沙央莉の顔がわかりやすく歪んだ。
「はっ?」
表情に怒気が走る。それでもなお、ひかるは続けた。
「それ、嫉妬ですよ」
「いや、そーゆーのじゃなくて。あの女のせいで、わたしの人生めちゃくちゃなの。いつもわたしの視界の端に映っていて、邪魔なの。だからわたしは……」
沙央莉はそこまで一息で言うと、残していたラテをいっきに呑み込んだ。ガタッと音を立てて立ち上がり、忙しなく帽子とマスクを着用する。帽子とマスクの隙間から、沙央莉の鋭い眼光が覗いた。
「返して。もう行く」
ナイフは、カウンター下のカトラリー収納にしまっている。無理に奪われることはなさそうだが、震えている沙央莉の手を見て、ひかるにも緊張が走った。心臓がうるさく音を立て、息が詰まりそうになる。
「ダメです。行かせられません」
ひかるは、ふるふると首を横に振った。
「ここにいる間だけ、という話でしょ」
「いまからあなたが誰かを傷つけると知っているのに、黙ってこれを渡すわけにはいきません」
「意見しないでよっ」
ひかるの方に向けられていた手のひらが、荒々しくカウンターテーブルを叩いた。ガタンッ、という音に思わず肩をすくめる。
マスク越しに、荒い息が微かに聞こえてきた。かなりの興奮状態にあるのは、一目瞭然だ。
「わたしは、あなたに話してと言われたから話しただけよ。止めてほしかったわけじゃない」
――なぜ、彼女に刃物なんか持たせてしまったのだろう。なぜ、こんなにも捻くれた思考を与えてしまったのだろう。
それは、ほかでもない。ひかる自身が、かつて抱いていた欲望だったからだ。誰かを殺したいという殺意なんかではない。鬼退治のようなものだ。自分の生活を脅かす邪魔者を排除出来たら、実際に行動に移せたらどれほど楽なことか。そんな、表では口にできないような黒く淀んだ感情の一切を、ひかるは沙央莉に押し付けたのだ。
沙央莉は、ひかるの欲望の塊だ。その欲望に呑み込まれ、もがき、苦しんでいる彼女を見て、ひかるは猛省する。なんでもっと、彼女が胸を張って生きていける道を用意してあげなかったのか。
それは、自分が弱い人間だったからだ。
自分が決め、信じた道の先に、必ず約束されたものがあるわけではない。それであれば、あとで言い訳がつくような、紆余曲折の道を選び取る。頑張れば目的地にたどり着けるかもしれない道ではなく、はなからたどり着けそうにもない道だ。いつも、苦しい方向にしか進むことができない。頑張ったところで、それが実らなかったときに傷つくのが怖いからだ。
さきほどサンゴに、キャラメルラテのような人生が正解で、自分はそんな人生を全うできたかわからないと言ったけれど、今よくわかった。
ひかるの人生は、空っぽだ。
何かを注いで、捨てて、また違うものを注いで、捨てて――。
一歩進んで二歩下がるような状態が、二十四年間ずっと続いていたのだ。
そんな空っぽなひかるが、彼女たちの結末を、偉そうに説けるのだろうか。彼女たちに会えたのはこの上ない幸せだが、その幸せには、責任も伴うのだと痛感している。
――彼女たちの物語を始めてしまったのは、わたしだ。
「嫉妬は、何も悪いことじゃないです。あなたは、その嫉妬心が邪悪なものだと思っているから、だからその人を消して、自分の視界に一切の障害物をなくしたいんじゃないですか」
「…………」
「わたしも同じでした。ただわたしは、目を背けることで視界から彼女たちを消していました。逃げていたんです」
もともと、ひかるは競争の世界が嫌いだ。自分がそんなつもりはなくとも、相手から敵対心を向けられると、どうぞどうぞと道を譲ってしまう。それで自分の心を守ることはできたけれど、尊厳は傷つけられた。
「じゃあ、わたしの気持ちがわかるでしょ」
「ええ、痛いほどわかります。だからこそ、いまあなたを行かせたくないんです」
