ユートピアに、珈琲を添えて


 もう、だいぶ前から気づいていたことだった。

 それは、サンタクロースの正体や、夜に口笛を吹いても蛇は現れないということより後か先だったかは思い出せないけれど、結構早かったと思う。

 でも、いざ自由に飛び回れるとなったら、確かめざるを得なかった。
 茶色いマントを靡かせるアンパンのヒーローでもなければ、頭に黄色いプロペラをつけた猫型ロボットでもないけれど、遠山(とおやま)ひかるの体はぷかぷかと空を浮かんでいる。

 結論から言おう。

 だめだった。

 ひかるはとうとう、雲を掴むことは出来なかった。ひんやりとした湿気が手を包むだけで、結果は目に見えていたものの少し残念だ。

 ――さすがに、そろそろ帰るか。

 下に向かって、泳ぐように足をばたつかせる。

 しばらくすると、雲の裂け目からオレンジ色の外壁のアパートが見えてきた。だいぶ年季が入っており、こうして空から俯瞰(ふかん)すると、埃をかぶったがらくたにしか見えない。それでも、ひかるにとっては唯一の憩いの場所である。

 アパートの裏側へ回り、少し前に出てきた開け放しの窓から、部屋に戻ろうとしたその瞬間――。

「えっ」

 ひかるは、窓の外から部屋を見下ろした。

 いつも使っているワークデスクの上に、茶色い水たまりができている。その水たまりは、白いノートパソコンにまで及んでいた。部屋を空けている間に、強盗にでも入られたのだろうか。
 慌てて窓から部屋に飛び込むと、目の前に広がった部屋の全貌に、ひかるは開いた口が塞がらなかった。

「……え、えっ?」

 床で割れている、黄色のマグカップ。
 そして、デスクチェアとともに床に伏すひかる自身の体。

「嘘……いやいや、わたしに限ってそんなこと――」

 部屋に充満したコーヒーの香りのせいか、無駄に頭が冴える。

 ひかるは意を決して床に伏す自身に近寄り、そっと手を伸ばした。
 体に触れると同時に、びりびりっと電流のようなものが全身に走る。

「いった!」

 あまりの衝撃に、その場に尻もちをついた。

 しかし、床で割れているマグカップの破片は、ひかるの手には刺さらない。

 当たり前だ。なぜならいま、ひかるは幽体離脱の真っ最中なのだから。

 だが、自分の体に戻れないのは初めてのことだ。苦しみながらも、気づけば目が覚めているのがお決まりのパターンだ。
 ――いや。そもそも、なぜこんなに意識がはっきりしているのだろう。
 よく考えてみれば、このようにして自分自身を見下ろしたことはいままでにない。いつもは、なんとなく魂だけが抜けていっているような浮遊感があるだけだ。

 後ろについていた手を床から離し、じっと見つめる。そのまま、もう一度自分の体に触れてみようかとも思ったが、先ほどの衝撃に怖気づいて手をひっこめた。

 一体全体、どういうことなのか。

 深呼吸をしてから、改めて部屋の中を見渡してみる。

「…………」

 目の前に広がる部屋の惨状から、おのずと事情が見えてくる。認めたくないけれど、認めざるをえない答えが、じりじりとひかるに近づいていた。

 確信に変わったのは、こうして意識が抜けだす前に自分が何をしていたかを思い出したからだ。

「わたし、もしかして――」

 その言葉を口に出そうとしたその瞬間、どこからともなく、バサバサッという大きな音がした。

「やっと帰ってきたか」

 部屋の中から、低くて渋い声が響いた。
 中年男性だろうか。女のひとり暮らしの部屋には似つかわしくない声に、思わず身構える。部屋を空けている間に、変質者に侵入されたのかもしれない。窓は開けっぱなしだったし、ここは二階だから、その気になれば入り込むことは可能だろう。

「……誰?」

 部屋を見渡してみても、声の根源らしき姿は見えない。
 幻聴かとも思ったが、やはりここまではっきりと聞こえたことはない。
 連続する珍事に、狼狽えてしまう。

「うしろだよ。うしろ」

 呆れているのか、苛立っているのか、痺れを切らしたような声が後頭部に降りかかり、ふと振り返る。
 ベージュやホワイトで統一された部屋に、黒い塊が浮かんでいた。
 その姿を認識した途端、背筋がぞくっと凍り、喉から「ひぃ」と情けない声が漏れた。

「カ、カラスっ」

 鳥類全般は、ひかるの天敵だ。特に、鳥嫌いのきっかけを作ったカラスは、大人になったいまでも見かけるだけで肝が冷える。
 小学生のとき、帰り道で追いかけ回されてからというもの、恐怖と嫌悪の対象なのだ。
 そんなカラスがいま、窓の桟に止まっているの。そして、咎めるような鋭い視線をひかるに送っているのだから心臓はバクバクだ。

「勝手に飛び回りやがって……どれほど待ったと思っている」

「……う、うそ。喋ってる、カ、カラスなのに」

「そんなことはどうだっていい。いいか、よく聞け」

 ぴょん、と跳ねて倒れたデスクチェアのレッグフレームにカラスが乗っかった。予期しない接近に肩をびくつかせながらも、吸い込まれるようなカラスの瞳をじっと見つめてしまう。

「遠山ひかる。お前は死んだ」

「……えっ」

 なんとなくそんな予感がしてはいたけれど、いざ口に出して伝えられてしまうと驚きの声しか出ない。とは言っても、死を伝えられた人にしては、いささか薄い反応だったかもしれない。

 でも、死んだって――どうして?

