ユートピアに、珈琲を添えて


 ***

 目の前にいるのは、西原陽介だった。それなのに、ひかるに興味は示さず、テーブル席に座ってからもずっと店内を見渡している。

 ――最後の来客が、陽介ってこと?

 サンゴがどういった経緯で陽介を知り、どのようにしてここまで連れてきたのかわからない。

 状況が読めないまま、ひかるはとりあえず開けっ放しにしていた扉をそっと閉めた。カウンターからメニュー表だけを取り、彼の前へと回り込む。ちらちらと顔を見るが、やはり陽介だ。間違いない。

「あの……」

 メニュー表を広げるや否や、彼は何の迷いもなく「キャラメルラテ、アイスで」と、こちらを一切見ずに注文を入れた。そして、どこを見ているのかわからない視線のままで「ホイップ乗ってるやつですよね?」と聞いてくる。先ほど、冷蔵庫にクリームディスペンサーがあるのは確認した。カウンター内の隅に亜酸化窒素のガスボンベが置いてあるため、ホイップクリームを作ることは出来るだろう。

 ――いや、そんなことより。いまの注文で、彼が間違いなく西原陽介であることはわかった。陽介は無類の甘党で、キャラメルラテでさえホイップクリームがないと飲めない。

「かしこまりました」

 とりあえず、注文されたものを作るためにカウンターに入る。

 グラスにキャラメルシロップを五プッシュほどしてから、ラテと同じ工程を踏む。作っている間、陽介のことばかりが気になって、フォーミングが少々雑になってしまった。これが違うお客様だったら作り直しをするところだが、うまく誤魔化して冷蔵庫からクリームディスペンサーを取り出す。中身は入っていて、ガスも注入済みのようだ。五回ほど振ってからレバーを握ると、プシューと音を立てながらホイップクリームが出てくる。雲のようにふわふわとしたホイップを二周ほどさせて、その上にたっぷりとキャラメルソースをかけた。スプーンストローとガムシロップをお盆に載せ、陽介が待つテーブル席へと運ぶ。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 テーブルの上にキャラメルラテを置くなり、陽介はスプーンストローを使って上のホイップクリームを先に一口食べた。そして、欠けたホイップのところから、ガムシロップを注ぐ。慎重に全体を混ぜ始めた陽介を、ひかるはまじまじと見つめた。

 しばらくして視線を感じたのか、陽介は手を止めてひかるを見上げた。不思議そうに首を傾げた彼に白々しさを感じ、思わず笑ってしまう。

「えっ。なんで、陽介がここにいるの?」

「……俺、大塚ですけど。大塚時弥」

 その名前を聞いて、はっとした。

 ――ああ、そうか。そういうことか。

 心臓がずきずきと痛みだした直前――つまり、ひかるが死ぬ前、初の恋愛小説を書くために構成を練ろうとしていたところだった。
キャラクターの設定から考えるひかるは【恋愛小説】と打ち込んだ後、【大塚時弥】の名を記した。そのときに頭に浮かべていたモデルは、もしかしたら陽介だったのかもしれない。

 これまでここに来た主人公たちも、ひかるがイメージしたものに近い容姿で現われた。大塚時弥に関しては、細かい設定どころか年齢さえ決めていなかったのだか、自分が経験した恋愛を基に書くことは漠然と決めていたために、元恋人である彼の幻影が現れているのかもしれない。どのようにして彼をここに連れてきたのかはわからないが、これではっきりしたことは、いままでここにやって来た主人公たちも、どこかの誰かかもしれないということだ。

 しかし、そもそもなぜ大塚時弥はここに現れることができたのだろう。物語を書き始めていないのだから、彼に立ちはだかる壁など存在しないはずだ。

 田宮が言っていた「お前が描きたかった人生の物語」とは、まだ始まってすらいない大塚時弥の人生のことだろうか。まだ道にもなっていない野原に、ひかると陽介――もとい時弥は、突然立たされた。どうしたらいいのかわからない。男の主人公は書いたことがなかったし、そもそも男心など、ひかるにはわからなかった。だからこそ、当初はサンゴにこの名前を伝えていなかったのだ。

 結局、その場しのぎのために名前を出すことになったのだが。

「大塚さん……あなたはなぜここに?」

 そんなことを聞いても、何も物語を書き始めていない。時弥の返答を前のめりで待っていると「とりあえず座ったらどうですか」と、向かいの席に座るように促された。言われた通り、テーブルを挟んで向かい合う。真正面から見た時弥の顔は、やはり陽介にしか見えない。

