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目の前にいるのは、西原陽介だった。それなのに、ひかるに興味は示さず、テーブル席に座ってからもずっと店内を見渡している。
――最後の来客が、陽介ってこと?
サンゴがどういった経緯で陽介を知り、どのようにしてここまで連れてきたのかわからない。
状況が読めないまま、ひかるはとりあえず開けっ放しにしていた扉をそっと閉めた。カウンターからメニュー表だけを取り、彼の前へと回り込む。ちらちらと顔を見るが、やはり陽介だ。間違いない。
「あの……」
メニュー表を広げるや否や、彼は何の迷いもなく「キャラメルラテ、アイスで」と、こちらを一切見ずに注文を入れた。そして、どこを見ているのかわからない視線のままで「ホイップ乗ってるやつですよね?」と聞いてくる。先ほど、冷蔵庫にクリームディスペンサーがあるのは確認した。カウンター内の隅に亜酸化窒素のガスボンベが置いてあるため、ホイップクリームを作ることは出来るだろう。
――いや、そんなことより。いまの注文で、彼が間違いなく西原陽介であることはわかった。陽介は無類の甘党で、キャラメルラテでさえホイップクリームがないと飲めない。
「かしこまりました」
とりあえず、注文されたものを作るためにカウンターに入る。
グラスにキャラメルシロップを五プッシュほどしてから、ラテと同じ工程を踏む。作っている間、陽介のことばかりが気になって、フォーミングが少々雑になってしまった。これが違うお客様だったら作り直しをするところだが、うまく誤魔化して冷蔵庫からクリームディスペンサーを取り出す。中身は入っていて、ガスも注入済みのようだ。五回ほど振ってからレバーを握ると、プシューと音を立てながらホイップクリームが出てくる。雲のようにふわふわとしたホイップを二周ほどさせて、その上にたっぷりとキャラメルソースをかけた。スプーンストローとガムシロップをお盆に載せ、陽介が待つテーブル席へと運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
テーブルの上にキャラメルラテを置くなり、陽介はスプーンストローを使って上のホイップクリームを先に一口食べた。そして、欠けたホイップのところから、ガムシロップを注ぐ。慎重に全体を混ぜ始めた陽介を、ひかるはまじまじと見つめた。
しばらくして視線を感じたのか、陽介は手を止めてひかるを見上げた。不思議そうに首を傾げた彼に白々しさを感じ、思わず笑ってしまう。
「えっ。なんで、陽介がここにいるの?」
「……俺、大塚ですけど。大塚時弥」
その名前を聞いて、はっとした。
――ああ、そうか。そういうことか。
心臓がずきずきと痛みだした直前――つまり、ひかるが死ぬ前、初の恋愛小説を書くために構成を練ろうとしていたところだった。
キャラクターの設定から考えるひかるは【恋愛小説】と打ち込んだ後、【大塚時弥】の名を記した。そのときに頭に浮かべていたモデルは、もしかしたら陽介だったのかもしれない。
これまでここに来た主人公たちも、ひかるがイメージしたものに近い容姿で現われた。大塚時弥に関しては、細かい設定どころか年齢さえ決めていなかったのだか、自分が経験した恋愛を基に書くことは漠然と決めていたために、元恋人である彼の幻影が現れているのかもしれない。どのようにして彼をここに連れてきたのかはわからないが、これではっきりしたことは、いままでここにやって来た主人公たちも、どこかの誰かかもしれないということだ。
しかし、そもそもなぜ大塚時弥はここに現れることができたのだろう。物語を書き始めていないのだから、彼に立ちはだかる壁など存在しないはずだ。
田宮が言っていた「お前が描きたかった人生の物語」とは、まだ始まってすらいない大塚時弥の人生のことだろうか。まだ道にもなっていない野原に、ひかると陽介――もとい時弥は、突然立たされた。どうしたらいいのかわからない。男の主人公は書いたことがなかったし、そもそも男心など、ひかるにはわからなかった。だからこそ、当初はサンゴにこの名前を伝えていなかったのだ。
結局、その場しのぎのために名前を出すことになったのだが。
「大塚さん……あなたはなぜここに?」
そんなことを聞いても、何も物語を書き始めていない。時弥の返答を前のめりで待っていると「とりあえず座ったらどうですか」と、向かいの席に座るように促された。言われた通り、テーブルを挟んで向かい合う。真正面から見た時弥の顔は、やはり陽介にしか見えない。
「あなたのことが、知りたくて」
大塚時弥はそう言った。
そうか、と勝手に納得してしまう。自分を創り出し、名前だけ与えられてはどうすればいいかもわからないはずだ。ひかるはお盆をテーブルの上に置くと、居住まいを正す。
