次に入店してきたのは、ブレザーを着た女の子だ。店内の暖色光が、天の川のような長髪を栗色に染めている。若々しいエネルギーが突然目の前に現れ呆気に取られていると、肩から提げていたスクールバッグのポケットからスマホを取り出した。鞄につけられた、日焼けした人気キャラクターのキーホルダーが揺れている。
「うわぁ、めっちゃ映える~」
パシャパシャ――と、弾んだ声を漏らしながら、何度も角度を変え、内装を撮っていく。続けて、内カメラで店内を背景にセルフィーを撮り始めた。まるで舞踏会のようにくるくると回りながらカウンター席についた女の子は、ようやくひかるの視線に気づくと、それまで浮かべていた眩しすぎるほどの笑顔をひっこめ「あ、すみません」と、恥ずかしそうに肩を竦めてみせた。
彼女は、野川さくらだ。
都立高校に通う高校二年生で、どこにでもいる女の子だ。流行に敏感で、可愛いものや綺麗なものがあれば、とにかく写真に収めたがる。好きなアプリはインスタとBeReal。最近は、共有型Vlogアプリのsetlogにハマっているようだ。趣味は恋愛リアリティーショーを観ることで、令和JKの典型例といえる。
「いらっしゃいませ。お飲み物、どうしますか?」
なるべく警戒されないよう、柔らかい笑みを心掛ける。さくらにメニュー表を渡すと、有希が残していったマグカップを下げ、手を伸ばし軽くテーブルを拭いた。
さくらはきらきらとした瞳で一通りのメニューを確認すると、申し訳なさそうに眉を垂らした。心なしか、目の輝きも半減しているように見える。
「あの、ごめんなさい……。コーヒー苦手で、何かジュースとかはありますか?」
「ジュース、か……ちょっと待ってくださいね」
カウンター内をぐるりと見渡す。
足元に、正方形の業務用冷蔵庫があった。
その場にしゃがんで扉を開けてみると、そこには牛乳が八本、クリームディスペンサ―が二本、ミルクジャグが二個冷やされており、ジュースらしきものは見当たらない。扉を閉め、カウンター内の壁に並べられている容器に視線を移す。そこには、コーヒー豆やフレーバーシロップ、トッピングソースの類が揃っているけれど、やはりお目当てのジュースはなさそうだ。
「すみません、ジュースのご用意がなくて……キャラメルラテか、カフェモカか、フレーバーラテか――あ、エスプレッソを全く使わないのであればホットチョコレートなんていかがでしょう。チョコフラッペも作れますけど」
さくらはかなりの甘党のはずだ。きっとホットチョコレートか、フラッペを選ぶだろうと踏んで【ココアパウダー】とラベルの貼られたステンレス容器の蓋を開ける。
「じゃあちょっと寒いから、ホットチョコレートで」
「喜んで」
はじめに、マグカップの中に付属スプーンでココアパウダーを七杯入れ、セットしておく。先ほどの冷蔵庫から牛乳とミルクジャグを取り出して、内側のへこみのところまで牛乳を注ぎ入れた。エスプレッソマシンのスチームノズルを傾け、ミルクジャグの注ぎ口に添わせる。レバーに手を掛け、ふっと小さく息を吐いた。
フォーミングは得意な方ではない。バリスタの称号をもうらうのに苦戦をしたのも、この工程が分厚く高い壁のように、ひかるの前に立ちはだかっていたからだ。バリスタの称号をもらい、働いていたときも、いつもドキドキしながら商品を出していた。
レバーを上げると、スチームから高温の蒸気が噴出さる。それが、ノズルからミルクジャグへと送り込まれていった。
両手でミルクジャグを持ち直す。チリチリ、と音が鳴る位置を探し出し、大きな泡が入りすぎないように調整しなければならない。温度が六十度を超える直前でレバーを元の位置に戻し、ミルクジャグをノズルから離す。台の上で、トントン、と底を打ち付けたり、くるくると回しながら、手早く気泡を抜いていると「わぁ、すごーい」と、カウンター越しに素直な感嘆の声が上がった。
なんだか照れ臭くなって、何も言わずに微笑み返す。
ココアパウダーを入れていたマグカップに、フォーミングしたミルクの三分の二をを一気に注ぎ込む。マドラーでよく混ぜたら、その上に残りのミルクで蓋をするように注ぎ、仕上げにココアパウダーを振りかけた。
「どうぞ」
「うわぁ、ありがとうございます」
両手で包み込むようにマグカップを受け取ったさくらは、両目の下に愛らしいえくぼを浮かべている。
「すみません、珈琲店なのに」
「お気になさらず」
「あっ、そうだ」
