ユートピアに、珈琲を添えて


 驚いて振り向くと、扉の前には黒髪をひとつに括った女性が立っている。スーツの上にトレンチコートを羽織ったスマートな見てくれは、あまりこの場に馴染んでいない。
 整った顔立ちには、感情の色は見えない。

「あの……」

 唖然とするひかるに困惑した様子の彼女の声で、ようやく意識が引き戻された。

 じわりと視界が滲みそうなのを必死に抑え、ひかるは飲食店で働いていたときのような満面の笑みを彼女に向ける。

「いらっしゃいませ……!」

 彼女はカウンター席に座り、手近にあったメニュー表を見始めた。

 鼓動が速まる。

 以前働いていた飲食店でカフェのバリスタとして働いていたが、それももう二年前の話だ。いくら同じマシンを用意されているからといえ、滞りなく作れるだろうか。

「アメリカンコーヒーのMで」

 心のうちを悟られたのか、彼女は比較的簡単なものを選んでくれた。

 ミルは、ポルタフィルターをセットすると自動的に豆が挽かれる仕様になっている。抽出口が一つのシングルスパウトと、二つになっているダブルスパウトのうち、前者を手に取ってミルにセットした。ウィーンという音を立てながらコーヒー粉が姿を現す。それをレバー式タンパにーにセットして、押し固めた。

 ひかるは一連の動きをしながら、意外にも体が覚えていることにほっとした。

 最後にエスプレッソマシンにポルタフィルターをセットし、カウンター内の棚から、今度は二種類あるうちの小さいサイズのマグカップを手に取る。セットしたポルタフィルターの抽出口がマグカップの内側に触れるようにしてから抽出ボタンを押すと、エスプレッソが落ちてきた。クレマ(エスプレッソの表面を覆う、きめの細かい泡)を壊さないようにと、先輩バリスタに散々言われたこの工程には少し手が汗ばんだ。
 抽出を終えると、お湯を淹れ終えたマグカップをカウンターテーブルに置く。そこから立ち上る湯気からは、フルーティーな香りが立ち上った。コーヒー豆も考慮されているとしたら、エチオピアとグアテマラのブレンドだろう。

 ひかるも一杯頂戴したいところだったが、目の前に座る彼女の浮かない表情を見て、そんなのんきな考えは一瞬にして吹き飛んだ。

 コーヒーを堪能するためにここにきたわけじゃない。いまからひかるは、彼女に対しての未練を解消しなければならないのだ。

「……どうか、されました?」

 あくまでも他人。
 それを念頭に置き、気遣いのできる店員として彼女に声を掛けた。

「いや――……いただく」

 彼女は、首を横に振るとマグカップにそっと触れる。口が硬いのは、きっと彼女の職業(・・)に関係しているのだろう。

 しかし、ここで黙ったまま彼女が飲み終えるのを見届けるわけにはいかない。

「お客さん、コーヒーにはお詳しいですか?」

「えっ」

 唐突な質問だったのか、彼女は打たれたように顔を上げた。目を大きく見開き、不思議そうにひかるを見つめている。

「コーヒーは歴史的に、社交の中心にあったものなんです。十七世紀のロンドンに、パスカ・ロゼという人物がコーヒーハウスを開業したことをきっかけに、多くの人に愛されてきました」

「はあ」

 何が言いたいんだと訝しむような眼で見つめられ、思わず背筋が凍った。まわりくどい説明はしないほうがよさそうだ。

「とにかく、コーヒーは人と人とを繋げる、媒介みたいなものです。迷惑でなければ、それを飲んでいる間だけでも、わたしとお話をしてくれませんか」

「……わかった」

 束の間の沈黙に冷や汗が出そうになったけれど、彼女は頷いてくれた。

 第一関門を突破し、ひかるは胸をなでおろす。

 まずは自己紹介からということで、ひかるから名乗った。すると彼女は、鞄の中から取り出したステンレス製の名刺入れを開く。そこから一枚引き抜くと、ひかるへ差し出した。

【警視庁捜査一課 巡査部長 辰巳(たつみ)有希(ゆき)

 ひかるは差し出されたその名刺を見て、初見のようなリアクションで「警察の方だったんですね」と申し訳なさそうに肩をすくめて見せた。

「職業柄、人を疑う性分なんだ。気を悪くさせていたら申し訳ない」

「いえ、お気になさらず」

 もらった名刺をポケットの中に入れながら、ひかるは有希の顔色を窺った。

 暗い。もともと、そこまで明るい人間でないことは知っているけれど、いまの有希からは黒いオーラが見える。その理由もひかるの知るところではあるのだが、初対面を装っている以上、やすやすと踏み込むわけにはいかない。

