猫と一緒なら天国はいらない

「……絶望か」
 いきなりそんなことを言われても、分からないとしか思いようがない。『これから』何が起きるかも未知のままなのに、判断も断言も出来やしない。
 でも、『これから』ではなく『過去』のことなら答えられるし、『現在』の答えは『過去』と同じだ。
「それなら、もうしちゃった後だよ。今更訊かれても、遅いとしか言えない。僕は絶望し続けるしかないんだ。だから……」
 このまま真っ直ぐに歩けば接触するだろう絶望の塊を、希望は見詰める。
「二択の答えは、絶望する、だ」
 死ぬ前の過去は不変で、孤独は孤独のまま、集団に嫌われるのも仕事ができないのも、貯金が無いのも、人類の最底辺なのも生きる価値が無いのも、意味が無いのも、何も変わらないし変えられないのだから。
 その絶望を抱えた自分は、目の前の塊のようにいつか真っ黒になるのだろう。
「でもさ、駅のホームに立っていたノゾミは気が抜けたみたいだったけど、泣いていなかったよ」
「それは……」
 足元から聞こえる泡雪の声に、死んだばかりの時の心境を思い出して確かにそうだ、と戸惑いを覚える。しゃがんで抱き上げると、愛猫はざらりとした舌で僕の顎を舐めた。
「ボクは絶望ってよくわからないんだ。だけど、楽しいことや嬉しいこととは逆なんだよね。そんな感じには見えなかったな。落ち着いているっていうか」
「……それは、安心していたからだよ」
 そう、僕は安心していた。何故なら――
「安心? 無事に死ねたからってこと?」
 顔を顰め、腕組みをして夢女が言う。何で? じゃなくて具体的な理由が出てきたあたり、幽霊からもよく聞くのだろうか。死への感想として珍しくないのに『無事に死ねた』という言葉は彼女を不快にさせるらしい。
「うーん、それはちょっとニュアンスが……」
 どう説明しようかと考えていると、夢女は黒い闇の塊に歩み寄った。手を伸ばして元は頭部だっただろう箇所に掌を当てる。そこから、ぶわっと黒い煙が立ち上る。
「え、な、何を……」
 驚く僕の腕の中で、泡雪の白い毛が逆立った。
「ボク、なんだかイヤな感じがするよ……」
「ん? 話が長くなりそうなら、コレの処分しちゃおっかなって」
「処分……そんなことが出来るのか?」
 夢女は幽霊界の特殊役職とかなのだろうか。闇落ちした幽霊の処分なんて、誰でも出来ることじゃなさそうだ。
「うん。絶望してない幽霊なら誰でも」
「誰でも……?」
 掌を当てた黒い塊からは、まだ煙が出続けている。更に、おぉおぉぉ……という音――いや、声……? も発し始め、本能的な恐怖を感じた。
「ただ、これやると幽霊としての寿命が減るからあんまりやりたくないんだよねー。でもここはちょっと、場所が悪いからなあ。このままにしとくと、また線路に飛び込む人が出ちゃうかも」
「ど、どういうこと? えっと、色々とどういうこと?」
 僕から降りて、一メートルくらい離れた場所にある柱の陰に隠れた泡雪が毛が針みたいになった尻尾を立てて、生者の雑踏の音に負けない大声で言った。
「あわゆー、死んでから結構経ってんじゃないの? なーんも知らない感じ?」
「ぼ、ボクは、ずっとノゾミの傍に居たから……ノゾミは、たまにしか外に出ないし……」
「ふーん?」
 訊いた割にどうでも良さそうな反応をして、夢女は解説してくれた。
(いち)。コレに幽霊が触ると、コレは蒸発して消えていきます。力を込めれば一気に消えます。絶望してないって、コレにとっては強烈な力らしいのね」
「うんうん」
 コクコクと泡雪が頷く。僕も合わせてコクコク頷く。
「で、元仲間を消す代償として、寿命が減るわけ。あたしらが勝手にそう呼んでるだけだけど、まあ、コレをいっぱい消してるとコレにならなくても幽霊って消えちゃうんよ。適当な統計? というか、予想? ってやつ?」
「じゃあそれ、ずっとやってるとまずいんじゃないか?」
「うん、そうだね」
 僕が指摘すると、彼女はあっさりと黒い塊から手を離した。寿命を気にしている素振りは無い。おぉおぉぉ……という声がぴたりと止まった。
()。コレってさ、すっごい不吉なオーラ出してるじゃん? これは、生きている人にも影響します。コレがここにいるだけで、その周辺には不幸が起こりやすくなるの。今で言えばこの駅なわけ。特に、普段から死にたいとか思ってると、引きずられやすくなる。ほっとくと、また自殺者が出ちゃうかもしれないってこと」
「えっ、それって……」
 泡雪が僕を見る。彼が出した答えは、僕が出した答えと同じだろう。
「僕は、この絶望の塊に引きずられて死んだかもしれないのか……?」
 夢女は答えず、ギャルめいた軽さを消して、真面目な顔で見詰めてくる。二人と一匹の間に流れる空気が重くなる。その中を、生者が通過していく。時には僕達をすり抜けていく。一匹の喉が、ごくん、と鳴った気がした。
「そう。コレは、あんたの仇とも言えるかもね」
 黒い塊を見下ろした夢女は、また僕に目を戻す。
「だから、コレはあんたが消しても良い。復讐にもなるし、善行にもなる」
 真っ直ぐな視線が、僕に突き刺さってくる。
「やる? 幽霊化して初の絶望浄化。あんたがやらないならあたしがやるけど」

