俺たちは皆、重たい面の下に素顔を隠して生きている。
踏み込む足音、ぶつかり合う竹刀の衝撃。その一瞬だけ、二つの孤独は暴力的なまでに鍔迫り合う。
決して交わるはずのなかった二つの線が、剣の切っ先で結ばれた時。止まっていた俺たちの時間はきっと動き出した。
昔っからこうだ。薄っぺらい肺はすぐに熱を持ち、鉄の風味がせり上がってくる。昼休みの喧騒を切り裂いて、俺は階段を二段飛ばしで駆け上がっていた。
胸元に抱えたパンやおにぎりが常に視界に入り込むが、食欲なぞ一切湧かない。潰さないように、けれど一秒でも早く届けるために、俺は必死で脚を動かす。心臓が早鐘を打っているのは、疲れのせいだけではなかった。
俺、春日井……の高校生活は、いつだって針の筵の上にある。
とっ散らかった呼吸を無理やり抑え込み、額と鼻に浮かぶ汗を、自身の方に押し付け強引に拭う。教室へと踏み入る直前、深く息を吸い込んでその細い目と眉を弛ませた。
「失礼しまーす! 一年E組の春日井ミサトです、寺尾センパイに用があって来ましたーッ!」
俺は声のトーンを二オクターブは吊り上げ、勢い良く扉を開く。ほのかに香る紫煙。教室の最奥、窓際の一角から複数の視線と、気だるげな声が投げかけられた。
「お〜い遅ぇよダボ。腹張って死ぬとこだったわ」
「ホントすんません! 女子が前でモタついてて……」
「ひっでー、お前他人のせいにすんだ。最低だな」
寺尾の手招きに応じ、俺は引きつった笑みを浮かべながら彼の築いた群れへと加わった。山のようにあったパンは、お礼の一つもなく次々にひったくられていく。でもこのまま穏便に自教室へ戻ることができれば、俺は何だっていいのだ。
「いや、はい、すんません……あ、これお釣りです! 良かったら使ってください! 遅れてすんませんでした!」
「なに、ちょっとは気が利くじゃん。貰っといてやるよ」
俺が差し出した小銭をポケットに捩じ込むと、寺尾は俺の顔を覗き込んだ。その品定めするような視線に、頬の筋肉がヒクヒクと痙攣する。
「今日もいい笑顔でスバラシイ! なぁ、美少年くん?」
打ち合わせでもしていたのか、寺尾の一言に取り巻きがどっと嗤う。春日井美少年。それが俺の名前だった。
ああ、今日も避けて通れなかった。俺は反射的に口角をさらに吊り上げ、大袈裟に身をよじった。
「も、もう〜勘弁してくださいよぉ〜俺『ミサト』ですってー」
「美少年って書いてミサトだぁ? 無理があんだろ、なぁ!」
「ハハ、まぁ」
「しかもこんな雑魚みてぇなツラしてよ、名前負けにも程があるわ。詐欺だ詐欺!」
無遠慮に頬を平手で弾かれれば、痛くはないものの、それ以上に胸の奥が冷えていく感覚がある。父によく似た細い目と、母を色濃く継いだ小ぶりな鼻と口。だがここで怒りを顕にしたり、傷ついた顔を見せたりしてはいけない。
この馬鹿げた世界で生き残るために。
「……マジそれッスよ! 俺も生まれた瞬間、親に『いやハードル上げすぎ!』ってツッコミ入れたんで!」
俺は手を叩き、腹を抱えて笑ってみせた。時折群れの外から向けられる表情が侮蔑か、はたまた憐憫なのか。俺には分からなかった。
「あ〜おもろ、イケメンくんは今日も冴えてんな」
満足した寺尾が、俺の頭を小突いて追い払う仕草をする。俺は「じゃ、失礼します!」と元気よく叫んで、振り返ることなく教室を飛び出した。
廊下に出た瞬間、自身を覆っていたメッキがガラガラと崩れ落ちる。自分の昼飯を食う時間なんてない。バイトで稼いだ小遣いは、全てアイツらのご機嫌取りに消えていく。毎日空腹をごまかすように水を飲み、午後の授業を耐え凌ぐ。
そして放課後が来れば、地獄のような一日の延長戦が始まるのだ。
「おい春日井! 遅刻だぞ!」
剣道場に一歩入った途端、目ざとい部長の怒鳴り声が飛んできた。部員は何十人もいるが、部長は誰がいて誰がいないかを完全に把握できる気持ち悪い男だ。俺は袴を結びながら、ヘラヘラと頭を下げた。
「いやぁ〜さっき階段でグリッといっちゃって。足首が悲鳴上げてるんすよ」
「先週は手首だっただろうが、いい加減にしろ! やる気がないならせめて座ってろ!」
「ウッス、見学させてもらいまーす」
道場の隅に座り込むと、部員たちからの冷ややかな視線が突き刺さる。呆れ、軽蔑、あるいは単純な無関心。彼らは汗を流し、真剣に打ち合っている。気合の入った掛け声、竹刀が交わる乾いた音、床を踏み込む激しい振動。
その神聖な空間に俺という異物が混ざり込んでいることへの不快感が、道場全体に漂っていた。
「春日井のヤツまたやってるよ」「なんで辞めねぇんだろうな」「あんま関わんなよ、アイツの親も面倒なんだよ」
