「えっ?」
「わたし高卒だったんですけど、友達は大学に通っている子が多くて……当時はコロナでその子たちも思う存分キャンパスライフを楽しめていなかったとは思うんですけど、それでも、まだ社会の手前にいるのが羨ましくって」
実際に、これは嘘ではない。退職の手続きをすべて終えた日には、高校時代のバイト先の先輩が運転する車で、深夜ドライブに連れて行ってもらった。
葛西臨海公園、東京タワー、六本木ヒルズ――昼とは違う夜の顔を見せる街が新鮮で、かなり浮かれていた。
あまりにも楽しかったものだから、職場を辞めた後はそのバイト先に戻ったのだが、そこでひかるは「大人」として扱われた。大学生や高校生たちのような、仕事以外にも「やらなければいけないこと」「頑張っていること」がある同年代の子たちには甘く優しく、仕事以外にやらねばいけないことも頑張るようなこともないひかるは、機械のように働かされた。
これができるようになったら、次はこれ。それもできたらあれもやってみよう。そこまでできるんだから、学生たちと混ざっておしゃべりしている場合じゃないだろう。いまのうちにここでキャリアを積んどこう。あわよくば社員になっちゃえばいいじゃんか――そんなことになっていった。
それでもそこでしばらく働けていたのは、そのバイト先で高校生のころからよくしてくれていた一個上の先輩――西原陽介と付き合い始めたからだった。
もともと、恋仲になるような関係性じゃなかった。ただ、一緒にいる中で「居心地いいな」と思う瞬間があったのは確かだ。しかしそれは自分に限ったことではなく、他の同年代の女の子たちも同じなようで、競争率は非常に高かった。
わざわざ恋敵が多いところに飛び込むのは憚られる。自分からは何も行動はしないと決めて、他の女の子たちのレースを静観するに徹するつもりでいたのだが、陽介の方から積極的に遊びの誘いを受けることがたびたびあった。一度目は居酒屋、二度目はランチ、三度目は猫カフェと、回数を重ねるごとにデートっぽくなっていく内容に耐えかね、ひかるのほうから「付き合うなら付き合うって言ってよ」と、尻を叩いたのだ。
陽介は、精神的に不安定なひかるを支えてくれた。実際に、崩れ落ちそうだった精神がいよいよ崩れてしまったときには、動揺など一切見せずに献身してくれた。
――ひーちゃんの好きなことをやりな。俺が稼いでくるから、ひーちゃんは生きてさえいてくれればそれでいいから。
とことん、甘やかしてくれた。
彼の助言通り、ひかるは好きなことをやった。
小学生のころに好きだった読書に再熱して、バイト先を変えて近くの書店で働くようになってからは「自分も書きたい」という気持ちが芽生えて、同棲を始めた彼のことを放ったらかしに机に向かうことが多くなった。
――ひーちゃん、最近俺と会話してくれないね。
そんなことを言われたときには、もう人になんて興味は湧かなくなっていた。恋人である、彼にさえ。
――わたしの人生に、あなたは必要ないのかもしれない。わたし、あなたに構ってあげる時間を、執筆に使いたい。
そんな馬鹿なことを言って、同棲していた家を出て、父の名義で借りたアパートでひとり暮らしを始めて――。
これからってときにだったのに。
すべての時間を、自分のためだけに、読書と執筆のためだけに。
それなのに、すべてを懸けたいとさえ思った彼女たちと実際に顔を合わせてみて、実感した。結局は、自分は空想の世界に逃げたいだけだった。彼女たちに苦しいところだけを背負わせた。責任感も、人間関係も、嫉妬心や向上心も、そして――。煩わしいものはすべて、彼女たちに投げてしまっていた。
なぜ、自分はこんなにも虚弱になってしまったのだろう。
「いままで、部活も習い事も、途中で投げ出したことがありませんでした。結果がどうであれ、不器用なりに頑張ってきたんです。でも、何も成し遂げず、志半ばで会社を離れてからは、自尊心なんてものはすべて剥がれ落ちてしまいました」
反応に困っているのだろう。「そうなんですね」という相槌が、いまにも消え入りそうだった。それに、彼女自身も、仕事に対して悩みを抱えている。ひかるの話を聞いて、不安になっているかもしれない。
「お姉さん――あ、えっと」
「遠山ひかるです」
「ひかるさんは、後悔していますか?」
「えっ?」
「会社、辞めたこと」
どうだろう。
会社を辞めなければ、いまのような生活は送れていないだろう。小説を書くどころか、読書にすら興味を持たなかったのかもしれない。そう考えると、辞めてよかったとも言える。
ただ、顔を上げて周りを見渡したとき、本当にこれでよかったのかと思うこともある。
多くの友人が大学を卒業し社会に出始めた最近は、あのまま会社に留まっていた方がよかったのかもしれない、と思うことが増えた。みんなが会社の愚痴や、はたまた成功体験を語るたびに、酸いも甘いも富んだ日々を送れていることが、羨ましくもあったのだ。
あのとき、踏ん張れていれば――。数年後になれば、キャンパスライフを楽しんでいた友人たちも自分と同じ社会の一員となって、金曜日の夜にはジョッキを片手に対等に語り合えていたかもしれない。
結局は、ないものねだりなのだ。
「わからない、です」
何もわからないまま、人間として未熟なまま、わたしは死んでしまった――。
悔しい。ものすごく、悔しい。
わけがわからない。なぜ、この若さで命を落としてしまったのか。なぜ、自分が選ばれてしまったのか。
眼球の奥がじんわりと温かくなり、くすぐったい。次第にぼやけていく視界に、クリーム色のハンカチが差し出されたところで、自分が泣いていることに気づく。