さくらはふたたびスマホを手にすると、右から、左から、上から、角度を何度も変えながら数枚写真を撮った。納得できる写真が撮れたのか満足そうに頷くと、スマホをテーブルの上に置き、両手を合わせる。
「それじゃあ、いただきます」
さくらは包み込むようにマグカップを両手で持ち、何度か、ふぅふぅ、と息を吹きかけてから、縁に唇をつけた。つぶらな瞳が、申し訳程度に見開かれる。マグカップから唇を離したさくらが、大袈裟に口に手を添えて「おいしい!」と目を輝かせた。忖度のなさそうな純粋な反応に、思わず表情が綻ぶ。
「ありがとうございます」
「わたし、きっと大人になってもコーヒーとか無理なんだろうなあ。ずっと、甘いものだけ摂取していたい……こんなんで大人になれるのかな」
さくらは、マグカップを指で撫でながら首を倒した。
いまを楽しみ尽くしたい自分と、その先に待ち受ける漠然とした将来への不安。二つがせめぎ合い、情緒を保つのが難しかった十代の自分の姿と重なった。
「……焦げくさくして味ふるに堪ず」
「えっ?」
「江戸時代中期を代表する文人、大田南畝の随筆『瓊浦又綴』に記されていた文章です。これ、どういう意味かわかりますか?」
「お姉さん、学校の先生みたい! えぇ、何だろう」
うーん、と宙に視線をやりながら、顎に手を添える。いくら経っても答えが出てこなさそうだったので、ひかるは早々に答えを教えることにした。学校の先生なら、もう少しくらい考える時間を与えそうだが。
「実は、コーヒーを飲んだときの感想が記された、日本最古の記録と言われています。焦げくさくて口に合わないと、大田南畝はそう記録に残しました。当時の日本はお茶が浸透していて、コーヒーは異国からやってきた良薬という認識だったそうです」
「良薬口に苦しってやつ?」
記憶の引き出しから偶然見つけだした言葉を、得意げに口にするさくらが何だ可愛らしくて笑ってしまう。
「はい、その通りです。だから、コーヒーは飲めなくても大丈夫です。砂糖やミルクを入れても苦手だという人は少なくないですし、何より、江戸の偉人である大田南畝が口に合わないって言うくらいですから」
「……もしかして、励ましてくれました?」
「バレましたか」
「お姉さん、優しいんですね」
ありがとうございます、と言い添えると、さくらはふたたびホットチョコレートに口をつけた。そしてまた「本当に美味しい!」と微笑んだ。
空になったミルクジャグを水道で洗い流し、冷蔵庫の扉を開ける。放たれた冷気に頬が撫でられ、少しばかり火照っていたことに気づいた。洗ったミルクジャグは冷蔵庫の中へ、元あった位置に戻した。
優しい――。
人に、そんな言葉を向けられたのは久しぶりなような気がする。忖度も嫌味もない、ただの純粋な褒め言葉に心臓がぎゅっと掴まれた。
優しくなんて、ないのだけれど。
「でも、この店までどうやってたどり着いたんですか? 周りは森だらけだし、この辺に学校なんてないですよね」
例のごとく、ひかるはさくらに聞く。
自らさくらに会いたいとサンゴにお願いしたのだから、おかしな話だ。しかし、ひかるに誘われてここまでやってきたということは、さくらは知る由もないだろう。
「ちょっと悩んでることがあって……散歩で気を紛らわせていたら、偶然ここに」
さきほどやって来た有希であればあり得るかもしれないが、さくらは高校生だ。散歩の感覚でここまで来るのは、不思議で仕方がない。
ここには、不思議なことが山ほどある。その多さに、やはり自分がいるのが現実ではないのだと、改めて思い知ってしまった。
しかし、感傷に浸っている場合ではない。この手の質問も、彼女への未練を解消するための、たんなる入り口にすぎないのだ。
「そうだったんですね。いったい何をそんなに悩んでいたんですか?」
「んー、話すと少し長くなるんですよね」
「そうですか。ちょうど暇を持て余していたんです。差し支えなければ、お話を聞かせてください」
少し悩むように唸ったあと、さくらが後ろを振り向く。そして、しばらくしてからひかるに向き直った。
「それなら、お姉さんも何か飲みながら、あっちのテーブルでお話ししましょ」
「いいですね。すぐ準備するので、先にあちらでお待ちください」
有希に提供したアメリカンコーヒーを、今度は自分のために淹れる。先ほどよりも幾分かスムーズに作り終えると、マグカップを持ってカウンターを出た。
開け放しになっていた窓を閉め、テーブルを挟んでさくらと向かい合う。ひかるが席につくと、さくらは居住まいを正した。