「辰巳さんは、どうしてこの店に来られたんですか? 森に囲まれていて、普通だったら通りかからないと思うんですけど」

「いろいろあってな。静かなところに行きたいと思って歩いていたら、ここに辿りついた」

 言いながら、有希は自分の腕を抱くように掴んだ。

 彼女の癖を間近で見て、やはり彼女は辰巳有希なのだと心が躍る。
 ずっと会いたかった有希が、こうして目の前にいるのだ。上がりそうになる口角を必死に抑えて「わたしでよかったら、話聞きますよ」と優しく声をかける。それでもなお、話すことを躊躇っているようだ。

「ここには、あなたとわたししかいません。防犯カメラもないし、誰にも話を聞かれる心配はありませんよ」

 押し黙る有希に心が折れかけたところで、突然「実は――」と口が開かれた。

「警察官を続けるか、悩んでいる」

 そうだよな、とひかるは思う。しかしここでもまた「どうしてですか」と白を切った。

「守秘義務で詳細は話せないが……殺された。わたしのせいで、何の罪もない、善良な市民が」

「殺された……」

 事情がわかっていたとしても、実際に耳にしてしまうとその言葉はあまりにも強烈で、呆然としてしまう。

 有希は、とある連続通り魔殺人事件を追っていた。被害者に共通点はなく、決まって人通りの少ない夜道で犯行が行われているということ以外に、手掛かりはひとつもなかった。難航する捜査に痺れを切らしたのか、犯人はたびたび、捜査本部宛てに手紙や電話などで挑発をしてきた。それでも、容疑者が浮かび上がることはなく――。警視庁は各社報道番組に手紙のコピーを送付し、捜査協力を求めた。「犯人からの挑戦状」として、連日ニュース番組で取り上げられる中で「親友の文字に似ている」という情報提供があったのだ。警察は早々にその情報提供者とコンタクトを取ったのだが、詳細を聞く前にその情報提供者が他殺体で発見される。

 何の考えもなしに、衝動的に派手な動きを見せたことで、犯人に情報提供者の存在を知られてしまったのだ。その派手な動きを見せたという刑事こそ、いま目の前にいる辰巳有希である。

「信頼できる上司からは、続けるべきだと言われている。わたしは、過去のことはあまり引きずらない。正直、この事件で犠牲者が出てしまったことも、必然的だったのではないかとさえ思っている」

 たしかに、警察が秘密裏に動いていたとしても、遅かれ早かれ、情報提供者に鉄槌は下されていただろう。犯人も、捜査の手が自分に伸びていると知れば、情報を渡した友人を殺すことくらい厭わないはずだ。すでに、何人もの人を殺しているのだから。
 それに、情報提供者の死は、その情報の信ぴょう性を裏付けるものとなった。関係者の聴取を続ける中で、ようやく容疑者を絞り出すことができたのだ。その死から数日後、殺人罪で自称無職の三十一歳の男性が逮捕された。

 皮肉にも、情報提供者の死が、事件解決のカギになったのだ。その死がなければ、事件は未解決のまま、遺族に無念を強いることになっていかもしれない。

 他者に感情移入せず、あっさりとしすぎている性格は、あまりに有希らしい。とはいえ、今回のことに限っては少々無理をしてそんなことを言っているような気がした。

「そう思っているなら、辞める必要はないんじゃないですか?」

「そう思ってしまうからこそ、やめるべきだと思うんだ。わたしは、他人の命を自分の命と同等に背負えない。責任感がないから、たとえ自分のせいで人が死んだとしても、何も感じない」

 状況を知らない第三者からしてみると、有希の発言は不適切極まりないだろう。SNSで拡散してしまえば、あっという間に火がつくはずだ。

 しかし、ひかるは知っている。有希が無感情に近い人間になってしまった理由には、過去のトラウマが関係しているということに。そしてそれが、有希を警察という道に導いたということも。

 彼女は、高校生のときに家族を亡くしている。弁護士の父と、大学教授を母に持つ有希の家は、とても裕福だった。それゆえに、犯罪グループにマークされていた。金品目的だ。不在を狙って家に押し入られたところを、そのとき偶然にも在宅だった両親、妹と弟が鉢合わせために殺害されてしまった。有希は部活の合宿中で、不在だった。

 逮捕された実行犯たちは「指示を受けてやった」と供述しており、いまでいう闇バイトに応募してきたた者たちの集まりだった。彼らの逮捕は蜥蜴(とかげ)の尻尾切りで、指示役や首謀者にまで手が届くことはなかった。