ひかるは、カウンター越しに沙央莉の両手をそっと包み込む。沙央莉は驚いたように肩を上げたが、拒むこともなく固まったまま動けないでいるようだった。
「わたしは、彼女たちから逃げたことを後悔しているんです。どうせ自分なんてと自身を否定して、傷つけた。だから、わたしはちゃんとした人になれなかったんだと思います。あなたがいまその憎い相手を殺してしまえば、より自己嫌悪に陥るだけじゃないですか?」
沙央莉が俯く。かろうじて見えていた瞳もキャップに隠れ、一切感情が読み取れなくなった。
「じゃあ、どうしろっていうの」
手が振り払われ、沙央莉に背を向けられる。鼻を啜る音が、微かに聞こえた。
本来であれば、ここでその答えを与えるのはナンセンスなのかもしれない。それでも、ひかるは自分の使命を果たすために答えを与える。
「その悔しさをバネにして、自分の成長につなげるんです」
「そんなこと、できたらとっくにしてるわよ」
「世界は、もっともっと広いんです。いろんな場所に行って、いろんなものに触れて、そのうちにたくさんの人と出会います。だから、諦めちゃいけません。頑張るんです」
いまの時代、この言葉はコンプライアンスに反するだろうか――。
そんなことが頭によぎりながらも、ひかるは実感する。沙央莉に向けたその言葉こそが、ひかるがずっと、誰かからもらいたかった言葉だったのだと。
何もかも「仕方ないよね」「頑張りすぎないで」という生ぬるい優しさが享受される世界で、ひかるが実は求めていたのはこの言葉だったのではないかと。
沙央莉の顔が、ゆっくりとこちらを振り返る。感動的な言葉は何一つ掛けられなかったけれど、その瞳は揺らいでいるように見えた。
「……そんなこと言われたって、どう頑張ればいいのかわからない」
「あなたなら、きっとできます」
「何を根拠にそんなこと――」
「大丈夫です。あなた次第で、どうにでもなる」
どうにでもできるから、ひかるは彼女たちの世界が好きだ。
人生、いくら修復しようとしてもうまくいかない。どうにか踏ん張ろうと立ち上がってみても、誰かが膝裏めがけて奇襲を仕掛けてくるのだ。そんなことが続けば、膝どころか心まで砕けてしまう。
しかし彼女たちは、立ち直ることができる。どれほど打ちのめされても、最終的には、ひかるが示す道へまっすぐと進んでいくことができるのだ。それが、心底羨ましくも思う。有希や、さくらや、沙央莉と同じ世界で生きられたら、自分ももっと真っ当に人生を歩むことができたのではないだろうか。
「お代はいりません。包丁は、いただきますけど」
武器を奪われた沙央莉は、その場でしばらく立ちすくんでいた。一度、大きく深呼吸をすると、カウンターに置いたままの手を離し、姿勢を正す。そして、何度か小さく頷いた。
「……どうかしてた」
ふと我に返ったのか、ひかるに向けられた視線にとげとげしさはなくなっていた。
「あの女を殺せば、わたしは一生を棒に振ることになってたわ」
悲しみや苦しみ、嫉妬、そして先ほどまでの攻撃的な色の残滓は見えるもの、取り返しのつかないことに手を染めることはなさそうに見える。
ひかるは「よかったぁ」と思わず声を漏らした。それを見て、沙央莉がわずかに微笑んだのがわかる。白いマスクが少しずれて、わずかに見える目まで覆いつくしてしまいそうになっていた。
「ありがとう、ひかるさん」
ひかるは、首を横に振る。
所詮はすべて、口だけなのだ。
二十四年間という、人生においては短い期間で感じた「ああしておけばよかった」という後悔を、教訓にしていただけ。そして、その教訓を生かし第二の人生を歩み始めたところで、呆気なくひかるの人生は幕を下ろしたのだ。
