ユートピアに、珈琲を添えて



「えっと、野川さくら、都立高校に通う二年生です」

「さくらさん……わたしは、遠山ひかるです。見ての通り、ここでこじんまりと珈琲店をやっています」

「ひかるさん、よろしくです」

 軽く会釈をすると、さくらは「んー何から話せばいいかな」と顎に手を添える。

「もしかして、友達関係の悩みじゃないですか?」

「あ、はい! それです、それ! え、やばっ」

 さくらはよく喋る。喋るわりに、話術に長けているわけではないということは、ひかるのあずかり知るところである。言葉の引き出しが極端に少ないのだ。いま彼女の口から漏れた「やばっ」という言葉は、驚きにも喜びにも使える便利さがあるけれど、どうにも安っぽい。日本語には美しい表現がたくさんあるというのに、もったいないな、と思う。

 ひかるがさりげなく出した助け舟に、さくらは「よくわかりましたね!」と何の疑いもなく乗り込んできた。人の悩みはたいてい、仕事か人間関係だ。それが高校生となれば、部活かバイトか人間関係。帰宅部でバイトもせず、家庭環境も悪くないさくらには、人間関係の悩み以外に何があるというのか。

「実は最近、うちのクラスに女の子が転校してきたんです。その子とどうしても仲良くなりたくて、でも、高嶺の花――というか、孤高、っていうんですかね。ぐいぐいいっても軽あしらわれて、もうどうしたらいいんだろーって」

 笑ったかと思えば、次は眉を垂らし、最後には唇を突き出す。少しの間で七変化する表情に圧倒されながらも、ひかるは問いかける。

「さくらさんは、どうしてその子と仲良くなりたいんですか?」

「その子、めちゃくちゃ可愛いんです!」

 さくらの体が、前のめりになる。「お顔がもうきゅるるんとしてて、まるでアイドルのような!」と、興奮しながら続けるさくらに、多少の鬱陶しさを感じながらも耳を傾ける。

「なるほど。お顔がドタイプってことなんですね」

「ですです! ほんっとーに、お人形さんみたいに可愛いんですよ!」

「へえ。さくらさんにとって、ものすごく気になる存在ってことですね」

「はいっ!」

 さくらの熱量をまともに受け、頭がくらくらする。マグカップを口につけ、何口かアメリカンコーヒーを摂取すると、心が落ち着いてきた。さくらもひかるに倣い、冷めないうちにとホットチョコレートを飲んだ。伏し目がちになったさくらの顔に、ちらりと視線を向ける。

 地味な顔立ち、相手の領域に無許可でずかずかと踏み込む無頓着さ。高校時代の自分にそっくりで、憎たらしい。客観的に見た自分はこうだったのかと思うと、高校時代の友人には恥ずかしくて顔も合わせられない。

 さくらは、幼い頃から自分の容姿が嫌いだった。もともとぽっちゃりとした体型だったが、いじめられるような対象ではなかった。ただ、そのことを友達に限らず親からも「大福みたいで可愛いね」と揶揄われてはいた。それが地味に傷ついて、中学に上がってからはダイエットに熱を入れ、卒業のときには、小学校の卒業式のときから十キロほど体重を落とすことに成功した。

 しかし、痩せてからも、さくらのコンプレックスは絶えなかった。重たい一重瞼、低い鼻――横から見たら平面的に見える自分の顔に嫌気がさし、整形したいと思い始めるようになる。いざそれを親に打ち明けたときには「親からもらった顔をいじるだなんて、ありえない」と叱責を受けた。

 自分の容姿は、もう変えられない。だからこそ、今回のように容姿端麗な同性を見つけると、すぐに友達になりたがった。自分が持っていないものを隣に置くことで、自分がそれを装備している気分になるからだ。しかし、さくらは「装備している」という自覚がない。そして自覚がないのは、一番たちが悪い。

 ひかる自身も、可愛い友達をステータスだと思っていた時期があった。合わないグループに無理矢理体をねじ込み、合わせるよう努力した。可愛い子と一緒にいれば目の保養だけでなく、その子に見合うようにと自分磨きに全力を注ぐことができるからだ。