「…………」
 黒くもやもやとした絶望の塊を前に、考える。僕は何故、僕だったものを前にして安心したのか。
 夢女が言った、無事に死ねたから安心したというのも間違いではない。けれど、それだけではない。
 僕は死にたくて死にたくて、そして死にたくなかった。
 ――死にたく、なかったから。
 消えたいと願うのに、『自我』が消えるのが怖かった。『無』になるのが怖かった。怖くて怖くて仕方なくて、人である限りいつか必ず訪れる逃れられない『無』が怖くて、体の下から頭まで恐怖が突き上がってくる瞬間がある。そんな日は、眠ることすら恐ろしい。
 自分が大嫌いなのに、自分が大好きでもあったのだ。
 どうして自分が嫌いなのかと言えば――全てにおいて人より劣っている僕に、好きになる要素が無かったからだ。

 泡雪に中学までの話をした時、僕は集団の中の異物として九年間を過ごしたと言った。学校内の顔ぶれが同じだから、一度定着してしまった『立場』や、同級生達の僕に対する審判の結果は変わらないと。
 確かに、僕にとっては間違いのない現実で、過去から現在に至るまで、学校で孤立した経験をしている人達にも同様の現実だろう。
 そして、この言説の裏には『環境が変われば状況は変わるのだ』という意味が含まれている。今は仕方ない。この時は仕方ない。でも、 高校に入れば、大学に入れば、就職すれば――
 ゼロから人間関係を構築できる。自分を偽り、集団からはみ出ないように気を付けて集団の中の一人になれる。
 そういった希望を前提にした言い訳なのだ。
 やり直せる人もいるだろう。だけど、僕はやり直せなかった。高校に入っても、孤独なままだった。入学当初は声を掛けられたりもした。仮形成された数人のコミュニティで行動を共にしたりもした。しかし、やがてボロは出る。普通を演じようとしても何が普通で、発言していい範囲も碌に分からない。自然と口数は少なくなり、ただ笑っているだけの人形ができる。これだけ気を遣っていても、気を遣っているからこそ――偶にした発言や行動が僅かな集団の中で亀裂を生み、他の集団にまで派生してトラブルを生んだ。その果てに、僕は一人になった。周囲からの嫌悪と無関心、関わりたくないという感情が常に全身に刺さっていた。
 就職しないと人は生きていけない。
 最低限の就職をする為に、高校には通い続けた。だが、進学する気は失せていた。高校という地獄からやっと抜け出せるのに、また新たな地獄に進む気にはなれなかった。もう、やり直せるとは思えなかった。僕が孤独なことを知っていたから、親も何も言わなかった。
 卒業してからのことは前に話した通りだが、駅のホームに立っていた時の僕は無職だった。淡雪が『ノゾミは家で毎日、ごはんを食べて、夜は寝て、いつも通りに生きていたじゃないか』と言っていたのがそれを表していた。

 そんなあぶれ者が、自分を好きになれるわけがない。だから、自我の消失への恐怖と自己評価は別のベクトルにあるのだろう。
 ――幽霊になった僕は安心した。
 ――無事に死ねたから。
 ――『死んでも、自我が残っていたから』――

 内的な思考に浸かっていた僕は、僕よりも前に死んで幽霊になり、理由は不明ながら絶望してしてしまったなれの果てを見詰める。
 一人きりでも、誰かと思いを共有したいと思う時はある。
 そういう時、僕はインターネットに頼った。明るい振りをした人達の、もしくは明るい振りさえできない人達の本音が溢れているからだ。
 命を終わらせたいと思っている人は意外と多い。人類全体の比率としては圧倒的に少ないのだろうけど、人類の数は半端なく多いので、一人の人間から見たらたくさんいるように見えるのだ。
 彼等彼女等の本音を読んでいると、望んでいるのは『無』であり、『自我』の消失であることが感じられる。
 もし彼等が、この絶望の黒い塊に引きずられて殺されたら――
 死んでも幽霊として自我が残ってしまったことに、安心するのではなく、絶望するのではないだろうか。
 絶望して、黒い塊を自らの仇と思うかもしれない。
 一方で安心してしまった僕には――