「……ごめんなさいっ」
静かに打ち寄せていた波が、突然荒れて襲い掛かってきた。わっと涙があふれ、ひかるは急いでそのハンカチを受け取る。子どものように肩を上下させながら、漏れ出る嗚咽をそれで覆った。柔らかい、太陽のにおいがするハンカチは、余計に涙腺を刺激してくる。
「大丈夫、ですか?」
嗚咽が収まり、深呼吸を繰り返している中で、実来の案じるような声が降りかかった。気が緩めばまた涙は出てきそうだったが、落ち着きは取り戻している。「大丈夫です」と応えると、実来は安堵したように肩の力を抜いた。
「ごめんなさい」
「いや、気にしないでください。むしろ、こちらの方こそすみません。嫌なこと、思い出させてしまいましたよね」
「違う……違うの」
ふるふると首を横に振るひかるを、実来が不思議そうに見上げる。
「わたしは、あなたにも背負わせてしまった。自分を大切にすること。自尊心を持つということ」
「えっと……」
「自分勝手でごめんなさい。でも、わからなくても、それでも、聞いてほしい」
せっかく収まった涙が零れ落ちないように、ゆっくりと、言葉を区切って伝える。実来は、わけがわからないといった表情のまま、じっとひかるの瞳を見つめていた。それでも構わずに、ひかるは話し始める。
彼女に、辿るべき道を示すために――。
「あなたはいま、とても仕事に熱心なことだと思う。新しい環境とはいっても、いままでとは一味違う大人の世界に、毎日が彩り豊かに映っているはず。自分の体調の良し悪しにさえ鈍感になるくらい、いまの仕事を信じて疑っていない。でもそれは、今後あなたの毒になるかもしれない」
実来は相槌すら打たずに、ただただ、ひかるの言葉を受けている。
彼女は、ごく普通の一般家庭に生まれ、特に大きな問題を起こすことなく、それはそれは大事に育てられた。努力を怠らず、たとえうまくいかないことがあっても、いじけることなく歩いてきたのだ。勉強も部活も、努力した分だけ返ってきて、就職活動も第一志望の大手物流会社に早い段階で内定をもらっていた。
順風満帆の人生だ。
しかしそれは、ほどなくして崩れる。人生初めての挫折を社会に出てから経験することになった実来は、耐性も処世術もない。そんな中、彼女の両親が交通事故で同時に亡くなる。
そんな、一度どん底に叩きつけられた若い女性が、自分一人の足で立ち上がり、再生していく物語を書きたかった。
いま、希望に満ちた表情でここにいる実来には、決して伝えてはならない、あまりにも残酷すぎる未来だ。けれど小説には欠かせない、インパクトのある設定には違いない。しかし、しばらく不幸の一途を辿ることとなる彼女を前にした途端、罪の意識が芽生えた。
小説は、小説だから面白いのだと、改めて痛感する。
「でもね、たとえ崩れてしまっても、自分を責めたりなんかしちゃいけない。よく頑張ったね、って……ここまでよく頑張ったよねって、自分を認めてあげて。ほかの何よりも、自分を大切にしてあげて。わたしはその自尊心を、あなたに託したかったの」
「……自尊心」
「だけど、途中でわたしは死んでしまったから。あなたの結末を、わたしはもう書くことはできないから」
「書くって……」
実来の困惑が、さらに濃くなった。それを誤魔化すように、言葉を被せる。
「ごめんなさい。何のことだと思うかもしれないけど、わたしがあなたに伝えたいことはただひとつ」
自分を、大切にして――。
実来はひかるから視線を逸らすと、状況を整理しているのか、眉間に皺を寄せて何やら考え込んでしまった。そして、もうすっかり冷めてしまったであろうカプチーノをソフトドリンクのようにごくごくと飲んでから、頷く。
「わかりました。それはわかったけど」
そう口にしてはいるものの、あまり理解が追い付いてなさそうだ。可愛らしい顔にの眉間には、不釣り合いな皺が寄っている。
「ひかるさんは、どうなんですか?」
「え?」
「ひかるさんは、自分のこと大切にできていますか?」
その言葉に、ひかるは黙り込む。しかし、すぐに首を横に振った。
考えるまでもなく、ひかるはひかる自身を、大切にできていない。
「大切にしてる、つもりだった」
危険なところからは身を引き、自分の心が侵されそうになったらそっと扉を閉じてきた。きっとその中には、人が成長していく上で踏まねばならぬ戦場も、あっただろう。それでさえも、避け続けてきた。ぬるま湯につかり、わたしには関係ないからと、目を背けてきた。
その結果が、これだ。
ひとりのほうが楽だから。自分のご機嫌を取れるのは自分だけだから。そんな言い訳をつけて、人とのつながりを必要以上に断ち切った。
「自分を甘やかすのは、たぶん大切にすることとは違うから。それでいうとわたしは、自分を大切には出来ていない」
「……わたしには、違いがわかりません」
「先のことを見据えているかどうか、です。感情任せの逃げは、甘えだとわたしは思うんです。そしてその甘えは、後に自分の首を絞めることになります」
あのとき、会社を続けていれば――。
コロナウイルスは数年後には第五類へと引き下げられ、二十歳になってお酒の味に慣れたころには、あの脅威が嘘だったかのように平穏な日常が取り戻された。
もう少し、冷静になって考えていたら。わたしは物語の世界に逃げ込むことになっていなかったし、彼女たちを作ることすらなかっただろう。
「あなたには、わたしと同じ思いをしてほしくない。正しい道へと、歩いて行ってください」