 でも、大人になってわかった。それが、どんなに哀れで無意味だったのか。

 周りの目を気にしての磨きは際限がないし、目的地が曖昧なため、途中で迷子になってしまう。

 さくらに、その悲しい現実を伝えるつもりはない。とことん、傷つけばいい。傷ついて、身に染みて感じてほしい。

「どうすれば、仲良くなれますかね」

「いつもは、どんな感じで声をかけてるんですか?」

「教室移動一緒に行こうとか、放課映画観に行こうとか、いろいろです。その子、何が好きなのかわからないから」

「積極的だね」

 やはり、憎らしい。それでいて、羨ましくもある。

 大人になってから、人を誘うということが極端に少なくなった。もともと、自分から誘うことは少なかったけれど、高校を卒業してからは、片手で数えられるほどだった。無垢な十代だからできることなのだろう。
 二十代を数年間生きて気づいたことは、これから先、取捨選択の機会がどんどん増えるということだ。お金も時間も足りず、他人にそれを割くのが億劫になってしまったり、逆に自分のためにそれらを割いてくれるのが申し訳なくなったりもする。最近は、人から誘われると変に身構えてしまうことが増えた。そんな自分が薄情で、嫌になる。

 きっと、というか絶対、その転校生――柏葉(かしわば)怜早(れいさ)もひかると同じ気持ちなのだ。どんな経緯があってそんな淡白になってしまったかはわからないけれど、すでに達観しているのだ、この世界を。

「対話、してみるのはどうでしょう」

 ひかるは、そう提案した。
 偉そうに言っておきながら、自分が高校生のときには対話らしい対話をしたことがない。

「対話、ですか? 会話じゃなくて?」

「うーん……」

 ――しまった。大人の視点からでしか答えられない。
 高校生の視点からのアドバイスをするべきだった。しかし、高校生のころの記憶など、ここ最近は次第に薄れてきている。あのときの物の捉え方や感情など、もうだいぶ遠いところに置いてきてしまった。悩んだ末に「ごめんなさい」と呟くように謝る。

「ごめんなさい。実は、わたしにもよくわからないんです」

「えー。ひかるさん大人なのに、わからないの?」
 
 大人だからといって、この世のすべてを知っているわけではない。

「わたしも高校生のときには同じことを思っていました。大人はすべての答えを持っていて、だけど、わたしたちに考えさせるためにその答えを隠しているのだと」

 しかし、それは違う。

「わからないだけなんですよ。自分でもわからないから、その一言で尊い子どもの未来が決まってしまうかもしれないから、言えないんです。みんな、大人のふりをした子どもってよく言うけど、大人なんて本当はいないのかもしれません」

「んー、よくわかんないです」

 さくらが首を傾げる。そして、ひかるの手元にあるマグカップに視線を落とした。

「でもひかるさんは、コーヒー飲めてるじゃないですか。それ、ブラックコーヒーっていうんですよね? じゅうぶん大人ですよ」

 先ほどの大田南畝の話は、すっかり抜け落ちているのだろう。それでも、屁理屈で励ます健気な姿は愛らしい。

「わたしも昔は、キャラメルラテしか飲めませんでした。とにかく甘いものが大好きで――あのときのわたしにコーヒーを飲んでいる姿を見せたら、心底驚かれると思います」

 苦いものなどこの世界には必要ないと思っていた。エスプレッソも、ゴーヤもピーマンも、自分の人生において不要だと。

「いまはもう、甘いのが嫌いなんですか?」

 ひかるは首を横に振った。

「大好きです」

「じゃあ、キャラメルラテを飲めばいいのに」

「苦いものを味わってこそ、甘いものに感謝することができるんです。人生もたぶん、そういうことなのかもしれません」

 そっと、マグカップを持ちあげる。

「わたしは大人ではないので、わからないんですけどね」

 そう付け加えると、さくらはまた難しそうな顔をした。すぐに色を変えるさくらの表情に、頬が自然と緩む。

 アメリカンコーヒーを一口飲み、またテーブルに置く。さくらの視線が、そちらへと向けられる。あまりにもじっと見つめるものだから、気になって「どうかしましたか?」と聞いてみると、はっと顔を上げた。