面白いことに、面を付けた者同士の陰口はこちらによく聞こえる。騒がしい道場と圧迫感のある面によって、自然と声が大きくなることに気付けないのだろう。
「バカはどっちだよ」
俺はあくびを噛み殺すフリをして、彼らから視線を逸らした。
本当は、誰よりも竹刀を振りたいのだ。あの先輩の面は踏み込みが浅いとか、アイツの手首の返しは甘いとか、見ているだけで体がうずく。
そもそも俺が剣道を始めたのは、酔った父の暴力から弟を守るためだった。あの化物を、理不尽をねじ伏せるための圧倒的な力が欲しかった。
けれど、育ち盛りにまともに飯も食えない俺がいくら鍛えても、仲間に追いつける訳がない。それどころか、俺が真剣にやれば「キャラじゃない」と笑われるのは目に見えて分かっている。
だから俺は、適当に生きて、適当に笑って、嵐が過ぎ去るのを待つだけの日々を送るしかない。
足首に巻きついたミサンガを撫で、俺は歯を食いしばった。弟の『兄ちゃんがサイキョーになれますように!』とはにかんだ顔が脳裏をよぎる。
「ほんっと、死にてぇ〜」
俺の呟きは若い剣士たちに届くことはない。朝日を憎んで目覚め、月夜を羨んで眠る。そんな日常がずっと続くと思っていた。
天才が現れるまでは。
翌朝。どんよりとした曇り空の下、予鈴と共に教室に入ってきたのは口煩い担任と、見知らぬ男子だった。
俺はその姿に思わず息を呑んだ。制服の着こなしはショッピングモールに並ぶマネキンのように完璧で、刈り上げられた黒髪が健康的な肌によく映える。程よい筋肉に高い背。俺にないものを全て持っていた。
だが、クラス全員の視線が釘付けになったのはその顔じゃない。
彼の右袖だった。
あるはずの腕がなく、アイロンのかかった袖口がぶらりと揺れていた。
「閂勇です」
左手で黒板に書かれた名前は、筆で書いたと思うほどに力強く太かった。彼はチョークを置くと教室を見回す。その瞳はガラス玉のように透き通っていたが、人間らしい温度がなかった。
「……よろしくお願いします」
水面も揺れないであろう静かな声。閂の紹介は、必要最低限の挨拶で終わった。普通なら趣味とか特技とか話すものだろうが、コイツは何も語らない。その全てを拒絶するような態度に教室内が微かにざわめいた。
俺は嫌な気配すらした。片腕がないんだぞ。普通であれば図らずとも同情を誘うはずなのに、こいつからは「可哀想」なんて思う隙が微塵も感じられない。むしろ、鋭い眼光が俺たち全員を見下しているようにさえ見えた。
「席は……春日井の隣が空いてるな。じゃあお前ら、仲良くしろよ」
担任が指差したのは、あろうことか俺の隣だった。閂が歩き出せば、教室中の視線が彼と、その行き先にいる俺に集まる。
途端に、こんな日ばかり教室にいる不良共が、値踏みするようにニヤニヤし始めた。ワックスで頭をガチガチに固めた輩が俺に目配せをする。
何が楽しいんだ、と胃がキリキリと涙を流し始める。けれど、学校で上手くやっていく以上断る選択肢はない。俺は細い目を更に横へ伸ばし、閂に向かって八重歯を剥いた。
「よろしくな〜俺、春日井!」
俺は椅子の背もたれにふんぞり返りながら馴れ馴れしく話しかけた。閂の目は変わらず氷のようだった。無視して座ろうとする閂に、俺は焦って言葉を重ねた。
「俺、お前の介護とかしねぇからな?」
「必要ない」
「ならよかった〜、元から左利きな感じ?」
「不便がないよう矯正した」
「あ、そ〜なんだ……」
心臓がバクバクと早鐘を打つ。余計なことを言うなと俺の心が叫んでいるのに、よく油の乗った舌は止まらない。
「部活とか入る気あんの? でもその腕じゃ何もできねぇだろうし、運動部はキツいか〜!」
閂の眉間に力がこもった。俺はここぞとばかりに周囲に聞こえるような大声で続ける。
「そうだ、なあ高橋!」
俺は声を張り上げ、机に伏せて縮こまっている男子生徒を振り返った。高橋はいわゆる中二病で、普段から壁に向かってブツブツ言っている、ヤンキー共のストレス解消相手だ。俺は高橋のところへ歩み寄ると、その丸く膨らんだ肩を強引に抱き寄せ、閂の目の前に連れてきた。
「お前いつも言ってるよな、『右手の黒龍がうずく……!』てさぁ!」
俺は高橋の右腕を掴み上げ、閂に見せつけるように突き出した。
「ほら、お前ら仲間じゃね? 右腕がねぇのと、右腕が暴走してんのとでさ。お似合いだぜ!」
俺のパフォーマンスに、教室に潜んでいた性格の悪い奴らがドッと沸き立った。
「うはははは! 確かに!」「ちょっとやめなよ〜」「おい高橋、封印解いてやれよ!」
高橋は顔を真っ赤にして俯き、小刻みに震えている。俺はその肩をさらに強く叩いた。
「部活もさ、二人でオカ研とか作れば? 運動部はキツくても魔界の扉なら開けるんじゃね」
