ユートピアに、珈琲を添えて


 ***

 空はオレンジ色に染まっていた。

 サンゴがひかるのアパートまで戻ると、上空を飛んでいたカラスたちはいなくなっていた。自分たちのねぐらへと帰っていったのだろう。しかし屋上の縁には、まだ29号が留まったままだった。

「戻った」

 言ってから「見りゃわかる」と返されそうだと思ったが、29号から何の応答もない。それどころか、サンゴの存在にすら気づいていないように見えた。

 彼女の視線が、ある一点に留まっていることに気づく。その視線を辿った先には、ひとりの男がいた。オーバーサイズのパーカーにスウェット、足元はサンダルと、季節感がちぐはぐな服装で、アパートの前を不自然に歩き回っている。時折、手に持ったスマホを耳に当てたりしながら、アパートを見上げているようだ。

「あの男は何なんだ」

「さあ」

 問いかけると、29号はようやく答えた。どうやら、小一時間ずっとあの様子だという。ほかのカラスたちを帰したのも、カラスの大群に気づき、不自然に思った人が足を止めてくれたと思ったからだそうだ。しかし、その男はずっと一人でアパートを見上げ続けているだけで、カラスを気に留めたわけではないようだった。

 男が、忙しなく動かしていた足を止め、ふたたびスマホを耳に当てる。

 まさか――。

 サンゴはアパートの裏手に回った。窓からひかるの部屋に入ると、テーブルの上で震えているスマホが目に入る。画面は着信を知らせるもので、そこに表示されていた名前は西原(にしはら)陽介(ようすけ)。状況から見て、あの男が発信者だと思われる。ブー、ブー、と鳴り続けるスマホを、サンゴは見守るしかなかった。

 床には、うつ伏せになって倒れているひかるの姿がある。
 西原陽介が、ひかるが電話に出ないことを不審に思ってくれれば、遺体の早期発見につながるはずだ。29号の言うことが正しければ、彼は一時間近くこの周囲をうろついている。かなりの執着がなければ、そこまではしないはずだ。きっと、二人の間柄は濃い。

 しばらくして、バイブ音が鳴り止んだ。少し待ってみたが、ふたたび鳴る気配はない。戻って様子を見に行ことしたとき、ふとテーブル上にあるパソコンに目がいった。開かれたままのWordには、いくつかの単語が並べられている。その中に、記憶に新しい固有名詞を見つけ、首を傾げた。

 なぜ――。

 圧倒的に余白が多いその文書に疑問を抱きながら、サンゴは屋上へと戻った。

「西原陽介というらしい。電話をかけていた相手は、遠山ひかるだった」

「あら、そう」

 戻って報告をすれば、29号はさして興味もなさそうに相槌を打った。

「でも、残念ね。どうやら帰るらしいわ」

 陽介は、手に持っていたはずのスマホをしまい、クロスバイクに跨るところだった。

「あの感じだと、ただのストーカー男ね。親しい間柄だったら、何度電話かけても出ない相手を不審に思って、居てもたってもいられなくなるはずよ」

 ペダルに足をかけ、名残惜しそうにアパートを見つめた陽介は、小さく息を吐いてから漕ぎ始めた。

「このままじゃ、あの子もわたしたちと同じような道を辿ることになるわね……かわいそうに」

「責任は取るつもりだ」

 ――……いまから、未練解消の相手を一人増やすなんてことは、できないですよね。

 もしその相手が大塚時弥ではなく西原陽介なのだとしたら、ひかるは、未練解消不履行で成仏することができなくなってしまう。
 未練解消の相手を途中から加えることは、決して難しいことではない。

 しかし、ひかるの場合は少々特殊だ。
 ひかると面識のある彼を未練解消の場に呼び込むには、サンゴの方から接触し、事情を話さなれければならない。

「責任って……もしかして、よからぬことでも考えてるんじゃないでしょうね」

「…………」

「ちょっと、黙らないでよ」

 赤信号で止まっている陽介の背中を、じっと見つめる。ここで彼を見逃してしまえば、もう追跡できなくなってしまう。ひかるの、本当の意味での未練解消も、叶わないだろう。

 追え、という自分と、追うな、という自分が、胸の中でせめぎ合う。

「どれほど先になるかはわからない。あなたにとっても、その時が先であればあるほどいいんでしょうけど、それならなおさら、こんなところで馬鹿なことはしない方がいいわ」

 サンゴの心中を察しているのだろう。厳しい言葉ではあるが、いつもの毒のような嫌味はそこに含まれてはいない。29号も、サンゴと同じ立場である以上、そう簡単に見捨てることができないのだ。

