ユートピアに、珈琲を添えて


 突如現れた人間の言葉を話すカラスから伝えられたのは、ひかるの死だった。情報量の多さに、まだ理解が追い付いていないというのに、最後にひかると話すことができるときた。

 陽介は頭を抱えたくなるのを堪えて、ひとつひとつ、情報を追いかける。

 このカラスがなぜ話せるのかは置いといて、ひかるが死んだというのは本当なのだろうか。もし本当だとすれば、その理由は? 事故? まさか、自らの手で――。いや、これが嘘だった場合、このカラスの目的は何なんだ?

 考えれば考えるほど、理解は失速していく。

 それでもなお、目の前のカラスは容赦なく言葉を浴びせてきた。

「ひかるは、本気で小説を書いていた。だから、その物語の数々を完結できないままこの世から去ることを惜しんだ。未練解消の機会を使って、現実の人間でなく、空想の中の住人たちと会うことを選んだのは、主人公たちに進めべき道を示すためだ。だから正直、あんたと最期に顔を会わせたがっているかも俺にはわからない」

 途端、思考回路がショートした。

 ――ああ、そうか。そりゃ、そうだよな。俺たち、別れたんだもんな。

 あのときひかるの顔は、いまでも時々思い出す。一片の迷いもなく、開き直ったような表情が、むしろ清々しくも感じられた。

 ――わたしの人生に、あなたは必要ないのかもしれない。

 それまで、ひかるに対して温かいものばかりを与えていた。自分の身から差し出せる優しさは、余すことなく彼女に与えてきたつもりだった。それなのに、はさみで糸を切るように、ひかるは簡単に陽介を切ったのだ。

 ただ、ひかるがそばにいてくれさえいればいい。彼女に惚れ込んでいた陽介は、特別な見返りは求めず、ささやかな幸せだけを望んでいた。しかし、そのささやかな幸せだけでも、ひかるからしてみれば大きなプレッシャーだったのかもしれないと、いまになって思う。

 別れ話が出たとき、頭にカーっと血が上っていたし「あなたに構ってあげる時間を、執筆に使いたい」なんて、とんでもない発言を受けて放心状態だった。「別れよう」とさえ言えなかったけれど、その言えない部分はひかるが言葉にした。そしてその言葉を、受け取ることしかできなかった。

 ひかるがいなくなった1LDKの部屋は、小さいころから家族三人で同じような間取りの家に住んでいた陽介からしたら、ひどく広く感じられた。

 ひかるは、どうだっただろう。

 メンタルが崩れ落ちて、バイトに行けなくなって、毎日のように泣き続けていた彼女は、陽介がいなくなったこの部屋にどんな感情を抱いていただろう。

 きっと、寂しかったのだろう。不安も感じていたかもしれない。

 その寂しさと不安を埋めるために、本を読み始め、現実から目を背けるようになった。

 ひかるが元気になるなら何でもいいと思っていたけれど、結果的に浮気されたような気分になった。都合よく作り上げられた空想の世界なんかに、陽介のような柔軟性のない人間は、負けるに決まっている。

 結局、ひかるのことはよくわからなかった。もうだいぶ長く付き合っていて、結婚も視野に入れていたけれど、突き放された。

 ――いや、俺が突き放したのか。彼女を理解しようともせず、逃げた。ひかるだけじゃない。俺も、逃げてたんだ。

 彼女のことを、もっと知りたかった。

「……知りたい。ひーちゃんが俺の顔なんて見たくなかったとしても、俺はひーちゃんの最期に会いにいきたい」

 禍々しい黒い羽を纏ったカラスは、何を考えているのかわからないような目つきで、陽介を見つめている。油断していると奇襲を掛けられそうで、自然と体は力んでいた。しかし、それは杞憂に終わる。

「いいか? ――大塚時弥。それが、ひかるが書こうとしていた恋愛小説の主人公だ。あんたには、そいつとしてひかるに会ってもらう」

「でも、どうやって……ひかるは、顔を見たら俺だって気づくでしょ」

「気づくだろうな。そこは、白を切ってなんとかうまくやってほしい。ただ、西原陽介としては彼女に語り掛けてはいけない。そんなことをしようものなら、俺がペナルティを受ける羽目になる。ひかるからの直々のご指名があれば話は別だが、生憎、彼女の口からあんたの名前は出てきていない」

 別れているのだから仕方ない、と割り切りたくても、実際に言葉にされてしまうと胸が痛んだ。

 もしかしたら、もう顔も合わせたくないと思っているかもしれない。

 感動的な再会が約束されているわけではない状況の中で、ひかるに会いに行くという覚悟がなかなかできずにいる。そんな陽介の背中を押すように、カラスはそっと(くちばし)を開いた。

「ひかるはさっき、未練解消の相手をもう一人増やせないかと聞いてきた。そのときに出された名前は大塚時弥だったが、どうも未練解消相手には見合わない。もしかしたら、本当に会いたかったのは別の人間かもしれないんだ。それは家族かもしれないし、親友かもしれないし、あんたかもしれない」