「あの、一口、飲んでみてもいいですか?」

「もちろん。どうぞ」

 マグカップを差し出すと、さくらは「ありがとうございます」と受け取る。そして、おそるおそるといった様子で、マグカップに口をつけた。

「苦っ!」

 極端に歪んだ表情と、あまりにも素直な叫びに、思わず笑ってしまう。

「いいんです。その苦みにも、ありがたさを感じる日がきっと来るはずですから」

「そう、ですかね……」

 さくらは「ごちそうさまでした」と、ひかるにマグカップを差し戻した。

 先ほどまでの快活な雰囲気とは一転、顔を俯かせ、弱々しい声色でさくらが言う。

「結局、わたしはどうしたらいいんでしょう」

 ――そうか。

 これはただの人生相談ではない。ひかるはきちんと、彼女の道筋を示さなければならない。答えを、与えなければならないのだ。ここはひかるに与えられた、未練解消の場なのだから。

 束の間の沈黙を、アメリカンコーヒーで埋める。
 鼻腔に焙煎されたコーヒー豆の香りが充満し、ほのかな苦みが舌を濡らした。

 ふぅ、と息をつき、一度椅子に座りなおす。

「その子の心を、見てあげればいいんじゃないでしょうか」

「心……?」

「はい。目に見えるもので判断するのは簡単ですが、目に見えないものをわかってもらうっていうのは、その子にとっても救いになるはずです」

「でも、その心を見るには、どうしたらいいんですか。見せてってお願いしても、そう簡単には見せてくれないですよね。だから、目に見えずに隠されているんですもんね」

「いま、さくらさんがわたしのコーヒーを飲んだみたいに、そっと触れてあげればいいんです」

 さくらの視線が、ひかるのマグカップに留まる。ひかるも、同じように視線を向けた。

「ちなみにさくらさんは、彼女のことをコーヒーだと思いますか?」そして、さくらのマグカップへと視線を動かす。「その、ホットチョコレートだと思いますか?」

 さくらが、難しそうに首をひねる。飲食店で働いていたころ、たとえ話をしたときに大学生がひかるに見せた表情によく似ていた。たとえ話がわかりづらいと、よく困らせたものだ。

「んー。ちょっと難しいですけど、ホットチョコレートだと思います。だってわたし、甘いの好きだし」

「そうですか。ではもし、彼女がコーヒーだったとしたら――見た目だけでホットチョコレートだと判断されて、一気飲みされた挙句に『苦っ』なんて言われてしまえば、少なくともいい気持ちではありませんよね」

「あぁ、たしかに」

 初めて手ごたえを感じた。うまく伝えられるかもしれないと、ひかるはそのまま続ける。

「もしかしたら、幻滅させてしまった、とさえ思ってしまうかもしれません。彼女が見た目と中身のギャップに苦しんでいたとしたら、自分をホットチョコレートだと思ってる者は拒むしかないんです」

 さくらが、申し訳なさそうに肩をすくめる。

「じゃあわたしは、その子をコーヒーだと思えばいいってことですか?」

「はい。自分の理想とは対極のところに、彼女を置いてあげてください。そこまでして、本当にその転校生と友達になりたいのであれば、ですが」

「……なりたいです」

「それは、コーヒーかもしれませんよ」

「それでも、なりたいです」

 前のめりになったさくらに、ひかるは微笑み返す。

「ひかるさんみたいに、いつか飲めるようになるかもしれないし……甘いのが好きでも、苦いのも味わえる大人になりたいです。苦いかもしれないからって、怖気づいて諦めるのは嫌なんです」

「それなら、頑張ってください。応援しています」

 さくらは、納得したように何度も頷いた。そしてホットチョコレートを一気に飲み干す。

「お代はいりません」

「ありがとうございます。ごちそうさまです」

 もともと払うつもりはなかったのだろう。一度もつっかえることなく、流れるように立ち上がり、スクールバッグを肩に掛けると、ストラップが嬉しそうに揺れた。そのまま、扉の方へと向かっていく。

 ノブに手を掛けたさくらに「ちなみに」と、ひかるは後ろから声を掛けた。

「わたしが一番好きなものは、キャラメルラテです」

「えっ」

 そのまま、さくらが振り返る。

「苦いのも甘いのも同時に味わえるから。きっと人生の答えは、それなんだと思います」

「じゃあ、なんでコーヒーを飲むんですか? 好きなものがあるなら、そっちを飲めばいいのに」

「最初から、甘いものをもらいすぎたからかな。それで、人生の帳尻合わせをしているんです」

「チョウジリ……?」

 さくらが、首を横に倒した。脳内辞典を検索して、言葉の意味を理解しようとしているのだろう。宙に視線をやったかと思えば、その瞳がコロコロと、あっちこっち転がっている。しばらくして考えることをやめたのか、八の字になった眉をひかるに向けた。

