ブブッ、というバイブ音が鳴った。
電車に乗ってから、二十分ほど経ったころである。
カーゴパンツのポケットから、スマホを取り出して画面を確認すると、LINEから一件の通知が来ていた。送信者は【ひーちゃんママ】となっている。
〈今日はありがとうね。ひーちゃんと、ゆっくりお話ししてきてください〉
そのメッセージに、自然と口角が上がる。
慣れたフリック入力ですぐさま返信をした。
〈こちらこそ、ありがとうございます〉
既読がついてから数分後、エプロンを着たお団子ヘアの女性が、指でオッケーサインをしているスタンプが送られてきた。誰でも使える、無料のスタンプだ。
会話が途切れたため、スマホはポケットの中へと戻した。
首を後ろに倒し、車内案内表示へと視線を向ける。目的地の下妻駅までは、あと一駅だ。
あの日、陽介は世にも奇妙な体験をした。
人間の言葉を巧みに使いこなしたカラスに誘われるまま、現実かもわからない森奥へと連れ込まれ、そこで、ひかると再会した。普通に話して、触れて、ひかるが死んだなんて嘘だと思ったけれど、次に陽介が目を覚ましたのは家のベッドの上だった。
何の変化もない部屋の天井をしばらくぼうっと眺めながら、すべて幻だったのだと自分に言い聞かせた。しかし、腕にわずかに残った、ひかるを抱きしめたときの感触が、あれは現実だと訴えてきたのだ。
居ても立っても居られなくなり、ひかるの母に連絡を入れた。ひかると同棲を始めるとなったとき、何かあったときのためにと連絡先を交換していたのだ。ひかるの母とは、別れの報告をしたとき以来連絡を取っていなかったが、陽介の方からメッセージを送るとすぐに既読がついた。どうやらひかるは、陽介と暮らしていた家を出てから、一度も母親と連絡を取っていなかったようだ。ひかるの母自身、ずっと気がかりではあったものの、便りの無いのは良い便りとも言うし、少しそっとしておくつもりだったという。しかし、切羽詰まった陽介からの連絡に、とうとうひかるの様子を見に行くことを決意した。もしよかったらついてきてほしいと頼まれ、陽介も同行することになった。
ひかるが住むアパートの管理人に事情を話し、渋々開けてもらった扉の先には、床に伏す彼女の姿があった。
あのカラスの言っていたことは本当だったのだ。
ひかるは、死んでしまった。
すでに息絶えているひかるの前で、彼女の母は「ひーちゃん」と、何度も名前を呼び掛けていた。陽介はその光景をぼんやりと眺めていた。
――陽介……わたしのこと、見つけて。
最期にひかるから伝えられた言葉の通り、陽介は彼女を見つけ出すことができた。しかし、その体の中に、もうひかるの魂が入っていないのかと思うと、目の前で倒れているのはたしかにひかるのはずなのに、ひかるではないようにも思えてきてしまった。
感情が追い付かず、その場で涙の一滴も零さなかった陽介だったが、ひかるの家族の計らいで告別式まで参列したときに、ようやく涙があふれた。棺が火葬炉に入れられ、ゴーッという音が微かに聞こえたその瞬間、もうひかるは死んでいるというのに、焼き殺されているような気がして胸が痛んだ。
その日から、なかなか立ち直ることができずにいた。会社も、告別式が終わってからの一週間は体調不良とのことで休暇をもらい、復帰した後も正直心ここにあらずの状態で、与えられた仕事を捌くだけの必要最低限の働きしかできなかった。
「もし陽介くんが迷惑でなければ、ひーちゃんに会いに行ってくれないかな」
ひかるの母から電話口でそう言われたのは、四十九日法要が終わってしばらくしてからだった。
ひかるの遺骨は、父方の実家がある茨城県の下妻市に納骨され、親戚たちとともに眠っている。あまり知らない人たちと同じ墓に入れられて寂しいだろうから、ぜひ会いに行ってほしい。
魂がこの世を去ってもなお娘の心配をする母親に憐れみを抱きつつ、もともと墓参りには行きたいと思っていたため、陽介は快諾したのだ。
ひかるが死んでから、もう二か月が経っている。季節は冬から春へと移り変わり、人々が桜の開花予想を気にし始めるころになった。
しばらく呆気を取られていたため、体感はものすごく短く感じたけれど、だいぶ経ったんだなあ、と思う。
きっと、ひかるの命日もあっという間に訪れるのだろう。
目的地の下妻駅につくと、ひかるが眠っている墓地までは徒歩で三十五分ほどかかることがわかった。幸いにも駅前にタクシー乗り場があったため、そこで数分待ってから乗車することができた。
木造やトタンの平屋が建ち並ぶ碁盤状の住宅地を抜けた先に、その墓地はあった。
こじんまりとしているが、きちんと区画整理されており、定期的に草むしりもしているのか風通しのよさそうな場所だ。しっかりと管理されているのだろう。
手桶と柄杓、それから道中で買った三色の菊の花を手に、整備された道を歩いていく。あらかじめ、ひかるの母から共有されていた位置情報と照らし合わせながら、遠山家の墓を探した。
入口から奥の方へと歩いていったところに、遠山家の墓はあった。法要を終えたばかりということもあり、墓石はほかの家のものよりもきれいに掃除されてある。
ひとりで墓参りに来るのは初めてだった。あらかじめ、何をどのような手順ですべきかネットで確認したはいいものの、誰にも見られていないのだからそこまで気にしなくていいかと、早々に調べるのをやめた。
「ひーちゃん、久しぶり」
言いながら、その場にしゃがみこんだ。
