いつもなら迷わずキャラメルラテを頼むところだが、今日は眠気を覚ますことが目的だ。甘いのを摂取して血糖値が上がってしまえば、元も子もない。
テーブルに貼り付けられているメニュー表に目を滑らせながら「うーん」と考え込む。その間、店主は特に急かすでもなく、自分の両手を揉みながらにこにこしていた。
悩みぬいた末に陽介が選んだのは、コーヒーだった。もちろん、ミルクも砂糖もなしだ。
「アイスとホットどちらにしましょう」
「じゃあ、ホットで」
コーヒーを好き好んで飲む人たちは、みなホットで頼んでいるような気がして頼んでみたはいいものの、体が温まればそれはまた眠気を誘発するのではないかと不安になった。
「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます」
ほどなくして、カウンターの上に湯気がのぼったマグカップが置かれた。湯気からは、コーヒー豆の焙煎された濃くて深い香りが漂っている。
もうすでに苦い気がしたが、そっと、マグカップの縁に唇をつけた。
熱っ。苦っ。
思わず、顔をしかめてしまう。
それを見た店主は「はははっ」と声を上げて笑った。
「初めてでしょう」
図星を突かれ、陽介は苦笑いを浮かべた。
「はは、すみません……」
「初めてブラックを飲む人は、みーんな同じ顔をするからねぇ。でも、無理をして飲まなくてもいい。砂糖もミルクもあるから」
そう言って、店主はシュガーポットに手を伸ばしかけた。
「あ、いえ……」陽介が首を横に振る。「今日は、このままで大丈夫です」
「ほう」
店主は少しだけ目を細めたあと、前傾姿勢で陽介に少し近寄った。
「何か理由でも?」
ふと、マグカップへと視線を落とす。コーヒーの水面に、反射した自分の顔が映っていた。
「……大切な人が、好きだったんです。ブラックコーヒー」
そう答えると、店主は「へえ」と静かに相槌を打った。前傾だった姿勢はもとに戻され、それ以上は何も聞いてこなかった。
その距離感に心地よさを感じながらも、今度は陽介の方から店主へ声を掛ける。
「なぜ、人はコーヒーを飲むんでしょうか」
店主は、陽介の問いにすでに答えが出ているかのような、誇らしげな表情を見せた。
「それはつまり、幸せになれるからだよ」
「幸せ……ですか?」
店主が強く頷く。
「みんな、コーヒーを飲む理由はさまざまある。でも、飲んだ先にみなが共通してあるのが『ホッとする』ということなんだ」
そう言うと、自分の分なのか、デミタスカップを手に取って一口飲んだ。
そして、ふぅーと大きく息を吐く。店主の顔には、相変わらず笑みが浮かんでいた。
「疲れて一息つきたいとき、大切な誰かとゆったりとした時間を過ごしたいとき、そして君のように、眠気を覚ましたくて飲む人もいるだろう」
「あ、バレてましたか」
「そりゃあ、顔を見ればわかるさ」
今度は「がははっ」と盛大に笑った店主に釣られ、陽介も笑ってしまった。
ひかるは、執筆をするようになってから、よくコーヒーを飲むようになった。
ただ単に、カフェインの覚醒作用で作業が捗るからだと思っていたが、それだけではなかったのかもしれない。
ひかるは、本当に幸せだったのだろうか。
彼女にとって心が安らげる場所は、どこだったのだろうか。
本人がいない今、何を考えても無意味だということはわかっている。
ただどうか、いま彼女がいる場所が、美味しいものにあふれていて、優しい人で構成されていて、温かくて、安心して眠れる、ユートピアのような場所であることを願う。
もう一度、マグカップへに口をつける。
ひかるがいないこの世界に慣れてしまうというのが本当なのであれば、この苦みも慣れて然るべきだ。
先ほどより多めに、口の中にコーヒーを含んだ。
舌全体に苦みを感じ、思わず頬に力が入る。
そんな、何と戦っているのかわからない陽介を見て、店主はまた一段と大きな笑いを上げていた。



