不安げな表情の実来を半ば追い出すように店の外へ押しやったあと、ひかるの心は空っぽになってしまったような気がした。もう誰も開けることがないかもしれない扉をしばらく見ていると、後ろからバサバサっという音が聞こえてくる。
見えなくてもわかる。サンゴだ。
「すっきりしたようには見えないが」
「そんなことありません」
「大塚時弥のことだが……」
その名前が出されたところで、背筋が伸びた。
「なぜ彼と会いたいと思ったんだ? お前の部屋にあったパソコンには、大塚時弥についての情報は一切なかった。物語どころか、設定にすら着手していないようだったが」
まさかそこを突かれるとは、思いもよらなかった。
サンゴの言うとおり、大塚時弥に思い入れなど何もない。最期にWordに打ち込んだ名前がそれだったために、その場しのぎで出したものだ。
本当に会いたい人は、別にいる。もう、会えないけれど。
「もういいんです」
ひかるは振り向いて、口角を上げた。
「ありがとうございます。最期に愛する主人公たちに会えてよかった」
わがままを聞いてもらったことへの感謝を述べつつも、まだ思い残りがある。これほどわがままを聞いてもらったのだから、決して口には出せないけれど。
「そんなんで、いいのか? お前の人生の主人公は、お前しかいないだろ」
「そんな器、わたしにはありません」
「器どうこうの問題じゃない気がするけどな」
目の前に、サンゴが回り込んできた。
「お前は卑屈が過ぎる。あまりにも焦れったいから、ある男の話をしよう」
「サンゴさん、本当に、もういいんです。早く、未練解消案内を終わらせてください」
「いいから聞け」
そこまで強く言われてしまえば、黙るしかない。
サンゴが、窓から近いテーブルで羽根を休めた。ひかるは、その向かいの席に腰を下ろす。
「いまから十年前、田宮哲朗という男が交通事故で死んだ」
知らない名前だ。
耳に入ってきたその名前は、また耳から流れ出ていく。
人生の終幕に知らない男の話をされても困るが、未練解消案内をしてくれたサンゴへの恩義もあって、聞くに徹することにした。
「その男は、四十三歳で命を落とした。当時、妻と十四歳になる娘がいた」
「十年前……十四歳」
「ああ。ひかる、お前と同い年だ」
高校受験に向けて力を入れなければならない時期の、父の他界。田宮哲郎の娘は、悲しみと焦りと、将来への不安が綯い交ぜになって、受験勉強どころではなかったのではないだろうか。見ず知らずの家族の苦労には、同情するしかなかった。
ありがたいことに、ひかるの両親は健在だ。大学に進学できるほど裕福ではなかったものの、毎日三食食べるほどの余裕はあった。それもこれも、父が一家の大黒柱として、月三万円のお小遣いでも文句の一つも垂れずに働き続けてくれたおかげだ。
そんな父にも、家を守り続けてくれた母にも、何も恩返しをすることができなかった。それどころか、連絡先をブロックした挙句に親より先に逝ってしまうという、一番の親不孝を働いてしまった。小さいころ、親より先に死んだら、あの世でたくさんの石を積まなければいけないと教えられたことがある。その話が本当なら、三途の川など渡りたくない。
「奥さんも娘さんも、さぞ悲しんだことでしょうね」
「さあ、どうだかな」
吐き捨てるように冷たい声を放ったサンゴに、ひかるは目を丸くする。
「悲しいに決まってるじゃないですか」
「一概には言えないな。その男は交通事故に遭う直前、家で娘と激しい口論になっていたんだ。説明しがたいほど、取るに足らないような些細なことがきっかけだった。男はもともと不器用な性格で口も悪かったもんだから、娘の気に障るような、無配慮で乱暴な言葉を投げつけた。それに耐えきれなくなった娘は『お父さんなんて、死んじゃえばいいのにっ!』と叫んだんだ」
――死んじゃえばいいのに。
ひかる自身、そのような言葉は家族にも友人にも恋人にも向けたことはなかったが、それ以前に、誰かと激しく衝突するようなことはいままでなかった。納得できないことも、ひかるは譲歩し続けてきた側で、無駄な衝突を避けてきた結果だ。
しかし、何の忖度もなしにぶつかろうとすれば、そのような攻撃的な言葉が口を衝いて出てしまうこともあるだろう。それに、十四歳という思春期真っ只中の女の子だ。むしろ、その反抗は健全ともいえるのかもしれない。
だが問題は、その後、父である田宮哲朗が実際に命を落としてしまったことにある。
「『頭を冷やす』と言って、男が家を出たほんの数分後のことだ。家からそんなに離れていなかったということもあって、衝突音を聞きつけた妻と娘は、すぐに事故現場へとやってきた。まさか、自分の夫が、父が、巻き込まれたとも思うまい。コンクリート塀と大型トラックに挟まれた男の姿を見て、二人は絶叫にも似た泣き声を上げていた。『救急車はまだなの!』と妻は叫んでいたが、その時にはもう、男の息の根は止まっていた」
「……そんな」
聞き流そうと思っていたまったく知らない誰かの話に、ひかるは気づけば感情移入をしてしまっていた。田宮哲郎に理不尽に押し付けられた死に同情する気持ちと、愛する夫の変わり果てた姿を目にしてしまった妻、望んでもいない言霊を目の当たりにしてしまった娘への憐れみ。