「馬鹿なこと、か。……そうか、そうだな。たしかに馬鹿なことだ。最初から、彼女を止めておけばよかった。こうなることは、わかっていた」

 信号が青になり、一直線の道をぐんぐんと進む陽介の背中は、次第に小さくなっていく。

「それでも、自分で考えてほしかった。これが、彼女にとっての、最期なんだ。俺にとっての未練解消案内は、『示す』のでなはく『導く』ことだ」

「うまく導けなかったようだけどね」

 棘のある返しに、サンゴはキッと目を細めた。

「だから、責任を取ると言っているだろう」

 それを捨て台詞に、サンゴは夕焼けの空へと羽根を広げる。

 先ほどまでの迷いは途端に消え去っていた。

 陽介の背中を追い続けること十五分。夕日はかなり低いところまで落ちていて、町も人も自然も、夜を迎える準備をし始めていた。陽介は、細い道をくねくねと複雑な道順で辿ったのちに、真っ白な外壁の新築アパートの中へと姿を消した。
 四世帯の小規模アパートのようだ。二階の向かって右側の部屋の電気が点灯する。そこが、陽介の家なのだろう。近くの電柱に留まり、様子を窺う。

 しばらくして、カーテンが開かれた。直後、窓が大きく開け放たれ、サンゴはその隙を狙って部屋に飛び込んだ。

「うわっ‼」

 案の定、陽介は焦った様子で窓から離れた。距離を取り、目を丸くしてサンゴを見つめる。何度か荒い呼吸を繰り返した陽介は、やや平静を取り戻したようで、手近にあった掃除機を手に取り振り上げた。

「出てけっ」

「ちょっと、待っ――」

 サンゴの声も聞き入れず、陽介は振り上げた掃除機を振り下ろす。掃除機のヘッドが、サンゴが留まっていたローテーブルを打ちつけた。
 鈍い音が鳴る。
 慌ててソファの方へと避難するが、陽介は掃除機を片手に追いかけ回してくる。

「待て‼」

 もう一度掃除機を振り上げたところで、サンゴは強く叫んだ。陽介の動きがぴたりと止まり、次に怪訝そうな顔でサンゴを見つめる。

「カラス……じゃない? インコ? えっ……」

 陽介は振り上げていた掃除機を下ろすと、何かを考えるように立ち尽くした後で、それを定位置に戻した。そして、少々荒れた部屋を見渡す。我に返ったのか、窓を閉め、とりあえず散乱したものたちをテーブルに上げていった。少し凹んだテーブルを見て、小さくため息をついている。

 部屋の中は、綺麗に片付ている――というよりかは、極端に家具が少なかった。あるのは、リビングに置かれているローテーブル、ソファ、テレビ。奥の洋室は寝室のようで、一人にしては大きめのサイズのベッドが置かれているだけだ。彩りのない、質素な部屋。真新しい綺麗な1LDKを持て余しているように見える。これでは、1K――いや、ワンルームでも事足りるのではないだろうか。

「俺はインコじゃない。正真正銘、カラスだ」

 はっきりと人間の言葉を話すサンゴに、陽介は呆気に取られていた。

 突然の闖入(ちんにゅう)者、それも野生のカラスが部屋を飛び回り、挙句の果てに話し始めたら、理解しようにも時間が掛かる。この部屋に入り込んだ瞬間から、サンゴの運命は決まっていた。

「遠山ひかる」

 その名を口にした瞬間、疑い深そうに寄せていた眉根が緩む。

「どうして、ひーちゃんの名前……」

 親しみ深そうな呼び名に、ずきりと胸が痛んだ。ただの友達、ストーカーでもなさそうだ。それならなおさら、彼女がいま置かれている状況を説明しなければならない。

 いまだかつて、その禁忌を犯した者はいないという。その先に、どれほどの制裁が待っているのかは知る由もない。もしかしたら、咎められることすらないのかもしれない。怒鳴られることも、殴られることも痛くも痒くもない。どんな罰でも受け入れるつもりではいるが、やはり頭をよぎるのは――。

 ――お父さんなんて、死んじゃえばいいのにっ!

 ぶんぶん、と頭を振る。

 余計なことは考えていられない。いまは、未練解消被案内人であるひかるの行く末が最重要だ。

「彼女は死んだ」

「…………はっ?」

 信じられないのも無理はないだろう。

 空気が凍り付くのを感じた。口を小さく開いたまま、陽介は固まっている。やがて、乾いた笑いを漏らし「冗談やめてくれよ」と力なく言った。ドッキリ大成功の看板でも待っているのか、サンゴを凝視する。いっこうに返事をくれないサンゴに、陽介もひかるの死が現実味を帯びてきたのか、いよいよ表情までもが氷のように固まってしまった。

「そんな……なんで……っ」

「詳しく話している時間はない。最後にあの子と話したくないか? 俺だったら、あんたを彼女のところまで連れていくことができる」

 その提案に、陽介はすぐには頷かなかった。逡巡するように視線を逸らす。何をそんなに迷っているのか、サンゴには皆目見当もつかない。

「ただし、条件付きだ」

「……条件?」

「あんたは、西原陽介として彼女に会うことはできない。彼女が最後に書こうとしていた小説の主人公(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)大塚時弥として(・・・・・・・)会いに行くんだ(・・・・・・・)