悪魔は俺だ。俺の言葉は二人の尊厳を同時に踏みにじる。でも笑いは取れた。俺の面目は保たれたのだから、これ以上何かする必要はない。
すると、調子に乗った取り巻きの一人が高橋に手を伸ばしてきた。俺はその手をさりげなく払い除け、高橋の背中をバンと叩いて席へ押し戻す。
「おいおい触んなよ、封印が解けたら俺ら全滅だぞ……ほら、座って黒龍鎮めとけ」
それは俺なりの助け舟だった。こうでもしなければ、この醜い時間はもっと長く続いていただろう。俺の面目は保たれ、高橋は解放される。それでいいはずなんだ。
直後、閂がおもむろに深く息を吐いた。
その瞳は深淵のように暗い。怒りも悲しみもなく、ただ路傍の石を見るような無関心さがそこにあった。
「……安心するといい」
低い声が、俺の鼓膜を震わせた。
「私が行くのは、君のような礼儀のなっていない馬鹿のいる部活ではないから」
「あ……?」
俺の笑顔が引きつる。閂はそれ以上俺を見ることもなく、机に向き合うと教科書を開いた。完全に無視された。いや、相手にする価値もないと切り捨てられたのだ。
渦巻いていた笑い声は次第に収束し、俺の背筋を這う冷笑に変わる。恥ずかしさとプライドを傷つけられた苛立ちで、俺の頭は沸騰しそうだった。何とか言い返そうにも、整然と前を向く閂には「話しかけるな」という絶対零度の壁があり、言葉が出てこなかった。
長い一日が終わり、俺のイライラは最高潮に達していた。
「あーだりぃ! マジで部活とか無駄じゃね?」
汗と制汗剤の匂いが混じる蒸し暑い部屋で、俺は叫ぶように愚痴をこぼした。周りには数人のサボり仲間がいるが、彼らもスマホをいじりながら生返事だ。
「じゃあ帰ればいいじゃーん」
「帰ったら帰ったで面倒なんだよ!」
俺は道着の紐をだらだらと結びながらため息をつく。本当は誰よりも早く着替えて素振りをしたい。けれど、そんなことをすればきっと笑われる。だから俺は誰よりも遅く更衣室を出て、一番やる気のないフリをして道場に入るのが日課だった。
「遅い! 集合!!」
主将の怒号が飛ぶ。俺たちは「へーい」と気の抜けた返事をして、ぞろぞろと道場に出た。整列する部員たちの空気はいつもより少しざわついていた。正面に立つ顧問のジイさんが、珍しく興奮した様子で顔を紅潮させているからだ。
「えー、今日は皆に紹介したい生徒がいる! 入ってきなさい!」
先生の手招きに応じ、入り口から一人の生徒が姿を現した。凛とした立ち姿。真っ白な道着に『閂』と一文字刻まれた垂れ。竹刀を握っていない方の腕はどこにも見えない。
「か、カンヌキ……?」
俺は目を疑った。そこにいたのは、今朝俺をゴミのように見下した転校生だった。
「閂勇くんだ。知っている学生もいるだろう! 中学の全国大会で個人ベスト4、雑誌にも載った『隻腕の剣士』だ!」
先生の紹介に男共が黄色い歓声を上げる。
「え、マジで?」「なんでこんな学校にいんだよ」「すげえ、本物だ……!」
真面目に稽古をしている連中ほど、その反応は劇的だった。彼らにとって閂は同世代のライバルでありながら、遥か彼方にいる憧れの対象なのだ。
閂は騒ぐ部員たちに一瞥もくれず、朝と同じように頭を下げた。
「閂です。よろしくお願いします」
完璧な礼法に美しい所作。ただ立っているだけで、周りの空気がピリッと引き締まるような風格がある。
俺は口を半開きにしたまま、呆然としていた。
その時、ふと閂が顔を上げた。そして真っ直ぐに俺を見た。瞬間、閂の眉間に深い皺が刻まれた。今朝の無関心とは違う、明確な不快感がそこにあった。
「……先生」
閂がよく通る低い声で言った。
「この部はサーカスか何かですか?」
「え?」
顧問が目を白黒させる。閂の視線は俺に縫い付けられたままだ。
「道着もまともに着られず、竹刀を杖代わりにするような猿が紛れ込んでいます。彼のような無作法者はここに相応しくない」
指を差されたわけでないにも関わらず、全員の視線が俺に集まった。
確かに俺の道着は着崩れ、竹刀は床に突き立てて体重を預けている。閂の視線が俺の汚い襟元を滑り落ち——ふと、袴の裾で止まった。
ほんの数秒、本当に瞬きするほどの一瞬だけ、彼の整った目がわずかに細められる。気付いたはずだ。他のサボり連中とは違い、俺の袴には鋭角な折り目が残っていることに。毎日手入れされた竹刀には、ささくれ一つないことに。
だが、閂は興味なさそうに視線を切った。道具を大事にしていることなど、今の態度ですべて相殺だと言わんばかりに。
「誰が猿だよ、お前は殿上人か何かか?」
俺は思わず挑発的に言い返した。しかし、帰ってきたのは端的な拒絶だった。
「出て行け」
「テメェ……調子乗んなよ」