「わたし、病気も何もしてませんけど。昨日までぴんぴんだったし、何ならいまもぴんぴんです」

「急性心不全だ。若者でも稀になる」

 確率の低いものを引いてしまったということか。どうせなら、宝くじの特等を引き当てたいところだったけれど、もともと運がいい方ではない。

 それにしても、なぜこのタイミングで――と、ひかるはさぞかし悔しそうに唇を噛んだ。

 やっと始まったひとり暮らし。自分の時間を自分だけのためにたっぷりと使えることに、またとない幸福を感じていたというのに。
 神様は意地悪だ。こんな仕打ち、あんまりじゃないか。

「もう時間はない。とっとと説明させてくれ」

 先ほどからぶっきらぼうな態度をとるこのカラスに、「あなたには人の心がないのか」と怒りそうにもなるも、相手が人間の言葉を巧みに使いこなすだけのカラスに過ぎないということに気づく。

 人間は、優しすぎるのかもしれない。相手の気持ちを(おもんぱか)りすぎて悩む人もいるくらいだから、このカラスのようなマインドで生きていた方が楽かも――なんて考えたところで、もう死んでいるのだから意味はない。

 ひかるの顔に雑念の色を感じ取ったのか、カラスは突然すらすらと自己紹介を始めた。

「俺は、未練解消案内()35号。突然死で誰にも別れを伝えられなかった死者に、未練解消のチャンスを与えている」

「……未練、解消?」

「ああ。死んでから二十四時間が経つまでは、未練解消の時間に充てられる。それなのに、あんたが勝手にどこかへ飛んでっちまうもんだから残された時間は少ない」

「あの、そんな長い間空を飛んでいたつもりはないんですけど」

 カラスが、長く深いため息をつく。

「生きている人間の二十四時間と、死んだ人間の二十四時間は体感がまるで違う。あんたに残されている時間は、残りわずかだ」

「そんな……」

「とにかく、時間がない。単刀直入に聞くが、最期に会いたいやつはいるか?」

 会いたい人――。
 突然そんなことを言われても、おいそれと名前が出るわけない。

 家族、友人、恋人。こういうとき、ほかの人たちは誰を思い浮かべるのだろう。

「一人だけ、ですか」

「それで事足りるのか? 二十四年も生きてきたんだろ」

 人間でいう二十四年は、長寿とは言えない。何の前触れもなく下ろされた幕にひかるだけでなく観客たちが呆然としている中、このカラスだけは静かに拍手を送ってくれているような気がして、胸がじんわりと熱くなった。同時に、やはり自分は死んでしまったのかという絶望が押し寄せてくる。

「……何人でもいいんですか?」

「時間に限りはあるから約束はできないが、とりあえず言ってみろ」

 そう促され、ひかるはいくつかの名前を伝えた。

 家族でも、友人でも、恋人でもないその人たちの名前を伝えると、カラスの目はさらに鋭くなる。

「本気で言っているのか?」

「はい。……ダメ、ですか?」

 無理を言っているのはわかっていた。でも、それ以外に未練など思い浮かばない。

 意外にもカラスは否定することなく「あんたがそこまで言うなら」と、納得してくれた。

「ありがとうございます。……えっと、」

「……何だ?」

「なんて呼べばいいですか? あなた、名前は?」

「名前なんざ、未練解消案内烏に存在しない。俺には、35って番号が振られているだけだ」

 うら悲しい雰囲気を漂わせるカラスに、勝手に同情してしまう。名前がないだなんて、存在を拒否されているようなものだ。

「35――『サンゴ』なんてどうでしょう。名前の方が呼びやすいので」

「……好きにしろ」

「じゃあ、サンゴさん。ひとつ聞きたいんですけど、わたしの遺体はこのあとどうなりますか?」

「さあな。未来のことなんざ知ったことか。そのうち、連絡を取れないことを不審に思った家族やら友人やらが発見するんじゃないか」

 その言葉を聞き、ひかるはあからさまに肩を落とした。そして、自嘲するかのように微笑む。そんなひかるを、サンゴは気味悪がるような目で見つめた。

「きっと、腐っちゃいますよ。異臭を放って、遺体は溶けて、誰かが気づいたときには骨になってるかも」

 友人だけに限らず、家族の連絡先もブロックしている。このアパートに越してきたと同時に、それまでの人生を一度リセットしたのだ。ネットで調べてみたら、こういった行為をドアスラムというらしい。何度かその扉を開け閉めする人もいるようだけれど、扉のノブは壊したつもりだ。少なくとも、ひかるからその扉を開くことはない。

 サンゴは、悲観的なひかるを面倒くさがるように首をひねった。

「そりゃ、ご愁傷様。俺には、このアパートの上に仲間を集めて、一日中鳴き続けることしかできない」

「昔、母が言ってました。カラスが建物の上で鳴くと、近いうちにその建物から死人が出るって」

 本当だったんですね、とひかるが感心する。

「人間どもがそんな迷信を作ったもんだから、俺たちが合わせてやってるんだ。まぁいまどきは、スマホに夢中で空を見上げてるやつなんていないからな。俺たちが鳴いたところで、あんたが死んだことに誰も気づかないかもしれない」

「それでもいいです。……お願いできますか?」

 たどたどしく聞くひかるに、サンゴは「ったく、仕事増やしやがって」と翼を激しく動かした。

「すみません。ありがとうございます」

「まぁ……任せとけ。とりあえず、あんたにはいますぐにでも未練解消に移行してもらわなきゃならない。目を閉じろ」

「えっ」

「いいから、目を閉じるんだ」

 サンゴの黒い翼が、促すようにひかるの瞼に触れる。不思議と嫌な気はせず、ひかるはおとなしく目を閉じた。

 次の瞬間、瞼を貫くほどの強い光に包まれる。温かさを伴ったその光に、ひかるはそのまま身を委ねた。