「あなたのことが、知りたくて」

 大塚時弥はそう言った。

 そうか、と勝手に納得してしまう。自分を創り出し、名前だけ与えられてはどうすればいいかもわからないはずだ。ひかるはお盆をテーブルの上に置くと、居住まいを正す。

「遠山ひかるです」

「何歳ですか?」

「二十四歳です」

「へぇ。じゃあ、俺の一個下だ」

 笑顔で言う。なんだか、彼と――陽介と初めて会ったときのような感じがして、こそばゆかった。胸がじんわりと熱くなる。こんな気持ち、久しぶりだ。

 思い返してみれば、陽介と出会ったのは高校生のときだった。そのとき彼は大学生で、面倒見がよくて、明るくて面白いお兄さんだと思っていた。まさか、のちに付き合うことになるとは思ってはいなかった。それでも、出会ったあの瞬間から、この人は自分の人生にこの先も何度も登場してくるんだろうな、なんて根拠のない確信があった。そう思っていた彼でさえも、切ってしまったのだけれど。

 後悔していた。

 彼との出会いをやり直せている気がして、頬が緩んだ。この空間でなければ、できないことだ。現実世界は、やり直しなどきかない。

 高校時代は何をやっていたんですか。へぇ、俺はバスケでした。大学は行ってたけど、一年生の終わりから例のウィルスがやってきて、夢のキャンパスライフとまではいかなかったんだけど。

 話している内容は、やはり陽介そのまんまだ。それでもひかるは、彼を大塚時弥として扱った。陽介だと認めてしまえば、この空間がいっきに崩れてしまうような気がして怖かったから。現実に引き戻されるのが怖くて、必死に目を逸らした。

「それにしても、本当にいいお店だなあ。俺も働いちゃおっかな」

 呑気な言い草は冗談とも捉えられるが、これが陽介であれば半分本気かもしれない。彼は、思い立ったらすぐに手をつける、行動力の高い人だった。一度考え始めると長いひかるとは真反対の性格で、いままでに何度背中を押してもらったことか、数えきれない。飲食店のバイトを辞めるときも、書店のバイトに応募するときも、陽介はひかるよりも気合が入っていた。

 いまになって思う。
 自分のためにあそこまで真剣に考えてくれる人を、手放すべきではなかった。

「いや、本当にいいな。バイトとか募集してない?」

「残念ながら、してません」

「ええっ」

「ここは、今日限りのお店なので」

「じゃあ、そんな日にひかるちゃんに会えた俺は、超絶ラッキーだったってことだね」

 合コンのような他愛もない問答を繰り返しているうちに、わずかに固形を保っていたホイップクリームは徐々に沈んでいった。「あ、忘れてた」とキャラメルラテに口をつけ、束の間、会話が途切れる。ストローから唇を離した時弥は、手にしたストローはそのままで、手持ち無沙汰にキャラメルラテを混ぜ始めた。

 妙に空いた間に気持ち悪さを感じていると、時弥は唐突に口を開く。

「ひかるちゃんが一番大事にしてることって、なに?」

「えっ?」

 いままでとは毛色の違った質問に戸惑ってしまう。

「ものでも……人でもいいけど」

 大事なもの――なんだろう。

 ふと、ここにやってきた主人公たちの顔が頭に思い浮かんだ。

 小説は、とても素敵なものだ。時には苦しい局面を書かなければいけないこともあるけれど、おおかた自分の好きなように物語を運ぶことができる。普段は決して口に出せないような思いも、主人公たちに託すこともできる。

 でもそれは、自分が現実世界でしなければいけない選択を、空想の中の住人たちに押し付けているだけの甘え、逃げだ。

 小説を書くことは、自分の人生に必要不可欠だとさえ思っていた。
 でももしかしたら、自分にとって一番不要だったのは、空想の世界だったのかもしれない。では、自分はいったい、何を一番に大切にすべきだったのか――。

 答えはすぐそこにあるのに、口に出すのが怖かった。すべてを捨てて、ここに懸けてきた自分を否定するようで。

 顔が曇っていたことに気づかれたのか「じゃあ、俺から答えるよ」と、気を使われてしまった。

「俺が大事にしているのは、人とのつながり」

 彼なら、そう言うと思った。そして、ひかるが口に出すのを臆していた言葉そのものだった。

「こいつうぜーとか、腹立つとか嫌いとか……誰とも話したくないって思ったりとか、一人のほうが楽だなって思うこともあったけど、それでもやっぱり、孤独は嫌だから」

 孤独。一人じゃなくて、独り。

 ――ああ、そうか。わたしは、独りだったのか。

「どれほど好きな家族でも友達でも、やっぱ四六時中一緒にいれば、嫌なところのひとつやふたつ、簡単に見つかると思うんだ。だから、嫌になったら、離れてもいい。ただ、帰れる場所はそのままにしておいたほうがいい」

 ひかるは、帰れる場所を自らの手で壊してしまった。

「たしかに、そうですね――って……今気づいても、遅いか」

 笑い飛ばすことしかできない。

 いつも辛いことがあったとき、陽介は笑っていた気がする。それなのに、目の前の時弥は泣きそうな顔をしている。やはり、他人の空似なだけで、別人なのかもしれない。

 泣きたいのは、こっちの方だってのに。

「人間、ひとりじゃだめだよ。ひとりでも大丈夫って人はいるけど、無理にひとりで強くなろうとしなくていいんだよ。時には何かに寄り掛かっていいんだよ。ずっと立ちっぱなしの人間なんていないんだから」

