サンゴの言った通り、ひかるの目の前に現れたのは危険人物だった。普通なら頭の中でピーピー警報が鳴っているところだろうが、ひかるはその人物をよく知っている。
目深に被られたキャップ、マスク、ナイロンジャケット、ストレートパンツ、スニーカー。あらゆる装着物を黒でまとめあげ、決定打に禍々しい光を放つナイフが右手に握られている。胸を上下させ、息を整えているその女性に、ひかるは「そんなところに立っていないで、とりあえず座りませんか?」と促す。ひかるの言葉に、女性は打たれたように顔を上げた。
彼女の名前は、浦沙央莉。二十八歳のフリーターだ。
沙央莉は呆然としてその場に立ち尽くしていたが、しばらくしてひかるに言われた通り、カウンター席に腰を下ろした。
グラスを手に取り、浄水器から水を入れると、沙央莉に差し出す。沙央莉はそれを素早く受け取ると、首を後ろに倒す勢いで水を飲み始めた。口の端からは、含み切れなかった水が一筋、細長い首に向かって垂れていっている。
沙央莉は相当喉が渇いていたのか、あっという間にグラスの中身を飲み干した。そして、口元を手の甲で雑に拭うと、訝しげな目をひかるに向けた。
「あなたは、わたしが怖くないの?」
「どうしてですか」
「だってわたし、こんなものを持っているのに」
カウンターの上に置かれた右手には、まだナイフが握られている。
「そうですね。森の中でそんな物騒なものを持っていたら、穏やかではないですね。でも、あなたにはここに来た理由があるでしょうから」
ひかるは、ふぅと小さく息を吐くと、沙央莉の眼前に手のひらを向けた。
「危ないので、とりあえずここにいる間だけは、わたしに預けてもらえませんか、それ」
沙央莉の目が大きく見開かれる。そして、周囲を警戒するように視線を動かした。
「誰もいません。ここにいるのは、わたしとあなただけです」
測るような目を向けられ、初めて緊張が走った。
彼女には、悍ましい感情を与えてしまった。もしかしたら、向かうべき道を提示したところで、自分の意思を優先してしまうかもしれない。気を引き締めなければいけないと思うと、額に汗が浮かんだ。
ふと、沙央莉の視線が逸らされる。諦めたのか、手に持っていたナイフの刃先を自分の方へ向けると、柄の部分をひかるに差し出した。
「ありがとうございます」
ひかるはナイフを受け取ると、すぐにカウンター下へと隠した。気を取り直し、沙央莉にメニュー表を向けながら「何か飲みますか」と聞く。
「普通のラテ」
帽子とマスクを外した沙央莉が、ぶっきらぼうに答えた。手櫛で適当に結ばれたであろうポニーテールと、乾燥した肌が露になる。その姿は、三十代と言われても信じて疑わないほど、やつれていた。これまでの沙央莉の苦難が窺える。黒くて暗い、よからぬ方向に働こうとしているエネルギーが、さくらが残していった若々しく明るいエネルギーを呑み込んでしまっていた。
「……喜んで」
ひかるは、沙央莉が突飛な行動に出るのではないかと警戒しながら、注文の品を作り始めた。
カフェラテで使用するエスプレッソは、アメリカンコーヒーと同じ工程で作られるが、今回は少しタイミングが違う。ポルタフィルターをセットし、抽出されるエスプレッソがマグカップの内壁に沿って落下するように置く。ここではまだ、抽出ボタンは押さない。
次に、牛乳をミルクジャグに注ぐ。スチームノズルを、表面から深さ一センチほどのところで留めた。先ほどは、ジャグからミルクが溢れそうになるくらい泡をフォーミングしたが、今回は注いだミルクの十パーセントから二十パーセントの泡を作らなければいけないので、調整が難しい。
そっとレバーを上げると、チリチリと音が鳴り始める。
チリチリ――二回目。
三回目が鳴る直前で、ミルクジャグを少し持ち上げる。同時に、片手でエスプレッソの抽出ボタンを押した。マグカップの内壁にしっかりと落下していくエスプレッソを横目に、ミルクジャグの温度計に視線を移す。
適温でレバーを下げ、ミルクジャグをトントン、くるくる。ミルクの表面を滑らかにする。綺麗なクレマで覆われたエスプレッソを壊さぬよう、高い位置から細くミルクを注いでいき、徐々に低い位置へと下げていった。最後は、真ん中に泡を乗せて完成だ。
