。
「ユーリ! もう一回!!」
ミラが花を突き出す。
それを見て意図を察したのだろう、ユーリは罰が悪そうに顔を歪める。