聞いているだけで、胸が張り裂けそうになった。顔の中心に、皺が寄っているのが自分でもわかる。
「サンゴさんは、その人の未練解消案内をしたんですか?」
どこか遠いところを見るように、サンゴの視線がひかるから逸れた。そしてかぶりを振る。
「その男は、未練解消をしなかったんだ」
「えっ、どうして……だって、その人は奥さんにも娘さんにも、何も別れの言葉を告げられずに死んでしまったんですよね? ましてや、娘さんとの最後の会話が口喧嘩だったなんて……」
「だからこそだ。だからこそ、妻にも娘にも、会わなかった。それが、自分なりの償いだと思った」
「その人、どうなっちゃったんですか」
死んでから二十四時間以内が、未練解消の時間に充てられる――サンゴはそう言っていた。そして、探検から戻ってきたひかるにやや呆れつつも、多少の焦りのようなものがあった。ひかるが自分の死を実感する余裕もないくらい急き立てていた様子から、その時間内に未練解消が行われないと、何かしらのペナルティがあるのではないかということは、少し考えればわかることだった。
「現世に未練を残したままの人間は、成仏できない」
「地縛霊になる、ってことですか」
「それともちょっとちがう。未練解消を終えた者は、四十九日間、冥土の道を歩いてから成仏することができる。しかし未練解消をせずに二十四時間を迎えた者は、冥土の道に送られることなく、人間としての最期のチャンスを蔑ろにしたとして、罰が与えられる」
「罰……」
「それが、これだ」
言いながら、サンゴは翼を目いっぱい広げる。ぴんと伸ばされた翼は、想像以上に大きく、油断していたらその黒に呑み込まれてしまうのではないかと不安になるほどだった。
それにしても「これ」とは、どういうことだろうか。
まだ全容が見えていなさそうなひかるに、サンゴは翼をしまってから続ける。
「カラスの中に魂を閉じ込められ、未練解消案内烏として働かされ続けるんだ。いまや俺は35号――サンゴだが、人間の頃は田宮哲朗として生きてきた」サンゴが、自嘲するように鼻を鳴らす。「口の悪い、しがないサラリーマンだったけどな」
「サンゴさんが……田宮哲朗さん?」
「ああ、そうだ。変な意地を張ったせいで、こんなわけのわからんことをさせられている」
「それは、いつまで続くんですか?」
サンゴはテーブルから降りると、細い二本足でぴょんぴょんと跳ねるように床を歩いた。普段だったらゾワッとするカラスの動きだ。
「会うべきはずだった相手が死ぬまで、ずっと。俺にとってはそれが、妻と娘だ。彼女たちが死んでこちらに来るまでは、未練解消案内の仕事を続けなければいけない」
「じゃあ、お二人がこっちに来て、サンゴさ――田宮さんに会えれば、そのときに成仏できるってことですか?」
「成仏はできないな。とっくに四十九日は経っているから、ただ魂が消滅するだけ。それが成仏とどう違うかなんて、その道を辿ったやつにしかわからない。その瞬間は恐ろしいのか、温かいのか」
どうか、温かくあってほしいと思った。
これほどたっぷり未練解消に時間が充てられていて、一人にしか会えないなどケチなことを言わず、多少のわがままも押し通せる。そして、サンゴもとい田宮の話によれば、未練解消時間内にそれが終わらなくとも、またもやその相手に会えるチャンスが与えられる。それが、どれほど先になるかはわからないが、待っていれば必ず訪れる。
どうやら、この世界の神は慈愛に満ちているらしい。最期の最期に、鉄槌を下すようなことをするとは思えなかった。
いま陽介に会えなくても、結局は会えるのか――。
そんな甘い考えが顔に出ていたのか、気が付けば、低い位置から田宮が咎めるような視線をひかるに送っていた。
「お前が思うほど、この仕事は楽じゃない。毎日、目の前で誰かしらが未練解消をして冥土の道へと進んでいく。最期に愛する人と言葉を交わし、涙ながらに感謝を伝えられるんだ。そんなものを見せられていたら、自分も『早く会いたい』と願ってしまう」
「それの、何がいけないんですか」
「よく考えてみろ。俺はもう死んでいて、次に妻と娘に会えるのは彼女たちが死んだ時だ。それを早く早くと願うことは、二人の死を願っていることと同じなんだ。でも二人には、天寿を全うしてほしいとも思う。このアンビバレントに、心はどんどんすり減らされていく。未練解消案内烏は、素敵な仕事なんかじゃない。地獄も同然だ」
諭すような口調の中に、わずかばかりの怒りが滲んでいた。思わず、身が縮んでしまう。深い事情も理解せず、軽率な言葉を漏らした自分が恥ずかしい。
「……ごめんなさい」
「謝罪なんかいらない。お前にはまだ、時間がある」
「えっ」
バサバサッ、と激しい音を立て、サンゴが窓の桟に留まった。
「最後の来客だ」
「来客って……わたしには、もう――」
「まだあるはずだ。お前が描きたかった人生の物語が」
田宮が飛び立っていく。
同時に、店の扉が叩かれた。
まるで店の中に誰かがいるのをわかっていて、許可を取るかのようなそのノックに、背筋が伸びる。
おそるおそるノブに手をかけて押すと、ギィ、と音を立てて扉が開いた。
そこには、若々しい緑を背景に、落ち着かない様子で立つ陽介の姿があった。