ラテアートなど、洒落たものはできない。沙央莉も、そこにこだわりはないだろう。
「お待たせしました」
完成したカフェラテを、沙央莉の前に置く。「いただきます」も「美味しいです」もなく、ただ淡々と、静かに味わい始めた。
シンクで洗い物を進めながら、そっと沙央莉の様子を窺う。
いまから彼女は、人を殺しに行く。
それも、かなり決心が固まっていて、ここから気持ちを変えさせるにはそれ相応の説得が要される。そのためにはまず、相手に自分が味方であるということを伝えなければならない。
蛇口を閉め、タオルで手を拭く。カウンターを挟み、沙央莉に向かい合うように立った。
「わたし、遠山ひかるって言います」
突然の自己紹介に、沙央莉は唇に触れていたマグカップを離す。驚いたように上げられた顔、鋭い双眸には、警戒心が窺えた。
「驚かせてしまってすみません。ここでは、飲み物を添え、お客様の悩みを聞かせていただくのが、わたしの役目なんです」
沙央莉はふっと鼻で笑うと、ふたたびマグカップに口をつけた。
「……あなたに話すことなんて何もないわよ」
目が逸らされる。それでも、ひかるは諦めたくなかった。
「誰かに話せば、少しは楽になるかもしれません。聞かせてください。あなたが刃物を持って、ここに現れた理由を」
「そんな簡単に話すわけないでしょ」
「そうですか……」小さく息を吐く。「でも、これだけはわかっていてほしい。わたしは、あなたの味方ですよ」
話したくなったら、話してください。
そう付け加えると、ひかるは作業台をクロスで拭き始めた。
木製のテーブルが擦られる音と、店外から聞こえる微かな小鳥のさえずりが、この重い空間をわずかに和らげている。
「……あなたはさ、」
ふと、沙央莉が口を開いた。話す気になってくれたのか、ひかるのことをじっと見つめている。
「本気で人を殺したいと思ったこと、ある?」
呆然とするひかるに、女性は嘲るように鼻で笑った。
「ないか。ないから、そんな無頓着に聞けるのか」
無頓着。つい先ほどまで、ひかる自身がさくらに対して抱いていた印象だった。なんだか恥ずかしくなって「すみません」と小さくなる。
しかし、謝ることでもないということにすぐ気づくと、ひかるはまた、無頓着な質問を沙央莉に投げかけた。
「殺したいほど憎い人が、あなたにはいるんですか」
「そうね」
「その人の、どこが憎かったんでしょう。殺意を抱くほどのことをされた、ということですよね」
女性は、きっと目つきを鋭くすると、機嫌を損ねたように、頬杖をついてそっと目線を逸らした。
無理もない。嫌いな人間の話題を出されるのは、あまりいい気分ではないだろう。
「全部よ。あの女……あの女さえいなければ、わたしは――」
その横顔が、悲痛で歪むのがわかった。唇をかみしめ、潤んだ瞳が少々赤くなっている。ひかるの胸は、ずきずきと痛んだ。
ここまで彼女を苦しませているのはひかる自身だというのに――。
ひかるはひどく後悔している。事情はすべてこちらで把握済みだ。でもそれを彼女に伝えてしまったら、強く責め立てられてしまうだろう。最悪、彼女に刺殺されるのはその相手の女性ではなく、ひかる自身になってしまうかもしれない。
とはいえ、もう死んだ身だ。刺されたところで何の問題もないのだろうけど、正常に働いている五感からして、痛みは感じるはずだ。それは、嫌だ。
痛いのも、苦しいのも、極力味わいたくない。
「あの女、というのは?」
おそるおそる聞いてみる。きっとはぐらかされるだろうと思っていたが、沙央莉は案外簡単に答えてくれた。そんな簡単に話すわけない、と言っていたのに。
本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「その女は、高校時代に、一緒にサッカー部のマネージャーをやってたの」
高校時代というワードが、二十八歳の彼女からから出てくるのは、少々違和感のあるものだ。
しかし、そのときが沙央莉にとって「いい子」の全盛期だったのだ。