俺は竹刀を左手に構え直し、閂に詰め寄る。周りの部員が「おいやめろよ」と止めに入ろうとするが、俺たちの視線は複雑に絡み合うばかりだ。
「調子に乗っているのは君だろう……努力もせずにただ群れているだけなら畜生でもできる」
「ふざけんな! 俺の何が分かるんだよ!」
「分かるさ。君のような人間は、私が一番嫌いな人種だ」
気がつけば、俺は叫んでいた。湧き上がる劣等感に焼かれ、喉が張り裂けんばかりの大声で。
「————だったら勝負しろよ!!」
道場がシンと静まり返る。部員は鼻で笑い、顧問も何か言おうとしたが、俺は止まらなかった。
「猿だのなんだの偉そうに抜かしやがって! だったらテメェの実力で俺を黙らせてみろよ!」
「春日井! いい加減にしろ!」
「うるせえ! このままコケにされて引き下がれるかよ!」
部長の制止を振り払い、俺は閂を指差して一番言ってはいけない言葉を最も汚い感情と共に吐き捨てた。
「こっちは五体満足なんだよ! 片腕しかねえ奴に、俺が負けるわけねえだろ!!」
道場には冷え切った空気が満ちていた。息を吐き切った瞬間、腹の辺りがひっくり返ったような気分に苛まれる。それでも、もう後には引けない。振り上げた拳の下ろし方が分からなかった。
閂の目には軽蔑すら通り越した、冷酷な光が宿っていた。
「……分かった」
閂は担いでいた防具袋を床に置くと、面を取り出し手拭いを広げた。
「その減らず口ごと叩き潰す」
「上等だオラァ!!」
俺もダスダスと足音を鳴らしながら道場の端へ向かい、面の上に被せていた手拭いをひったくった。手拭いに刻まれた『明鏡止水』の文字に、俺は深呼吸して面を付ける。面紐を締め上げるたび、頭がギュウと圧迫される。この感覚は、いつぶりだろうか。
細かく区切られ、狭くなった世界の先には悠然と立つ閂の姿だけがあった。
もしここで、あの天才に勝てばどうなるのだろうか。ただのサボり魔から実は強い奴へと持ち上げられるだろうか。そうすれば堂々と竹刀を振れるようになるかもしれない。真面目に稽古をしていても、誰にも文句を言われなくなるはずだ。
この勝負は、俺がまともな場所へ這い上がるための蜘蛛の糸だった。
礼をし、竹刀を抜いて蹲踞の姿勢を取る。相手は左手だけで竹刀を構えているものの、身体の軸は一切ブレていなかった。
「始めっ!」
顧問の声が響き、俺は裂帛の気合いと共に床を蹴った。
「ヤアァァァッ!!!」
先手必勝、狙うは面。最短距離で俺の持てる全ての速さを乗せて打ち込んだ。いくら強い相手でも、これなら勝てると思った。
だが、確信は一瞬で絶望に変わった。閂は動かなかった。いや、俺が竹刀を振り下ろすその瞬間にだけ、左手一本で竹刀をスッと跳ね上げたのだ。
カァンッ! と硬質な音が鳴り、俺の竹刀は虚しく空を切る。俺の身体が前のめりになった瞬間、閂の竹刀が鞭のようにしなった。
「小手ェェッ!!」
「いっ……!」
右手に、軽くも爆竹が爆ぜたような衝撃が走る。
「小手アリ!」
顧問の声に、俺たちは竹刀を構え直す。大丈夫、次で取ればまだ盛り返せるはずだ。
だが、閂の攻撃は止まらなかった。先ほどの小手で怯んだ俺の喉元へ、その切っ先が突きつけられる。揺らぐことのない彼の刀から、剣道に賭ける情熱が流れ込んでくるようで。
「う……」
気迫にやられ、思わず後退った時にはもう遅かった。
「面ッ!!」
片腕など関係ない。師範代が打つ手本のような面。竹刀を振るう速度も間合いの取り方も、俺とは次元が違った。
「面アリ! ……勝負あり!」
俺はその場に立ち尽くした。息が上がっているのは俺だけで、閂は涼しい顔で残心を示し、静かに竹刀を収めている。
完敗だった。手も足も出ないとは、まさにこのことだ。
「辞めたらどうだ、君にここは向いていない」
閂が冷たく吐き捨てる。その声は静まり返った道場によく響いた。面を外す気力すらなく、俺は床を見つめる。すると、周囲の部員たちのざわめきが波のように押し寄せてきた。
「うわ、だっさ……」「あれだけ大口叩いて秒殺かよ」「しょーもな」「結局、口だけなんだよアイツ」
突き刺さるような侮蔑の視線。サボり仲間だった連中ですら、俺を見下しているのが分かった。認められるどころか、俺は完全に居場所を失ったのだ。
「クソッ、クソッ、クソッ……!!」
俺は唇を噛み締め、滲む涙を面の内側で堪えながら閂を睨み上げた。
あんな奴、大嫌いだ。
けれど、右手の小手がジンジンと痺れている。打たれた頭の芯が、カッカと熱を帯びている。
悔しい。死ぬほど悔しい。なのに、どうしようもなく生きている実感があった。全力でぶつかり、全力で叩き潰された痛み。それは、俺がずっと避けてきた勝負の味だった。
俺の鼓膜には、閂が俺を打ったあの乾いた打突音が、いつまでもこびりついて離れなかった。