 目と鼻の奥が、くすぐったい。彼に名前しか与えていないはずなのに、それなのに、どうしていままでここにやってきたどの主人公よりも、人間味がするのだろう。どの主人公よりも、愛おしく感じるのだろう。その謎を探るように、彼の目を、その奥をじっと見つめる。

 甘くて、温かくて、底が見えないほどの眩しさに、堪えていたものがあふれ出た。

 そうか。そうだよね。
 会いにきてくれたんだよね。

「……陽介、なんだよね。絶対そうでしょ」

 ふっと目が逸らされた。直後、顎がしゃくれる。陽介が何かを誤魔化すときの癖だ。そしてその癖を、陽介自身が一番理解していた。

 悟られたことを悟った陽介は、いたずらがバレた子供のように頭をかく。

「遅いよな、俺も。ごめん、本当にごめん……」

 顔を伏せる。そこから、ぽたぽたと雫が立て続けに落ちた。鼻水か涙かはわからない。泣くときは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる彼のことだから、どちらも半々かもしれない。

「あのとき――必要ない、って言われたときに、それでもしがみつくべきだった。こんなこと言ったらひーちゃん怒るかもしれないけど、絶対にいまのきみを、ひとりにすべきじゃなかった」

 多くの女性は、この言葉を聞いて怒るかもしれない。現代の女性は、強い。働いてお金を稼いで、ひとりで生計をたてている人もいれば、働きながらも子育てに邁進する人もいる。みんなしたたかで、泥だらけで、美しい。ひかるも、いずれかは小説で食べていけるようにと思っていたけれど、彼の言うとおり、自分はそんな強い女ではないのだ。時代遅れかもしれないけれど、本当は何かに寄り掛かっていたいのだ。それが甘えだと逃げだと言われようと、ひかるにはそんな生き方しかわからない。そんな生き方で、よかったのだ。肩を貸してくれる人間がいてくれたのだから。

 時弥――陽介が立ち上がって、ひかるの横で膝をついた。目線を合わせた陽介が、ひかるの両手を手に取る。椅子に対して横向きに座りなおすと、陽介はひかる強く抱きしめた。全身の骨が砕けてしまいそうなほど強く、優しい抱擁だった。

「陽介……痛いよ」

「ごめん。ひーちゃんの苦しみに、気づいてあげられなくて……わかろうとしなくて」

 そんなことはない。
 陽介が謝ることなど、ひとつもない。

「謝るのはわたしだよ。大事な人を蔑ろにして、傷つけて、結局は自分が一番かわいいんだもん」

「かわいいよ。ひーちゃん、かわいいもん。いいんだよ、それで。俺が、ずっとずっと、支えるから。おいしいごはんいっぱい食べて、笑っててくれれば俺はそれだけで……」

 次から次へと降りかかる陽介の言葉は、溶けてしまいそうなほど熱くて、甘い。これほどの幸福を味わってしまうと、もっと、もっと欲しくなってしまう。

 陽介の気持ちに応えるように、ずっと躊躇っていた手を背中に回した。抱きしめられる力が、より一層強くなる。

「ひーちゃんは、生きてさえいれば……だから、お願い……戻ってきて」

 生きてさえいれば。

 その望みにすら応えられないことが悔しくて、涙腺が刺激される。

「陽介……」

 あったかい。人に愛を向けられるのは、とってもあったかい。

 自分にとってのユートピアは、本当はここだったのかもしれない。

 キャラメルのように、とろけてしまうような甘さで、彼は最期にわたしを包んでくれた。

「陽介……」

 体を離し、彼をじっと見つめる。

 ずっと、ずっと、この目に見つめられていたい。

 きっと、自分がいなくなったあとの世界で、陽介はこれからの人生を共に歩む別のパートナーと出会うのだろう。明るく見えて、意外と繊細でもある彼のことだから、すぐにそういった相手が見つかるとは思えないけれど、いつかは絶対に来るのだ。

 そのときになったらきっと、ひかるとの記憶は薄れていくのだろう。ひかるに向けていたその目が、ちがう誰かに向けられる日が来るのかと思うと、とても苦しい。

 それでも、彼と別れることを選んだのは自分自身で、過去を変えることも、未来を紡ぐこともできない。

 そっと、彼の頬に触れてみる。ひかるよりも肌艶の良い頬に、いまは劣等感や嫉妬ではなく、愛おしさが感じられた。

 最期に、望むことはたったひとつだけ。

「陽介……わたしのことを、見つけて」

 涙で歪んだ顔のまま、陽介は嗚咽とともに何度も何度も頷いた。

 ようやく、キャラメルラテが完成したような気がした。

「ありがとう」

 体がふわふわし始めて、そのときが来たのだと悟る。

 動いていないはずなのに、陽介が徐々に遠のいていき、気づいたときには視界は真っ暗になっていた。