これから沙央莉は、心を入れ替え、新たな人生を歩むことになるだろう。まずは正規の職場を見つけ、そこで出会った人たちと彩りのある毎日を送る。そこでは心底嫌な人もいるだろうし、逆に、驚くほど気が合う人もいるかもしれない。そういった人たちに心を揺れ動かされながら、良いことも悪いこともひっくるめて、これが自分の人生なのだと割り切れる日が訪れるのだろう。そのときに初めて、殺意を抱いた相手を殺さずに踏みとどまれてよかったと、なぜあんなことで憤っていたのかと、自分を省みることができるはずだ。
「わたしは、ずっとあなたの味方です」
扉を開け、去っていく沙央莉の背中に最後にそう言い添える。
沙央莉は一度も振り返ることなく、森を抜けていった。
扉を閉じ、一人になった店内に戻る。窓近くのテーブル席に腰を下ろして、大きく伸びをした。肩の力を抜き、深呼吸をする。
サンゴに伝えた未練解消の相手は、あと一人。それを終えれば、ひかると現世を繋ぐ細い糸は途切れてしまうのだろう。彼女たちと出会い、少々浮かれていた自分に突如として現実が迫ってきた。
本当に、これでいいのだろうか。
これでいいのだと思いたい脳と、それとは対照的に沈んでゆく心。廃人のように過ごしていたあのころと同じ感覚を思い出し、気持ち悪くなる。
――ドンドンッ。
その音に、顔を上げた。窓の向こう側で、サンゴが飛び回っている。
急いで窓を開ければ、サンゴは桟に止まった。
「どうした」
「えっ」
「浮かない顔をしている。何かあったのか」
「いえ、何も。大丈夫です」
うまく頬が動かない。それでも、無理に口角を上げた。しかし、サンゴの見透かすような視線は、ひかるの虚勢を打ち砕く。
「……いまから、未練解消の相手を一人増やすなんてことは、できないですよね」
窺うように問いかけた。サンゴは呆れたような大きなため息をつくと、首を横に振る。
「だから、本気で言っているのかと聞いただろ。こうなることは、わかっていた」
「……そうですよね。無理なら大丈夫です。ごめんなさい」
「お前は、意志が弱すぎる」
「ごもっともです」
そんなこと、自分が一番よくわかっている。
思わず肩をすくめた。
「なぜ、そんなすぐに引き下がるんだ」
「えっ」
「自分の死体を見てもあまり驚かない。最期の場だというのに無理なら大丈夫だと諦める。なぜお前はそんなに無欲なんだ」
「無欲……わたしがですか?」
自分とは遠くかけ離れたところにありそうな言葉に、困惑する。自分は誰よりも欲しがりで、わがままな人間だと思っていた。
「いまから、未練解消の相手は増やせる。ただ、時間は限られているからのんびりはしていられないぞ。いまならまだ間に合う」
どうする、と急いたように問われ、戸惑った。
正直、その人に会いたいかどうかもわからない。突き放したのは自分だし、いまさらなんだと思われるかもしれない。顔を合わせたとき、拒まれてしまったら傷つく。傷つきたくない。
「いや……大丈夫です、本当に」
またもやサンゴにため息をつかれると思い、声が尻すぼみになった。案の定、先ほどと同じくらい深いため息をつかれる。
「それでいいのか、本当に」
いまさら、彼に会いたいだなんて身勝手な話だ。
そう思いながら、ひかるはひとりの男の名前を口にした。
「――じゃあ……大塚時弥。できれば、彼にも会いたいんですけど」
「わかった。間に合うよう手配する」
「ありがとうございます」
サンゴは鼻でふっと笑うと、ひかるに尾を向けた。
「時間がなければ、次が最後だ。悔いが残らないようにな」
「はいっ」
あっさりとした物言いに、本当に自分の最期が近づいているのだと思い知る。自分自身が選択したことに、サンゴが慈悲を抱くはずがない。自業自得なのだ。最期の最期まで、中途半端な自分に笑えてくる。
空に飛び立つサンゴを見送り、窓を閉じて最後の客を待った。
ひかるが書いた、物語の主人公を――。