 胸を張って、それが自分だと言えない。それが悔しくて、唇を噛み締めた。

「でも、その中で唯一、あのアパートの前まで来たのはあんただけだ。ひかるがたとえあんたとの再会を望んでいなかったとしても、誰よりもひかるのことを想っているのはあんただろ」

 あんたの連続が少々癪に障ったが、そんなことは言っていられない。「自信を持て」ということが言いたいのは理解ができたし、実際に、背中を押してもらえた気がする。

 やらないで後悔よりも、やって後悔。
 それが、人生のモットーだ。

「わかった。行くよ」

 覚悟を決めてそう言うと、カラスは強く頷いた。

「目を閉じろ」

 何をされるのかまったく予測できない状況に、変な汗が出てくる。

 少ししてから、閉じた瞼に何かが触れた。
 初めての感触を不思議に思っていると、次第に頭がふわふわしてくる。首が前に倒れたり、横に倒れたり、眠気に襲われていることに気づいた時には、すでに陽介はまどろみの中にいた。ジェットコースターに乗っているときのような浮遊感がしばらく続き、その間、瞼を開けたくなる衝動に駆られたがぐっと堪えた。

 都会の濁った空気から、徐々に洗練された自然の空気が体内を循環し始めた。次第に、体に纏わりついていた浮遊感が弱まっていく。気が付いた時には、足が地に着いているたしかな感覚があった。

「もう開けていいぞ」

 そう声を掛けられてからも、少しの間目を開けられなかった。恐ろしい場所に連れてこられてしまったのではないかと、唐突に不安になる。

 しかし、次に耳に入ってきた心地よい葉擦れと、小鳥のさえずりに歓迎されているような気になって、温かさを感じ始めた瞼をゆっくりと開いた。

 開けた視界の先に、赤い屋根を被った平屋がある。ログハウス風ではあるものの、周りから浮いた印象を抱くのはなぜだろうか。置物のようにそこに佇む平屋は、禁忌の境界線のように思えた。

 バクバクと騒がしくなる鼓動に気づかないふりをして、一歩、また一歩と近づく。軒先には『遠山珈琲店 OPEN』と書かれたブラックボードが置いてあった。  

 木扉を挟んだ向こう側に、本当にひかるがいるというのだろうか。

 中へ踏み入れるのを躊躇していると、先ほどまで姿の見えなかったカラスがアプローチの手すりに留まった。

「俺が先にひかると話してくる。終わったらあっちの窓から飛んでいくから、あんたはそのあとに入れ」

「……わかった」

 側面の窓からカラスが平屋の中に入っていくのを見送ってから、陽介は扉に向き直った。いままさに、この中であのカラスとひかるが話している。

 そういえば、ひかるはカラスなどの野鳥が好きではなかった気がするが、大丈夫だろうか。ハトが歩道を歩いているだけでも、よく頬を膨らませていた。鳥を前に、何度盾にされ歩かされたことだろう。鎌倉にあるドライブインカフェに行ったときも、上空を飛び回っていたトンビに弁当を持っていかれ半泣き。そのあとの鎌倉観光はずっと不機嫌で、東京に戻ってから連れて行った焼肉屋でようやく機嫌を戻してくれた。

 いま思えば、最初からひかるに振り回されっぱなしだった気がする。でもそれが何だか嬉しくて、可愛らしくて、自分がこの子を守らなきゃって、何事にも熱心に取り組めていた。

 陽介にとって、ひかるが原動力だったのだ。

 ひかると別れてからの期間、何をするにもやる気が起きなくて、自分は自分のためだけに頑張れない人間なのだということにも気づかされた。

 ひかるに自分が必要なくなったと言われたとき、ムキにならずに冷静に話し合いをすればよかった。そうすれば、ひかるも一緒にいる意味を考えてくれたかもしれない。

 ただ、いま何を省みても、もうひかるは戻ってこない。
 カラスの話を信じるのであれば――ひかるは死んでしまったのだから。

 目の奥が熱を帯びたのを感じ、歯を食いしばる。
 ひかるの前では、大塚時弥として会わなければいけない。

 深呼吸をしてその時を待っていると、窓からバサバサッと音を立てて黒い物体が飛んでいくのが見えた。

 あまりにも唐突だったために、驚いて扉をノックする。

 しばらくして、立て付けの悪そうな音を立てながら、扉が押し開かれた。
 木扉の向こうから、目を真ん丸にしたひかるの姿が現れる。

 ――ひかるだ。本当に、ひかるだ。

「陽介……」

 久しぶりに聞く声、呼ばれた名前に、感極まって出てきそうなものを呑み込んだ。このままひかるの顔を真正面から見ていると、そのうち抱きしめてしまいそうで、陽介は彼女の横を通りすぎ、店内をぐるりと見渡した。

「いい雰囲気の店だなぁ」

 視線を上げたのは、何も内装に感激したわけではない。そのことに、ひかるは気づいているだろうか。