 有希は、自分の家族を奪った黒幕を炙り出すために、警察官になった。人を守りたいとか、誰かの役に立ちたいとかではなく、憎しみや恨みから生まれた刑事なのだ。

「引きずってしまう刑事よりかは、いいんじゃないですか」

 ――思い出して。なぜあなたが、警察という道を選んだのか。あなたがここで警察を辞めるということは、失った家族たちの無念から目を背けるということでしょ。

 そんな思いを込めて発したひかるの言葉に、有希はおもむろに顔を上げた。そして、弱々しく微笑む。

「わたしの上司と、似たようなことを言うんだな。もしかして、主任の回し者か?」

「……えっ」

 まずい。彼女のことを知っているということがバレてしまう。

 ――いや。
 それでも、自分には彼女を誘導する責務がある。向かうべき場所へ、きちんと歩けるように。

「辰巳さん。あなたには、責任感があると思いますよ。他人の命と自分の命を同等に背負えない――そんなの当たり前です。人間みんな、結局は自分が一番かわいいんですから。それを隠して、みんな偽善で生きているんです」

「…………」

「その偽善を振りかざさないあなたは、とても素直な人だと思います。そしてその姿勢は、自分の言動に責任を持っている証拠です」

 充足感で、胸がいっぱいになる。

 面と向かって言葉を掛けられているこの状況に、ひかるは感涙を零しそうになった。そして、自身の言葉に瞳が揺らいだ有希を見て、涙腺はさらに刺激されてしまう。

 それを誤魔化すように、ひかるはポルタフィルターに残った粉をダストボックスに放り込む。

 有希に背を向けたところで、すでに頬は濡れていた。

「……さあ、早く上司のところへ行ってください。そして言うんです。警察官を続けると――。コーヒーのお代はいりませんから」

 少しの沈黙。

 これでいい。これが、望んだ結末だ。「辞めてもいいのではないか」と助言することもできたけれど、やはり彼女には警察官であり続けてほしい。たとえ、自分が辰巳有希の警察官人生を見届けられなくても。

「感謝する」

 背後で、ギギッと椅子が引かれる気配がした。「ごちそうさま」という声に振り向くと、すでに有希は小屋を出たあとだった。

 ひとりの空間に安堵すると、余計に涙があふれ出てくる。拭っても拭っても、止まらない。

 そこへ、サンゴがバサバサと音を立てながら小屋の中へと入ってきた。

 先ほど、有希のために淹れたコーヒーのすぐ横に止まる。ひかるの異変に気付いたのか、サンゴは顔を覗き込むように小さな頭を傾けている。

「泣いているのか」

 馬鹿にされるかと思い、急いで頬を拭った。不思議と、涙は潮のように引いていく。

「ごめんなさい。あまりにも再現度が高くて、その……びっくりしただけです」そんなことより、と話を転換する。「あっちは本当にわたしのことを知らないんですね。どうやって呼んできたんですか?」

「それは教えられないな」

「まあ、そうですよね」

 ここであっさりネタバラシをされても、興ざめしてしまう。余計なことは考えずに、自分の未練をひとつひとつ解消することに集中するとしよう。

 ひかるがそう心に決めたところで、サンゴが「ひとつ聞いてもいいか」と首を傾げた。

「どうして、上司のところへ行くように言ったんだ」

 その質問に、体中から血の気が引いていく。

 頭が真っ白になった。

 とてつもなく残酷なことをしているということに気づいて、自分が嫌になる。それでももう、運命は変えることができない。

 咎めるようなサンゴの視線から逃れるように、窓の外に顔を向けた。

あんたが殺した上司を(・・・・・・・・・・)辰巳有希に発見させるためか(・・・・・・・・・・・・・)

 サンゴの言葉はまるで鈍器のようで、それを振りかざされたひかるの頭はじくじくと痛んだ。

「わたしが殺した、なんて……そんな人聞きの悪いこと言わないでください」

「いや、あんたが殺した。そうだろ?」

「そう聞かれて、はいそうですっていう犯人がいると思いますか?」

 サンゴは、ふっと鼻で笑った。

「いないな」

「サンゴさん……」

「何だ」

「わたし、変ですかね。おかしいですかね」

「そうは思わない。ただ――」

 サンゴが、窓の桟へと飛んでいく。黒い羽根が一枚、小屋の床にゆらゆらと落ちた。

「あんたは弱い人間だ」

 そう言い残し、ふたたび窓から飛び立っていく。

 サンゴから突きつけられた言葉に動揺する暇もなく、扉がギィ、と音を立てて開いた。

 次の来客が、やってきた。
 ひかるに、答えを求めて――。