踏み込む足音、ぶつかり合う竹刀の衝撃。その一瞬だけ、二つの孤独は暴力的なまでに鍔迫り合う。
決して交わるはずのなかった二つの線が、剣の切っ先で結ばれた時。止まっていた俺たちの時間はきっと動き出した。
昔っからこうだ。薄っぺらい肺はすぐに熱を持ち、鉄の風味がせり上がってくる。昼休みの喧騒を切り裂いて、俺は階段を二段飛ばしで駆け上がっていた。
胸元に抱えたパンやおにぎりが常に視界に入り込むが、食欲なぞ一切湧かない。潰さないように、けれど一秒でも早く届けるために、俺は必死で脚を動かす。心臓が早鐘を打っているのは、疲れのせいだけではなかった。
俺、春日井……の高校生活は、いつだって針の筵の上にある。
とっ散らかった呼吸を無理やり抑え込み、額と鼻に浮かぶ汗を、自身の方に押し付け強引に拭う。教室へと踏み入る直前、深く息を吸い込んでその細い目と眉を弛ませた。
「失礼しまーす! 一年E組の春日井ミサトです、寺尾センパイに用があって来ましたーッ!」
俺は声のトーンを二オクターブは吊り上げ、勢い良く扉を開く。ほのかに香る紫煙。教室の最奥、窓際の一角から複数の視線と、気だるげな声が投げかけられた。
「お〜い遅ぇよダボ。腹張って死ぬとこだったわ」
「ホントすんません! 女子が前でモタついてて……」
「ひっでー、お前他人のせいにすんだ。最低だな」
寺尾の手招きに応じ、俺は引きつった笑みを浮かべながら彼の築いた群れへと加わった。山のようにあったパンは、お礼の一つもなく次々にひったくられていく。でもこのまま穏便に自教室へ戻ることができれば、俺は何だっていいのだ。
「いや、はい、すんません……あ、これお釣りです! 良かったら使ってください! 遅れてすんませんでした!」
「なに、ちょっとは気が利くじゃん。貰っといてやるよ」
俺が差し出した小銭をポケットに捩じ込むと、寺尾は俺の顔を覗き込んだ。その品定めするような視線に、頬の筋肉がヒクヒクと痙攣する。
「今日もいい笑顔でスバラシイ! なぁ、美少年くん?」
打ち合わせでもしていたのか、寺尾の一言に取り巻きがどっと嗤う。春日井美少年。それが俺の名前だった。
ああ、今日も避けて通れなかった。俺は反射的に口角をさらに吊り上げ、大袈裟に身をよじった。
「も、もう〜勘弁してくださいよぉ〜俺『ミサト』ですってー」
「美少年って書いてミサトだぁ? 無理があんだろ、なぁ!」
「ハハ、まぁ」
「しかもこんな雑魚みてぇなツラしてよ、名前負けにも程があるわ。詐欺だ詐欺!」
無遠慮に頬を平手で弾かれれば、痛くはないものの、それ以上に胸の奥が冷えていく感覚がある。父によく似た細い目と、母を色濃く継いだ小ぶりな鼻と口。だがここで怒りを顕にしたり、傷ついた顔を見せたりしてはいけない。
この馬鹿げた世界で生き残るために。
「……マジそれッスよ! 俺も生まれた瞬間、親に『いやハードル上げすぎ!』ってツッコミ入れたんで!」
俺は手を叩き、腹を抱えて笑ってみせた。時折群れの外から向けられる表情が侮蔑か、はたまた憐憫なのか。俺には分からなかった。
「あ〜おもろ、イケメンくんは今日も冴えてんな」
満足した寺尾が、俺の頭を小突いて追い払う仕草をする。俺は「じゃ、失礼します!」と元気よく叫んで、振り返ることなく教室を飛び出した。
廊下に出た瞬間、自身を覆っていたメッキがガラガラと崩れ落ちる。自分の昼飯を食う時間なんてない。バイトで稼いだ小遣いは、全てアイツらのご機嫌取りに消えていく。毎日空腹をごまかすように水を飲み、午後の授業を耐え凌ぐ。
そして放課後が来れば、地獄のような一日の延長戦が始まるのだ。
「おい春日井! 遅刻だぞ!」
剣道場に一歩入った途端、目ざとい部長の怒鳴り声が飛んできた。部員は何十人もいるが、部長は誰がいて誰がいないかを完全に把握できる気持ち悪い男だ。俺は袴を結びながら、ヘラヘラと頭を下げた。
「いやぁ〜さっき階段でグリッといっちゃって。足首が悲鳴上げてるんすよ」
「先週は手首だっただろうが、いい加減にしろ! やる気がないならせめて座ってろ!」
「ウッス、見学させてもらいまーす」
道場の隅に座り込むと、部員たちからの冷ややかな視線が突き刺さる。呆れ、軽蔑、あるいは単純な無関心。彼らは汗を流し、真剣に打ち合っている。気合の入った掛け声、竹刀が交わる乾いた音、床を踏み込む激しい振動。
その神聖な空間に俺という異物が混ざり込んでいることへの不快感が、道場全体に漂っていた。
「春日井のヤツまたやってるよ」「なんで辞めねぇんだろうな」「あんま関わんなよ、アイツの親も面倒なんだよ」