「遠山ひかるです」
「何歳ですか?」
「二十四歳です」
「へぇ。じゃあ、俺の一個下だ」
笑顔で言う。なんだか、彼と――陽介と初めて会ったときのような感じがして、こそばゆかった。胸がじんわりと熱くなる。こんな気持ち、久しぶりだ。
思い返してみれば、陽介と出会ったのは高校生のときだった。そのとき彼は大学生で、面倒見がよくて、明るくて面白いお兄さんだと思っていた。まさか、のちに付き合うことになるとは思ってはいなかった。それでも、出会ったあの瞬間から、この人は自分の人生にこの先も何度も登場してくるんだろうな、なんて根拠のない確信があった。そう思っていた彼でさえも、切ってしまったのだけれど。
後悔していた。
彼との出会いをやり直せている気がして、頬が緩んだ。この空間でなければ、できないことだ。現実世界は、やり直しなどきかない。
高校時代は何をやっていたんですか。へぇ、俺はバスケでした。大学は行ってたけど、一年生の終わりから例のウィルスがやってきて、夢のキャンパスライフとまではいかなかったんだけど。
話している内容は、やはり陽介そのまんまだ。それでもひかるは、彼を大塚時弥として扱った。陽介だと認めてしまえば、この空間がいっきに崩れてしまうような気がして怖かったから。現実に引き戻されるのが怖くて、必死に目を逸らした。
「それにしても、本当にいいお店だなあ。俺も働いちゃおっかな」
呑気な言い草は冗談とも捉えられるが、これが陽介であれば半分本気かもしれない。彼は、思い立ったらすぐに手をつける、行動力の高い人だった。一度考え始めると長いひかるとは真反対の性格で、いままでに何度背中を押してもらったことか、数えきれない。飲食店のバイトを辞めるときも、書店のバイトに応募するときも、陽介はひかるよりも気合が入っていた。
いまになって思う。
自分のためにあそこまで真剣に考えてくれる人を、手放すべきではなかった。
「いや、本当にいいな。バイトとか募集してない?」
「残念ながら、してません」
「ええっ」
「ここは、今日限りのお店なので」
「じゃあ、そんな日にひかるちゃんに会えた俺は、超絶ラッキーだったってことだね」
合コンのような他愛もない問答を繰り返しているうちに、わずかに固形を保っていたホイップクリームは徐々に沈んでいった。「あ、忘れてた」とキャラメルラテに口をつけ、束の間、会話が途切れる。ストローから唇を離した時弥は、手にしたストローはそのままで、手持ち無沙汰にキャラメルラテを混ぜ始めた。
妙に空いた間に気持ち悪さを感じていると、時弥は唐突に口を開く。
「ひかるちゃんが一番大事にしてることって、なに?」
「えっ?」
いままでとは毛色の違った質問に戸惑ってしまう。
「ものでも……人でもいいけど」
大事なもの――なんだろう。
ふと、ここにやってきた主人公たちの顔が頭に思い浮かんだ。
小説は、とても素敵なものだ。時には苦しい局面を書かなければいけないこともあるけれど、おおかた自分の好きなように物語を運ぶことができる。普段は決して口に出せないような思いも、主人公たちに託すこともできる。
でもそれは、自分が現実世界でしなければいけない選択を、空想の中の住人たちに押し付けているだけの甘え、逃げだ。
小説を書くことは、自分の人生に必要不可欠だとさえ思っていた。
でももしかしたら、自分にとって一番不要だったのは、空想の世界だったのかもしれない。では、自分はいったい、何を一番に大切にすべきだったのか――。
答えはすぐそこにあるのに、口に出すのが怖かった。すべてを捨てて、ここに懸けてきた自分を否定するようで。
顔が曇っていたことに気づかれたのか「じゃあ、俺から答えるよ」と、気を使われてしまった。
「俺が大事にしているのは、人とのつながり」
彼なら、そう言うと思った。そして、ひかるが口に出すのを臆していた言葉そのものだった。
「こいつうぜーとか、腹立つとか嫌いとか……誰とも話したくないって思ったりとか、一人のほうが楽だなって思うこともあったけど、それでもやっぱり、孤独は嫌だから」
孤独。一人じゃなくて、独り。
――ああ、そうか。わたしは、独りだったのか。
「どれほど好きな家族でも友達でも、やっぱ四六時中一緒にいれば、嫌なところのひとつやふたつ、簡単に見つかると思うんだ。だから、嫌になったら、離れてもいい。ただ、帰れる場所はそのままにしておいたほうがいい」
ひかるは、帰れる場所を自らの手で壊してしまった。
「たしかに、そうですね――って……今気づいても、遅いか」
笑い飛ばすことしかできない。
いつも辛いことがあったとき、陽介は笑っていた気がする。それなのに、目の前の時弥は泣きそうな顔をしている。やはり、他人の空似なだけで、別人なのかもしれない。
泣きたいのは、こっちの方だってのに。