「なんかよくわからないけど、ひかるさんも大変ってことですね」

「そんなことありません。わたしはちゃんと、幸せでした」

 あなたがいれくれたおかげで、という言葉は呑み込んだ。

 扉を開けたさくらに、最後に言葉を掛ける。

「次は、怜早さんも連れてきてください」

「はいっ。……って、あれ。わたし、怜早の名前出しましたっけ?」

 少しひやりとしたが、今度は早々に思考を切り上げ「まぁいっか」と、両頬にえくぼを浮かべて微笑んだ。

「必ずまた来るので、ひかるさん、それまでちゃんといてくださいねっ」

「はい、わかりました」

 さくらとの約束は、守れないだろう。そのときにはもう、ひかるの魂は天高く昇っているはずだ。

 緑に囲まれた道をときどき振り返り、さくらがこちらに手を振ってくる。ひかるはそれに応えるように、大きく手を振り返した。
 どんどん、さくらの背中が小さくなっていく。いよいよ坂に差し掛かり、つま先から頭のてっぺんへ、徐々に見えなくなっていくその姿を見送ってから、大きく伸びをした。

 店の中へと戻り、扉を閉める。

 さくらが残していったエネルギーが、まだ店内の空気に漂っていた。高校生のパワーはすごい。

 二つのマグカップをシンクへと運び、一度洗い物を済ませる。

「よし」

 空気の入れ替えをしようと窓を開くと、その瞬間を待っていたかのように、黒い物体が店内へと入り込んできた。思わず仰け反ってしまったけれど、その正体はサンゴだった。

「ホットチョコレートとコーヒーを出したのなら、その中間にあるべきはカフェモカなんじゃないのか?」

 戻ってきての第一声がそれだった。
 揚げ足を取ってくるようなサンゴの言葉に、一瞬湧いた苛立ちを抑え込む。カウンターから濡れたクロスを取り、使用したテーブルを拭き上げた。

「細かいことは気にしないでください。即席の言葉なんてこんなもんです」

「はっ、なんだそれ」

 嫌がらせかのように、サンゴがテーブルの上に立つ。無意識なのか、悪びれた様子もない。ぱたぱたと広げた翼からは黒い羽根が一枚舞い落ちた。それを拾い上げ、窓から外へ落とす。サンゴは、ひかるの行く先々についてくるようで、今度は窓の桟に留まった。

「二十四年ごときで人生を語るとは、偉いご身分だな」

「はじめは、二十四年も生きたって言ってくれたじゃないですか」

「そうだったか? 忘れちまったな」

「カラスって、めちゃくちゃ記憶力あるし、頭もいいって聞きますけど」

「それは否定しない」

 思わず、ため息が漏れ出た。優しいのか意地悪なのか、わからない。

「でも、コーヒーで人生を例えるならやはり、キャラメルラテだと思います」

「ほう。それはどうしてだ?」

「甘い経験も、苦い経験も、ごちゃごちゃだけど、最終的にはホイップとキャラメルソースで甘く仕上げてもらえるんです。人生も、苦いまま終わるのは嫌じゃないですか」

「なるほどな」

 わかっていなさそうな声で、サンゴが相槌を打つ。こちらに尾を向けていたサンゴが、体ごとこちらに振り向いた。そして、そっとひかるに視線を向ける。

「で、あんたの人生はどうなんだ? キャラメルラテに仕上がったのか?」

 思いもよらぬ問いに、すぐに言葉が出てこない。

 突然の死で幕を閉じた人生なのだから仕上がっているわけもないのだが、いまさら悔やんだところでやり直せるわけでもない。であれば、もう、受け入れるしかないのだ。

「わたしは、いいんです。そんなことより、次のお客様はまだですか?」

 サンゴは、ひかるの答えに納得がいっていないようだったが、あとの問いに淡々と答えてくれた。

「次の来客はちょっと危険だ。気をつけろ。下手したら刺されるかもしれない」

「死んでるから、刺されても問題ないですよ」

「それもそうだな」

 サンゴはふっと鼻で笑うと、ふたたび空へと飛び立っていった。