面白いことに、面を付けた者同士の陰口はこちらによく聞こえる。騒がしい道場と圧迫感のある面によって、自然と声が大きくなることに気付けないのだろう。
「バカはどっちだよ」
俺はあくびを噛み殺すフリをして、彼らから視線を逸らした。
本当は、誰よりも竹刀を振りたいのだ。あの先輩の面は踏み込みが浅いとか、アイツの手首の返しは甘いとか、見ているだけで体がうずく。
そもそも俺が剣道を始めたのは、酔った父の暴力から弟を守るためだった。あの化物を、理不尽をねじ伏せるための圧倒的な力が欲しかった。
けれど、育ち盛りにまともに飯も食えない俺がいくら鍛えても、仲間に追いつける訳がない。それどころか、俺が真剣にやれば「キャラじゃない」と笑われるのは目に見えて分かっている。
だから俺は、適当に生きて、適当に笑って、嵐が過ぎ去るのを待つだけの日々を送るしかない。
足首に巻きついたミサンガを撫で、俺は歯を食いしばった。弟の『兄ちゃんがサイキョーになれますように!』とはにかんだ顔が脳裏をよぎる。
「ほんっと、死にてぇ〜」
俺の呟きは若い剣士たちに届くことはない。朝日を憎んで目覚め、月夜を羨んで眠る。そんな日常がずっと続くと思っていた。
天才が現れるまでは。
翌朝。どんよりとした曇り空の下、予鈴と共に教室に入ってきたのは口煩い担任と、見知らぬ男子だった。
俺はその姿に思わず息を呑んだ。制服の着こなしはショッピングモールに並ぶマネキンのように完璧で、刈り上げられた黒髪が健康的な肌によく映える。程よい筋肉に高い背。俺にないものを全て持っていた。
だが、クラス全員の視線が釘付けになったのはその顔じゃない。
彼の右袖だった。
あるはずの腕がなく、アイロンのかかった袖口がぶらりと揺れていた。
「閂勇です」
左手で黒板に書かれた名前は、筆で書いたと思うほどに力強く太かった。彼はチョークを置くと教室を見回す。その瞳はガラス玉のように透き通っていたが、人間らしい温度がなかった。
「……よろしくお願いします」
水面も揺れないであろう静かな声。閂の紹介は、必要最低限の挨拶で終わった。普通なら趣味とか特技とか話すものだろうが、コイツは何も語らない。その全てを拒絶するような態度に教室内が微かにざわめいた。
俺は嫌な気配すらした。片腕がないんだぞ。普通であれば図らずとも同情を誘うはずなのに、こいつからは「可哀想」なんて思う隙が微塵も感じられない。むしろ、鋭い眼光が俺たち全員を見下しているようにさえ見えた。
「席は……春日井の隣が空いてるな。じゃあお前ら、仲良くしろよ」
担任が指差したのは、あろうことか俺の隣だった。閂が歩き出せば、教室中の視線が彼と、その行き先にいる俺に集まる。
途端に、こんな日ばかり教室にいる不良共が、値踏みするようにニヤニヤし始めた。ワックスで頭をガチガチに固めた輩が俺に目配せをする。
何が楽しいんだ、と胃がキリキリと涙を流し始める。けれど、学校で上手くやっていく以上断る選択肢はない。俺は細い目を更に横へ伸ばし、閂に向かって八重歯を剥いた。
「よろしくな〜俺、春日井!」
俺は椅子の背もたれにふんぞり返りながら馴れ馴れしく話しかけた。閂の目は変わらず氷のようだった。無視して座ろうとする閂に、俺は焦って言葉を重ねた。
「俺、お前の介護とかしねぇからな?」
「必要ない」
「ならよかった〜、元から左利きな感じ?」
「不便がないよう矯正した」
「あ、そ〜なんだ……」
心臓がバクバクと早鐘を打つ。余計なことを言うなと俺の心が叫んでいるのに、よく油の乗った舌は止まらない。
「部活とか入る気あんの? でもその腕じゃ何もできねぇだろうし、運動部はキツいか〜!」
閂の眉間に力がこもった。俺はここぞとばかりに周囲に聞こえるような大声で続ける。
「そうだ、なあ高橋!」
俺は声を張り上げ、机に伏せて縮こまっている男子生徒を振り返った。高橋はいわゆる中二病で、普段から壁に向かってブツブツ言っている、ヤンキー共のストレス解消相手だ。俺は高橋のところへ歩み寄ると、その丸く膨らんだ肩を強引に抱き寄せ、閂の目の前に連れてきた。
「お前いつも言ってるよな、『右手の黒龍がうずく……!』てさぁ!」
俺は高橋の右腕を掴み上げ、閂に見せつけるように突き出した。
「ほら、お前ら仲間じゃね? 右腕がねぇのと、右腕が暴走してんのとでさ。お似合いだぜ!」
俺のパフォーマンスに、教室に潜んでいた性格の悪い奴らがドッと沸き立った。
「うはははは! 確かに!」「ちょっとやめなよ〜」「おい高橋、封印解いてやれよ!」
高橋は顔を真っ赤にして俯き、小刻みに震えている。俺はその肩をさらに強く叩いた。
「部活もさ、二人でオカ研とか作れば? 運動部はキツくても魔界の扉なら開けるんじゃね」