「人間、ひとりじゃだめだよ。ひとりでも大丈夫って人はいるけど、無理にひとりで強くなろうとしなくていいんだよ。時には何かに寄り掛かっていいんだよ。ずっと立ちっぱなしの人間なんていないんだから」
目と鼻の奥が、くすぐったい。彼に名前しか与えていないはずなのに、それなのに、どうしていままでここにやってきたどの主人公よりも、人間味がするのだろう。どの主人公よりも、愛おしく感じるのだろう。その謎を探るように、彼の目を、その奥をじっと見つめる。
甘くて、温かくて、底が見えないほどの眩しさに、堪えていたものがあふれ出た。
そうか。そうだよね。
会いにきてくれたんだよね。
「……陽介、なんだよね。絶対そうでしょ」
ふっと目が逸らされた。直後、顎がしゃくれる。陽介が何かを誤魔化すときの癖だ。そしてその癖を、陽介自身が一番理解していた。
悟られたことを悟った陽介は、いたずらがバレた子供のように頭をかく。
「遅いよな、俺も。ごめん、本当にごめん……」
顔を伏せる。そこから、ぽたぽたと雫が立て続けに落ちた。鼻水か涙かはわからない。泣くときは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる彼のことだから、どちらも半々かもしれない。
「あのとき――必要ない、って言われたときに、それでもしがみつくべきだった。こんなこと言ったらひーちゃん怒るかもしれないけど、絶対にいまのきみを、ひとりにすべきじゃなかった」
多くの女性は、この言葉を聞いて怒るかもしれない。現代の女性は、強い。働いてお金を稼いで、ひとりで生計をたてている人もいれば、働きながらも子育てに邁進する人もいる。みんなしたたかで、泥だらけで、美しい。ひかるも、いずれかは小説で食べていけるようにと思っていたけれど、彼の言うとおり、自分はそんな強い女ではないのだ。時代遅れかもしれないけれど、本当は何かに寄り掛かっていたいのだ。それが甘えだと逃げだと言われようと、ひかるにはそんな生き方しかわからない。そんな生き方で、よかったのだ。肩を貸してくれる人間がいてくれたのだから。
時弥――陽介が立ち上がって、ひかるの横で膝をついた。目線を合わせた陽介が、ひかるの両手を手に取る。椅子に対して横向きに座りなおすと、陽介はひかる強く抱きしめた。全身の骨が砕けてしまいそうなほど強く、優しい抱擁だった。
「陽介……痛いよ」
「ごめん。ひーちゃんの苦しみに、気づいてあげられなくて……わかろうとしなくて」
そんなことはない。
陽介が謝ることなど、ひとつもない。
「謝るのはわたしだよ。大事な人を蔑ろにして、傷つけて、結局は自分が一番かわいいんだもん」
「かわいいよ。ひーちゃん、かわいいもん。いいんだよ、それで。俺が、ずっとずっと、支えるから。おいしいごはんいっぱい食べて、笑っててくれれば俺はそれだけで……」
次から次へと降りかかる陽介の言葉は、溶けてしまいそうなほど熱くて、甘い。これほどの幸福を味わってしまうと、もっと、もっと欲しくなってしまう。
陽介の気持ちに応えるように、ずっと躊躇っていた手を背中に回した。抱きしめられる力が、より一層強くなる。
「ひーちゃんは、生きてさえいれば……だから、お願い……戻ってきて」
生きてさえいれば。
その望みにすら応えられないことが悔しくて、涙腺が刺激される。
「陽介……」
あったかい。人に愛を向けられるのは、とってもあったかい。
自分にとってのユートピアは、本当はここだったのかもしれない。
キャラメルのように、とろけてしまうような甘さで、彼は最期にわたしを包んでくれた。
「陽介……」
体を離し、彼をじっと見つめる。
ずっと、ずっと、この目に見つめられていたい。
きっと、自分がいなくなったあとの世界で、陽介はこれからの人生を共に歩む別のパートナーと出会うのだろう。明るく見えて、意外と繊細でもある彼のことだから、すぐにそういった相手が見つかるとは思えないけれど、いつかは絶対に来るのだ。
そのときになったらきっと、ひかるとの記憶は薄れていくのだろう。ひかるに向けていたその目が、ちがう誰かに向けられる日が来るのかと思うと、とても苦しい。
それでも、彼と別れることを選んだのは自分自身で、過去を変えることも、未来を紡ぐこともできない。
そっと、彼の頬に触れてみる。ひかるよりも肌艶の良い頬に、いまは劣等感や嫉妬ではなく、愛おしさが感じられた。
最期に、望むことはたったひとつだけ。
「陽介……わたしのことを、見つけて」
涙で歪んだ顔のまま、陽介は嗚咽とともに何度も何度も頷いた。
ようやく、キャラメルラテが完成したような気がした。
「ありがとう」
体がふわふわし始めて、そのときが来たのだと悟る。
動いていないはずなのに、陽介が徐々に遠のいていき、気づいたときには視界は真っ暗になっていた。



