ユートピアに、珈琲を添えて


 ***

 突如、光を感じて目を開けた。

 あたりを見渡してみると、デスクチェアとともに横たわる自分の姿があった。

「夢……じゃなかったか」

 これは紛れもない現実なのだ。

 自分は――遠山ひかるは、死んだ。

 開け放たれた窓から、夜空を眺める。町を呑み込むような深い藍色から、月がこちらを見下ろしていた。

 あの珈琲店での出来事を、現実世界の陽介は知っているのだろうか。

「未練解消はどうだった」

 藍色の空から突如現れた田宮が、窓の桟に留まるなり聞いてきた。

「自分がいかに甘く、弱い人間なのかを再確認できました。ひとりになれば立派だと思っていたけど、わたしは立派な人間なんかじゃなかった」

「未練たらたらか」

「そんなことありません」ひかるは、田宮に微笑みかける。「そんな弱いわたしでも、それがわたしで、愛してくれている人がいるってわかったから。それがわかっただけで、もう十分なんです。わたしは受け入れますよ、このまま」

「いいんじゃないか。お前はお前のままで。正解なんてないだろ」

 田宮は、なんだかんだ優しい。言葉の節々に温かさがあるのは、かつて父親だったからだろか。

「ねぇ、田宮さん」

「ん?」

「娘さん、きっと田宮さんに会いたいと思ってるはずですよ」

「……なんだ、急に」

 他人であるひかるでさえ、その優しさを感じるほどだ。彼の厳しい言葉の裏には、きちんと、相手を思いやる心と愛情がある。それに気づていないところが、田宮の魅力なのかもしれない。

 ひかるが曖昧に微笑むと、田宮は眉を顰めたときのように目を細くして「気持ち悪いぞ」と毒づいた。

「最期、陽介が会いに来てくれたのは、田宮さんの計らいですよね」

「さあな。何のことだかさっぱり」

「ありがとうございます。彼に会えていなかったらわたし、きっと未練を残したまま成仏できてなかったかもしれない」

 本当に、ありがとうございました。
 改めて深々と頭を下げるひかるに、田宮は居心地悪そうに視線を逸らす。

「俺は俺の役目を果たしただけだ。そしてあんたも、あんたの役目を全うしただけ。ただ、それだけだ」

「……はい」

「もう、心残りはないな」

「心残りがあるとすれば、死んじゃったことくらいですかね」
「残念ながら、未練解消をするために生き返ることはできない――が、安心しろ。それで未練解消不履行になることはない。ちゃんと、成仏できるはずだ」

 神様は優しいと思っていたけれど、それは大きな間違いだったのかもしれない。
 もし本当に優しいのであれば、人から命を奪ったりなどしないはずだ。

「……じゃあ、行こう」

 田宮の翼が、ひかるへと差し出される。
 しかし、翼に触れようとしたその瞬間、玄関のほうからピンポーンというインターホンの音が聞こえてきた。そしてすぐ後に、ドンドンッ、と強く扉を叩く打撃音が鳴る。

 焦燥の混じった音に導かれるように、ひかるは玄関のほうへとつま先を向けた。

「おい、ひかる」

 呼び止める田宮の声を無視して、三和土に裸足のまま立つと、玄関扉にそっと触れた。自分の体に触れたときの、ビリビリとした電流のような痛みが、指先から全身へと流れ込んでくる。

 咄嗟に玄関扉から手を離すと、今度はそっと顔を寄せて、扉に触れないぎりぎりのところで向こう側の声に耳を立てた。

「もうずっと連絡が取れなくなっていて、気がかりではあったんです……」

「お母さん……?」

 顔は見なくてもわかる。久しぶりに聞いた母の声に、自然と涙腺が緩んだ。
 ひどく混乱しているのが、扉越しに伝わる。

「いやぁ、そんな時間経ってないなら、もう少し待つべきだとも思いますけどね」

 この声は、管理人だろうか。
 カチャカチャという金属音が擦れあう音に交じって、呆れたような声を漏らしている。実家を離れたあと、子どもからの連絡が絶えたという話は珍しくはない。賃貸の管理をしている彼からしてみれば、母は大袈裟で過保護に映っているのだろう。

「ひかる、そろそろ行こう」

 田宮が、ひかるの肩に留まった。

「……はい」

 母の甲高い声に背を向け、窓のほうへと向かう。
 玄関扉のほうをもう一度振り返ってから、窓の桟に手を掛けた。

「この中で倒れてるかもしれないんです!」

 力を込めようとしたその瞬間、玄関扉を突き破るほどの声が、ひかるの耳に届く。

 ――陽介だ。

 彼に伝えた最期の言葉は、しっかりと届いていた。
 ダムが決壊したように、目からぼろぼろと涙があふれ出る。それは何度拭っても止まることを知らず、ひかるを溺れさせようとしていた。

「ひかる」

 田宮の黒い翼が、ひかるの頬を撫でる。

「大丈夫だ。何も怖くない。俺がついている」

 受け入れよう。弱い自分も、死も。すべて。

「……行きましょう」

 夜空へと飛び立ったその瞬間、後ろでガチャリと音が鳴った。

 でももう、振り返ることはしなかった。

 ――さようなら、わたしのユートピア。