片道三時間の長旅を終えて地元に帰ってきたときには、すでに空は夕焼け色に染まり始めていた。
西の空に浮かぶ雲は茜色に縁どられている。駅前のロータリーでは、部活動の試合帰りと思しき高校生たちが笑いながら自転車を押して歩き、エコバックを提げた主婦が早歩きで家路を急いていた。その何気ない光景に、ようやく地元に帰ってきたのだという実感とともに、先ほどの墓地での夢うつつな空間が恋しく思えてくる。
歩き疲れたからといって、乗り換え回数の少ない電車を選んだのは失敗だったかもしれない。
座席に座っていられる時間は長かったものの、その分各駅停車の時間も多く、途中で何度も快速の通過待ちがあった。窓の外では、しばらく似たような住宅街や田畑が流れ、気づけば眠気と戦いながらぼんやりと景色を眺め続けるだけの三時間だった。
もっと早い乗り換えを選んでいれば、倍近く早く帰れたに違いない。それでも、疲れ切った体で何度もホームを移動する気力はなかった。
体の芯は鉛でも流し込まれたかのように重く、足が思うように動かない。何も考えることなく、このままあの広すぎる1LDKの家へ帰って、ベッドにダイブしたい。そしてそのまま、朝まで泥のように眠ってしまいたい。
そんな誘惑が、何度も頭を過る。
とはいっても、明日は日曜日だ。
特に予定は入っていないが、だからこそ、生活リズムだけは崩したくなかった。
この変な時間帯に寝てしまえば、夜中に目が覚める。そして眠れないまま朝を迎え、休日を無駄にしてしまう未来が容易に想像できてしまった。
週明けには仕事が待っている。
社会人になってからというもの「休みを楽しむこと」より「休み明けに備えること」に重きを置いている気がする。
オールが当たり前の学生の頃には、考えもしなかった変化だ。
駅前の横断歩道を渡りながら、小さく息を吐く。
夕方特有の少し湿った空気が頬を撫で、どこかの家から漂ってきた夕飯のにおいが鼻先をくすぐった。
――これは、カレーか、はたまた肉じゃがか。
家庭料理の香りというのは不思議なもので、自分の家のものではないとわかっていても、なぜだか安心する。
空腹ではないはずなのに、自然と腹の虫が泣きそうになった。
そのとき、ふと思い出す。
最寄り駅と家の中間地点に、自営業の珈琲店があったような気がする。
チェーン店ではなく、昔ながらといったような珈琲店。
通勤途中に何度か見かけたことはあるが、一度も入ったことはなかった。
――眠気覚ましにカフェインを摂ってから帰ろう。
そう思い立つと、重かった足が少しだけ軽くなった。
陽介はしょぼついた目を指でこすりながら、記憶を頼りにその珈琲店へと向かって歩き始めた。
駅前の賑わいを抜けると、住宅街は急に静けさを増した。
子供たちの遊ぶ声も遠くなり、聞こえるのは電線に止まった鳥の鳴き声と、自分の靴がアスファルトを打つ音だけ。
街灯はまだともっていない。
沈みゆく夕日が家々の壁を赤く照らし、道路には長く伸びた電柱の影が幾重にも重なっていた。
住宅街を八分ほど歩いたところで、小さな木製の看板が目に入る。外壁にとりつけられているわけではなく、椅子にちょこんと乗せられているそれは、控えめな字体で『珈琲』とだけ書かれていた。派手な装飾はない。
けれど、その慎ましさがかえって目を引く。
外壁には年月を感じさせる木板が張られ、窓からは暖色の照明が柔らかく漏れている。
ガラス越しに店内を覗くと、カウンター席と数卓のテーブル席が見えた。
どこか懐かしさを感じるのは、あの森奥に佇んでいた平屋に似た雰囲気があるからだろうか。
少しだけ緊張しながら、木製のドアノブに手を掛ける。
カラン――。
控えめなベルの音が店内へ響く。
扉を開けると、木の温もりと焙煎されたコーヒー豆の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
深く、どこか甘さも感じる香りだ。
駅前の喧騒が嘘だったかのように、店内には穏やかな空気が流れている。
耳を澄ませば、小さなスピーカーからジャズピアノが流れていた。
決して主張は強くないが、店の空気感を作りだしているのはこの音色だ。
土曜日だというのに、店内にいた客は二組だけ。
一組は窓際で向かい合って座る老夫婦。
互いにほとんど言葉を交わさず、それでも同じ時間を共有することが当たり前であるかのように、静かにコーヒーを飲んでいる。
もう一組は大学生くらいの男女だった。
ノートパソコンを開きながら何かを話し合っており、時折笑い声が漏れるものの、それすら店の落ち着いた雰囲気を壊すことはなかった。
休日といえば、どこもかしこも子どもたちで騒がしくなる印象だが、この店だけは時間の流れが少し違っているようだ。
まるで世間から切り離された、小さな休憩所。
思いがけず、穴場を見つけたような気分になる。
「お兄さん、こちらどうぞ」
柔らかな声に顔を上げる。
カウンターの向こうには、背中を少し丸めた白髪交じりの好々爺が立っていた。
年齢は六十代――いや、七十代くらいだろうか。
白いシャツに濃紺のエプロンを身につけ、すでに肌に浮かび上がる皺をさらに増やすようにくしゃりと笑っている。
長年この店を切り盛りしてきたのだろう。
その笑顔には、不思議と招待面の緊張を解いてしまう、魔法のような温かさがあった。
「あ、ありがとうございます」
陽介は軽く頭を下げると、勧められるままカウンター席へ腰を下ろした。
木製の椅子は想像していたよりも座り心地がよく、体を預けると今日一日の疲れが少しだけ抜けていくような気がした。
目の前には、磨き上げられた木目のカウンター。
その向こうでは、銀色のドリップポットやミルが静かに照明を反射している。
どれも長年使われてきた道具なのだろう。
新品にはない、使い込まれた美しさがそこにはあった。
「さて、ご注文いかがしましょう」