単位をギリギリ取り終えるほど惰性で過ごした大学生活。テニスサークルと称された飲みサークルでは、異性の先輩とベタベタするのが沙央莉の楽しみでもあったが、そういう関係の異性が片手では数えきれなくなったあたりから、虚しさのほうが強くなった。
新卒で入った会社は三ヶ月で辞めたときには、いろいろな場所を転々としていたけれど、短期間のうちに何度も入社退職を繰り返す人間など若いからといって簡単に許してもらえることもなく、沙央莉の働き口は徐々に狭まれていった。
それでも、夜の仕事には手を出さなかった。おじさん相手に愛嬌を振り撒く自信はなかったし、何より「落ちぶれた人が行き着く場所」という偏見が拭えなかった。沙央莉自身も、そのときにはだいぶ落ちぶれていたのだが、真面目で努力家だっまあの頃の自分を思い出すと、やすやすと夜職に手を出すことはできなかったのだ。
しかしいま、彼女は真面目とは対極の位置にありそうな犯罪に、手を染めようとしている。
「どんな人なんですか」
「卑怯者」
沙央莉は、短くそう答える。そして、まだ湯気が立ち上るマグカップを口につけると、ごくりと飲んだ。
「……卑怯者」
「そう、卑怯者。あの女、結婚したんだって。わたしが高校時代に付き合ってた、サッカー部の同級生と。なんだっけ、こういうの、略奪愛っていうの? よくドラマとかであるみたいだけど、現実で起こったらとんでもないね、ほんと」
ひきつった表情。無理に明るく話している。その姿が、なぜかかつての自分と重なる。彼女のどこが、ひかるをそう思わせるのかはわからない。
「その元カレさんとあなたは、いつまで付き合っていたんですか」
「言ったでしょ、高校時代。十年くらい前」
「その、あなたが憎くてたまらない女性は、いったいいつからその彼とお付き合いを?」
「二、三年前らしいよ。部活のOB・OG会で久しぶりに会って、そのままゴールインってとこ。そもそも、わたしはその会に誘われてすらないんだけど」
拗ねたように眉をぴくりと上げた。
正直なところ、同情の余地もない。相手に一切の非がない、ただの身勝手な恨み。そこから伸びた蔓が、一人の女性に絡まり、その命を搾り取ろうとしている。
これ以上、沙央莉の機嫌を損ねさせるのは危険だ。わかってはいても、口から出るのは本音ばかりだった。
「時効、じゃないですか。少なくとも、略奪ではないと思いますけど」
「略奪だよ、あれは。いま思い返してみれば、高校時代のときからそういう節があった。必要以上に部員たちと関わるし、距離が近いってゆーか。わたしは黙々とマネージャーの仕事してるのに、あっちは部員と話してばっかり。一回注意したこともあるけど結局直らなかったし、そういう、男に対してすぐ媚びを売るようなところがあるような子だった。小悪魔とか、ぶりっ子っていうのとも、ちょっと違う。大して可愛くもないのに、いいところを何かと持って行っちゃうのよ。とにかくわたしはあの女が気に入らないの」
気に入らないのであれば、気にしなければいい。視界に入れなければ、負の感情を抱くこともない。それでも、人は幸せそうな人間と自分を比べてしまうものなのだ。二十代を中盤に差し掛かると、それは顕著になる。アラサーの沙央莉は、より敏感だろう。
「ちゃんと、真面目にやってきたわたしが独身アラサーフリーターで、あの女は結婚して玉の輿。どれだけ目に入れないようにしても、共通の知り合いのSNSで流れてくる。あの女が、何の苦労もせずに、幸せそうに笑っているのが許せない。わたしの視界から、消えてほしい。苦痛で歪む顔を見てみたい。あの女さえいなければ」
ああ、そうか。似ているんだ。こういうところが。
不器用だからこそ、真面目に生きるしかなかった。小さいころは「いい子だね」と褒めてもらえることが多かったが、成長するにつれ、真面目過ぎない器用な人間が評価されることのほうが大半だ。それを悟るか悟らないかで、人生の歩み方はだいぶ変わってくるだろう。沙央莉は、それを認めることが怖くて、拗らせているのだ。
ひかるは小さく息をすっと吸う。
「嫉妬ってやつですか」



