ユートピアに、珈琲を添えて


 さまざまな物語を書いてきた。警察小説から、青春、サスペンス小説まで。自分の負の部分を主人公たちに託すことで、自身の問題から目を背け続けてきた。ただの現実逃避の自己満足ではあったものの、それらの物語が心の支柱になっていたことは確かだった。

 すべて、自分が始めたことだ。それなのに、彼女たちの辛そうな表情を見ると、胸が摺りつぶされる感覚に襲われる。

 なんて残酷なことをしているのだろう。

 自分の辛さを彼女たちに背負わせて、楽になった気でいる。乗り越えているのではない。ただ同じ道を、繰り返し歩き続けているだけの、空っぽな人間なのだ。それなのに、人生を知ったもの顔で説くだなんて、この上ない恥だ。

 未練解消の相手を増やしてほしいだなんて、身の程知らずなお願いだ。

 もう、終わりでいい。未練解消といっても、自分はすでに死んでいる。これが終われば、遠山ひかるとしての記憶は失われ、すべてを忘れることとなるだろう。多少の後悔が残ったとしても、それすらも、すべて――。

 木の香りに混ざって、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。ここで読書をしたり、執筆ができたら、どれほど快適だろう。誰も訪ねてこない、自分だけの、ユートピア。ここは、あのアパートの一室によく似ている。

 こつこつとお金を貯め、ようやく手に入れた場所だったのに。

 胸に広がるのは、静かな海だった。満たされているはずなのに、悲しい。寂しい。この歓びを独占していることに優越感を抱きながらも、誰とも共有できない孤独も感じざるをえなかった。

 もう、このまま――ずっとここにいたい。成仏なんてできなくてもいい。そばにいてくれた大切な人を切り捨てた先に待っていたのは、冷たい幸福だ。ここで誰にも会えずに、自分が誰かすらわからなくなるときを待っている方が、償いになるような気がする。

「あのぉ……」

 突如、耳に入ってきた声に顔を上げた。

 扉の前に、パンツスーツを着たおかっぱヘアの女性が立っている。右肩に掛けた鞄の持ち手を両手でぎゅっと握りしめ、こちらを窺うような顔にはまだ幼さがあるように見えた。よく見てみると、スーツはおろしたてなのかまだ硬そうで、着ているというよりかは、着られているという印象のほうが強い。

「あっ、もしかして閉まっちゃいました? ごめんなさい、外の看板に『OPEN』って書いてあったので、てっきり営業中かと……」

 ただ見つめ返すだけのひかるに、彼女は慌てて退店しようとする。

「やってますよ」

「え?」

「お店、やってます。ごめんなさい、少し考え事をしていて……どうぞ」

 ひかるはようやく立ち上がると、彼女の脇を通ってカウンターの中へと入った。

 カウンターを挟み向き合った彼女は、ヒューマンドラマ小説の主人公、中塚(なかつか)実来(みく)で間違いない。つり上がった目は猫を連想させるけれど、その体は小さい。いかにも社会人一年目のOLだ。

 例のごとく、メニュー表を見せる。

「カプチーノでお願いします」

「かしこまりました」

 カプチーノは、ラテ同様、エスプレッソとミルクで構成されている。何が違うかというと、泡の量だ。フラットホワイトやラテよりも長い時間、ミルクをフォーミングする必要がある。そうしてできたふわふわの泡を、最後に蓋をするように注ぎ入れれば完成だ。

「今日はどうしてここへ?」

 完成したカプチーノを差し出しながら問いかける。実来は「ありがとうございます」と受け取ると、苦笑して肩をすくめた。

「ちょっと疲れちゃって。休憩がてら寄りました」

「へぇ。お仕事ですか?」

「はい。事務職です、物流会社の」

「それは奇遇ですね」

「え?」

 首を傾ける実来に、ひかるは柔らかく微笑む。

 ひかる自身も、六年前まで都内の物流会社に勤めていたのだ。そのことを実来に伝えると「えーっ、すごい! 偶然!」と目を見開き、ぱちんと手を合わせた。百点満点ともいえるリアクションに、なぜだか申し訳なくなってしまう。何の偶然でもない、ひかるが意図して彼女に盛り込んだ設定なのだから。

「でも、どうして辞めちゃったんですか? ――あっ、いただきます」

 冷めないうちにと両手でマグカップを包む実来に視線を送りながら、あのころの記憶を呼び起こしていた。

 思い出したくもない。

 いま思えば、殺伐とした空気で過ごしたあの一年が、自分の人生のターニングポイントになっていたのかもしれない。

 いつの間にかマグカップから唇を離していた実来が、飼い主を見上げる猫のような目でひかるを見つめていた。

「入社した年が、ちょうどコロナのときだったんです」

 日本にも猛威を振るった新型コロナウイルスがひかるの身近になったのは、高校三年生の三月だった。国内感染者数は日々増えるばかりで、卒業式の開催も一時は危ぶまれたものの、保護者や在校生を入れずに執り行われた。集会のたびに歌わされていた校歌も、いざ歌うなと言われてしまえば、恋しくなってしまう。余白の多い体育館には、その分、卒業生たちの侘しさで満たされていたような気がする。

 そして、その年の四月、高卒で物流会社の営業事務の仕事に就いた。入社式は各営業所で済ませ、横浜で行われる予定だった本社研修も中止になり、まともに同期の顔も知らずに社会人生活がスタート。これから始まる未知な大人の世界に高揚感を抱きながらも、それを脅かす未知のウイルスに不安があふれた。パーテーションで仕切られたデスクは、まだ十九にもなっていなかった自分を孤立へと追いやっていった。飲食店は時短営業だったり、休業だったりで、友人たちとの愚痴大会さえもままならなかった。

 その中で唯一の癒しは、アイドルの推し活だった。もともと、人が密集する場所は得意ではなかったけれど、コロナ禍の推し活は画面越しに応援していればそれで充分だったため、気が楽だった。

 それはもう、とことんハマった。

 唯一癒してくれるのが、アイドル。自分の名前も顔も知らないであろう相手。近くにいる人たちはパーテーション一枚の距離ですらひどく遠く感じてしまうのに、アイドルはわたしのすぐそばにいてくれた。でもそれが、ひどくむなしくもあった。

 堰を切ったのは、入社から八か月が経っていた十二月のことだ。どうせマスクをするのに下地やファンデをしっかりと叩き込んでいたとき、突然涙があふれて止まらなくなった。過呼吸を起こし、母に背中を摩られ、その日は会社を休んだ。そして、それから一度も出勤することができなくなり、退職した。

 その後、母に引きずられて訪れた心療内科では、適応障害と診断される。

 正直、よくわからなかった。
 自分が、何に適応できていなかったのか。

 コロナ禍というイレギュラーな環境? 会社というそもそもの組織? 大人になってしまった自分そのもの?

 答えが出ないまま、社会という巨大な組織から自分が弾かれてしまったことにひどくショックを受け、同時に、自分はここまでの人間なのだと限界を思い知った。

 回想に耽っていると、実来が「あのぉ……」と声を掛けてきた。ようやく現実に引き戻されて、ひかるは慌てて笑顔を貼り付ける。
あのウイルスを、言い訳にしちゃだめだ。

「遊びたかったんです」