悪魔は俺だ。俺の言葉は二人の尊厳を同時に踏みにじる。でも笑いは取れた。俺の面目は保たれたのだから、これ以上何かする必要はない。
すると、調子に乗った取り巻きの一人が高橋に手を伸ばしてきた。俺はその手をさりげなく払い除け、高橋の背中をバンと叩いて席へ押し戻す。
「おいおい触んなよ、封印が解けたら俺ら全滅だぞ……ほら、座って黒龍鎮めとけ」
それは俺なりの助け舟だった。こうでもしなければ、この醜い時間はもっと長く続いていただろう。俺の面目は保たれ、高橋は解放される。それでいいはずなんだ。
直後、閂がおもむろに深く息を吐いた。
その瞳は深淵のように暗い。怒りも悲しみもなく、ただ路傍の石を見るような無関心さがそこにあった。
「……安心するといい」
低い声が、俺の鼓膜を震わせた。
「私が行くのは、君のような礼儀のなっていない馬鹿のいる部活ではないから」
「あ……?」
俺の笑顔が引きつる。閂はそれ以上俺を見ることもなく、机に向き合うと教科書を開いた。完全に無視された。いや、相手にする価値もないと切り捨てられたのだ。
渦巻いていた笑い声は次第に収束し、俺の背筋を這う冷笑に変わる。恥ずかしさとプライドを傷つけられた苛立ちで、俺の頭は沸騰しそうだった。何とか言い返そうにも、整然と前を向く閂には「話しかけるな」という絶対零度の壁があり、言葉が出てこなかった。
長い一日が終わり、俺のイライラは最高潮に達していた。
「あーだりぃ! マジで部活とか無駄じゃね?」
汗と制汗剤の匂いが混じる蒸し暑い部屋で、俺は叫ぶように愚痴をこぼした。周りには数人のサボり仲間がいるが、彼らもスマホをいじりながら生返事だ。
「じゃあ帰ればいいじゃーん」
「帰ったら帰ったで面倒なんだよ!」
俺は道着の紐をだらだらと結びながらため息をつく。本当は誰よりも早く着替えて素振りをしたい。けれど、そんなことをすればきっと笑われる。だから俺は誰よりも遅く更衣室を出て、一番やる気のないフリをして道場に入るのが日課だった。
「遅い! 集合!!」
主将の怒号が飛ぶ。俺たちは「へーい」と気の抜けた返事をして、ぞろぞろと道場に出た。整列する部員たちの空気はいつもより少しざわついていた。正面に立つ顧問のジイさんが、珍しく興奮した様子で顔を紅潮させているからだ。
「えー、今日は皆に紹介したい生徒がいる! 入ってきなさい!」
先生の手招きに応じ、入り口から一人の生徒が姿を現した。凛とした立ち姿。真っ白な道着に『閂』と一文字刻まれた垂れ。竹刀を握っていない方の腕はどこにも見えない。
「か、カンヌキ……?」
俺は目を疑った。そこにいたのは、今朝俺をゴミのように見下した転校生だった。
「閂勇くんだ。知っている学生もいるだろう! 中学の全国大会で個人ベスト4、雑誌にも載った『隻腕の剣士』だ!」
先生の紹介に男共が黄色い歓声を上げる。
「え、マジで?」「なんでこんな学校にいんだよ」「すげえ、本物だ……!」
真面目に稽古をしている連中ほど、その反応は劇的だった。彼らにとって閂は同世代のライバルでありながら、遥か彼方にいる憧れの対象なのだ。
閂は騒ぐ部員たちに一瞥もくれず、朝と同じように頭を下げた。
「閂です。よろしくお願いします」
完璧な礼法に美しい所作。ただ立っているだけで、周りの空気がピリッと引き締まるような風格がある。
俺は口を半開きにしたまま、呆然としていた。
その時、ふと閂が顔を上げた。そして真っ直ぐに俺を見た。瞬間、閂の眉間に深い皺が刻まれた。今朝の無関心とは違う、明確な不快感がそこにあった。
「……先生」
閂がよく通る低い声で言った。
「この部はサーカスか何かですか?」
「え?」
顧問が目を白黒させる。閂の視線は俺に縫い付けられたままだ。
「道着もまともに着られず、竹刀を杖代わりにするような猿が紛れ込んでいます。彼のような無作法者はここに相応しくない」
指を差されたわけでないにも関わらず、全員の視線が俺に集まった。
確かに俺の道着は着崩れ、竹刀は床に突き立てて体重を預けている。閂の視線が俺の汚い襟元を滑り落ち——ふと、袴の裾で止まった。
ほんの数秒、本当に瞬きするほどの一瞬だけ、彼の整った目がわずかに細められる。気付いたはずだ。他のサボり連中とは違い、俺の袴には鋭角な折り目が残っていることに。毎日手入れされた竹刀には、ささくれ一つないことに。
だが、閂は興味なさそうに視線を切った。道具を大事にしていることなど、今の態度ですべて相殺だと言わんばかりに。
「誰が猿だよ、お前は殿上人か何かか?」
俺は思わず挑発的に言い返した。しかし、帰ってきたのは端的な拒絶だった。
「出て行け」
「テメェ……調子乗んなよ」
俺は竹刀を左手に構え直し、閂に詰め寄る。周りの部員が「おいやめろよ」と止めに入ろうとするが、俺たちの視線は複雑に絡み合うばかりだ。