とりあえず持ってきた花を飾り付けようと、花立てに水を入れる。そこに、色合いのバランスが良くなるように、そっと菊の花を挿した。
このあと、線香を焚くという工程があったような気もするが、持ち合わせはない。
一度立ち上がり、柄杓で手桶から水をすくうと、それを墓石にそっとかけた。
そのあとはふたたびその場にしゃがんで、ようやくひかるとの二人の時間ができる。
どこかで見たことがあるような、気づいたら目の前にに今は亡き彼女が現れて――なんて展開は、訪れない。
そこにあるのは墓石と、ひかるがもうこの世にはいないという現実だけだった。
ひかると過ごした日々はとても刺激的で、楽しかった。精神がぐらぐらの状態に陥ったときは、ひかるの感情の起伏についていけず煩わしさを感じたこともあったが、それを差し引いても、やはり笑っていたときの記憶のほうが強く残っている。
「ひーちゃん……ごめんね」
自分が一緒にいれば、救急車を早い段階で呼んで、ひかるを救うことができたかもしれない。
その考えは、二か月が経った今でも変わらない。
自ら命を絶ったわけではない。死因は急性心不全で、陽介が別れずに一緒にいたとしても、きっとそれは避けられないことだったんだろうけれど、ほんの少しでも彼女を救えた可能性があるのであれば、やはり責任は感じてしまう。
謝罪の言葉ばかりが浮かんでしまい、これではだめだと首を横に振った。
口角を持ち上げて、なるべく明るい表情を墓石へと向ける。暗い顔ばかりしていたら、ひかるに心配をかけてしまうだろう。
「最後に会えて本当にうれしかった。こんな俺を拒まず、受け入れてくれてありがとう」
「それにしても、あのカラスが急に喋り出したときはびっくりしたよ。ひーちゃん、カラス嫌いだったのに話せたんでしょ? すごいね」
「そうそう、俺、あのカラスが家に飛び込んできたときに、思わず掃除機振り回しちゃってさ、テーブル少しへこんじゃったんだよね」
「あの家、ひーちゃんいなくなってから広すぎてさあ、もう俺からしたら豪邸だよあんなの。だから、繁忙期が過ぎたらいまより安くて狭い部屋を新しく借りようかなって思っててさ」
ひかるが生きていたら、どんな表情で、どのタイミングで相槌を打って、話を聞いてくれるのだろう。そんなことを想像しながら話せば、むなしさはなかった。
飲食店で働いていたときの元バイト仲間が、この前婚約したらしいという話や、あそこは子供が生まれたんだよ、という話もした。もしひかるが生きていて、自分たちが別れることなく付き合ったままの状態だったら、同じような道を辿っていたかもしれない。人生の大事な節目の報告を聞くたび、やはり頭を過るのはひかるなのだ。
真っ白のウェディングドレスを身にまとったひかる、大きくなったお腹を抱えながら幸せそうに微笑むひかる、赤ちゃんとの初対面で感極まって涙を流すひかる、駄々をこねる子どもに似たようなふくれっ面で叱るひかる――。全部が全部、ひかるなのだ。
俯くと、涙がこぼれそうになる。親指の付け根で、目頭から零れ落ちそうになったそれを拭い、ふぅと小さく息を吐いた。
――だめだ。絶対に泣かないと決めていたのに。
「……会いたいよ、ひーちゃん」
やはり、受け入れられない。
一番悔しいのはひかる本人に違いないが、あまりにも早すぎないか。
唇を噛み締めたその瞬間、視界がじゅわっと歪んだ。直後、頬に冷たいものが伝った。
一度溢れた涙は、止まることを知らない。
次から次へと溢れ出てくる幾筋もの涙を手の甲ですくいとっていると、足音がひとつ、近づいてきた。
ほかにも人がいるかもしれないという考えは、すっかり抜け落ちていた。驚きと羞恥から、涙は突然ぴたりと止む。
濡れた頬を拭ってから顔をあげると、そこには陽介と同じように手桶と柄杓、花を持った同年代くらいの女性が目を丸くして立っていた。
肩につかないくらいのボブヘアに、くりっとした瞳は、どこかひかると重なる部分がある。
涙で視界が歪んでいたせいで、一瞬、ひかるが会いに来てくれたのかと錯覚してしまった。
「あ、すみません……大丈夫です」
「いや全然。あ、これどうぞ」
手桶と柄杓を地面に置いたその女性は、ワイドパンツのポケットから桃色のハンカチを取り出した。そして、陽介の眼前へと差し出す。
見ず知らずの女性からハンカチを借りることは憚られ「大丈夫です」と断りを入れると、女性もすぐに「そうですか」と引き下がった。手桶と柄杓を手に持ち「じゃあ」と会釈をした女性は、陽介の後ろを通り過ぎると、その横に手桶と柄杓を改めて置いた。
どうやら隣の墓の人らしく、手首に掛けていたビニール袋の中からタオルを取り出すと、汚れた墓石を力強く拭き始めた。
ハンカチを断ったことで、会話は途切れていた。ただ、この距離感にいるのに何も話さないのは不自然だし、居心地もあまりよろしくない。
何か話すべきだろうか。
「父の墓参りなんです」
どうするか決めかねていた陽介に、女性は突然、墓石を磨きながら話しかけてきた。
「そうだったんですか。俺は、恋人――元、恋人の墓参りで」
女性の視線が、遠山家の墓の方へと移される。側面に彫られた故人の名前を見ているのかもしれない。そこには、没年月日と享年もともに刻み込まれている。
「最近のことだったんですね。不用意に話しかけちゃってごめんなさい」
「いや、全然……お姉さんも、きっと辛いはずなのに」
陽介のその言葉を、女性はかぶりを振って否定した。
「父は、もう十年前に亡くなったんです。交通事故で――」