「調子に乗っているのは君だろう……努力もせずにただ群れているだけなら畜生でもできる」
「ふざけんな! 俺の何が分かるんだよ!」
「分かるさ。君のような人間は、私が一番嫌いな人種だ」
気がつけば、俺は叫んでいた。湧き上がる劣等感に焼かれ、喉が張り裂けんばかりの大声で。
「————だったら勝負しろよ!!」
道場がシンと静まり返る。部員は鼻で笑い、顧問も何か言おうとしたが、俺は止まらなかった。
「猿だのなんだの偉そうに抜かしやがって! だったらテメェの実力で俺を黙らせてみろよ!」
「春日井! いい加減にしろ!」
「うるせえ! このままコケにされて引き下がれるかよ!」
部長の制止を振り払い、俺は閂を指差して一番言ってはいけない言葉を最も汚い感情と共に吐き捨てた。
「こっちは五体満足なんだよ! 片腕しかねえ奴に、俺が負けるわけねえだろ!!」
道場には冷え切った空気が満ちていた。息を吐き切った瞬間、腹の辺りがひっくり返ったような気分に苛まれる。それでも、もう後には引けない。振り上げた拳の下ろし方が分からなかった。
閂の目には軽蔑すら通り越した、冷酷な光が宿っていた。
「……分かった」
閂は担いでいた防具袋を床に置くと、面を取り出し手拭いを広げた。
「その減らず口ごと叩き潰す」
「上等だオラァ!!」
俺もダスダスと足音を鳴らしながら道場の端へ向かい、面の上に被せていた手拭いをひったくった。手拭いに刻まれた『明鏡止水』の文字に、俺は深呼吸して面を付ける。面紐を締め上げるたび、頭がギュウと圧迫される。この感覚は、いつぶりだろうか。
細かく区切られ、狭くなった世界の先には悠然と立つ閂の姿だけがあった。
もしここで、あの天才に勝てばどうなるのだろうか。ただのサボり魔から実は強い奴へと持ち上げられるだろうか。そうすれば堂々と竹刀を振れるようになるかもしれない。真面目に稽古をしていても、誰にも文句を言われなくなるはずだ。
この勝負は、俺がまともな場所へ這い上がるための蜘蛛の糸だった。
礼をし、竹刀を抜いて蹲踞の姿勢を取る。相手は左手だけで竹刀を構えているものの、身体の軸は一切ブレていなかった。
「始めっ!」
顧問の声が響き、俺は裂帛の気合いと共に床を蹴った。
「ヤアァァァッ!!!」
先手必勝、狙うは面。最短距離で俺の持てる全ての速さを乗せて打ち込んだ。いくら強い相手でも、これなら勝てると思った。
だが、確信は一瞬で絶望に変わった。閂は動かなかった。いや、俺が竹刀を振り下ろすその瞬間にだけ、左手一本で竹刀をスッと跳ね上げたのだ。
カァンッ! と硬質な音が鳴り、俺の竹刀は虚しく空を切る。俺の身体が前のめりになった瞬間、閂の竹刀が鞭のようにしなった。
「小手ェェッ!!」
「いっ……!」
右手に、軽くも爆竹が爆ぜたような衝撃が走る。
「小手アリ!」
顧問の声に、俺たちは竹刀を構え直す。大丈夫、次で取ればまだ盛り返せるはずだ。
だが、閂の攻撃は止まらなかった。先ほどの小手で怯んだ俺の喉元へ、その切っ先が突きつけられる。揺らぐことのない彼の刀から、剣道に賭ける情熱が流れ込んでくるようで。
「う……」
気迫にやられ、思わず後退った時にはもう遅かった。
「面ッ!!」
片腕など関係ない。師範代が打つ手本のような面。竹刀を振るう速度も間合いの取り方も、俺とは次元が違った。
「面アリ! ……勝負あり!」
俺はその場に立ち尽くした。息が上がっているのは俺だけで、閂は涼しい顔で残心を示し、静かに竹刀を収めている。
完敗だった。手も足も出ないとは、まさにこのことだ。
「辞めたらどうだ、君にここは向いていない」
閂が冷たく吐き捨てる。その声は静まり返った道場によく響いた。面を外す気力すらなく、俺は床を見つめる。すると、周囲の部員たちのざわめきが波のように押し寄せてきた。
「うわ、だっさ……」「あれだけ大口叩いて秒殺かよ」「しょーもな」「結局、口だけなんだよアイツ」
突き刺さるような侮蔑の視線。サボり仲間だった連中ですら、俺を見下しているのが分かった。認められるどころか、俺は完全に居場所を失ったのだ。
「クソッ、クソッ、クソッ……!!」
俺は唇を噛み締め、滲む涙を面の内側で堪えながら閂を睨み上げた。
あんな奴、大嫌いだ。
けれど、右手の小手がジンジンと痺れている。打たれた頭の芯が、カッカと熱を帯びている。
悔しい。死ぬほど悔しい。なのに、どうしようもなく生きている実感があった。全力でぶつかり、全力で叩き潰された痛み。それは、俺がずっと避けてきた勝負の味だった。
俺の鼓膜には、閂が俺を打ったあの乾いた打突音が、いつまでもこびりついて離れなかった。