 この『元人間』に感謝こそすれ、仇に思う理由など無かった。憎しみも怒りも、湧いてはこない。どこまでも凪いだ、静かな気持ちが僕を包んでいる。
 待ちくたびれたというように、夢女があくびをした。泡雪は、僕の足元まで戻ってきている。
 やるかやらないか、答えを声には出さないで。
 僕は黒い塊に手を伸ばした。額に掌を当てると、ぶわぁっと黒い煙が噴き出してくる。掌の下にある絶望の表面が、湯が沸騰するかのようにぼこぼこと泡立っている。
「幽霊には質量なんて無い筈なのに……」
 この一言で、夢女には僕が何を感じているかわかったのだろう。少女は短く、真面目な声で「あるよ」と言った。
「え、あるのか?」
 右手の下からは、煙が噴き出し続けている。怯まず傍に立つ彼女は、そこから目を離さずに教えてくれた。
「幽霊には質量があるよ。人の魂は二十一グラムだっていう話が有名だよね。あたし達には二十グラムの質量がある」
「二十グラム……」
 相変わらず、掌の下はぼこぼこしている。まるで、小さなもぐら叩きが動き続けているみたいだ。冷蔵庫の中のような冷たさがある。体温は、人間が抱く幽霊のイメージと同じなようだ。
「それに幽霊同士は触ろうと思えば触れるし、幽霊はベンチにも座れる。触覚があるのは変なことじゃないんよ」
「なるほど……?」
 そういえばそうだなと、納得に近い気分になった。掌に力を込めると、風船を潰す時の感覚を思い出した。
 ――これは、黒い塊へのお礼だ。
 ――実のところ、僕が自分の中の潜在的な意志によって死んだのか、絶望の塊に引きずられて死んだのかはどちらでもいい。
 ――もしかしたら大事なことかもしれないけど、とりあえずどちらでもいい。
 ――でも、コレが僕の背を押したのなら。
 ――僕に死後の世界を教えてくれてありがとう。無事に死なせてくれてありがとう。
 ――僕はもう、死後の無に怯えなくていいから。
 ――お礼として、あなたを消滅させる。
「……あっ!」
 更に手に力を籠めようとした時、泡雪が声を上げた。白猫の視線の先から、小さな、それこそ猫くらいのサイズの絶望の塊が近付いてくる。ずる、ずる、と大きい方の黒い塊に接近していく。
「何だ? これ……?」
「猫……」
 僕の声に答えたのは泡雪だった。きりっとした顔で、逆立てていた毛をいつも通りに寝かせて、小さな塊を見ている。
「猫だよ。ボクには分かるんだ」
「それって、まさか……」
 この、絶望の塊の飼い猫なのではないだろうか? そう思った途端、僕の心には迷いが生まれた。目の前の絶望が消えれば、猫の絶望だけが残ってしまう。黒い塊はいつか消滅すると夢女は言った。例え黒くなってしまっても、残り時間を一人と一匹で過ごせばいいのではないか。
「猫が……」
 大きく目を見開いた夢女が呟く。僕達の前で、小さな黒と大きな黒が融合していく。
 にゃあぁ、と、黒い煙に紛れて鳴き声がした。生の世界でも死の世界でもないどこかから漏れてきた声だった。
「ノゾミ」
 泡雪が何を言いたいかが伝わってきて、僕は掌に力を込めた。
 一気に空気が抜けるような音と共に、絶望の塊が霧散した。

           □□□□

 そろそろ場所を変えようと、僕達は街中を歩いていた。夢女が言った通り、平日なのに人の姿が多い。買い物袋を持っている人、おしゃれな服で着飾って同行者と喋っている人、暇そうに普段着で歩いている人、老若男女様々だ。スーツ姿の人も居るが、日常を過ごしていそうな人達に比べると少なかった。平日休みの人が案外多いのか、主婦の方なのか、年齢によって仕事自体を引退された方なのか。
 それとも、僕と同じく無職なのか。
(僕も引きこもってないで、もっと外に出れば良かったな……)
 今の時代は、「こんな時間にふらふらして」とか「若いのに仕事もしてないで」とか比較的思われにくいのかもしれない。事実として僕は無職だったけれど、職を持った大人だと勝手に判断されていた可能性もある。
 大人は皆、この世界に無職なんていないと思っているから。
 ――それにしても、さっきからたまに変な感じがする。どうせ透けるのだからと人々の体を通過しまくっていたが、スライムが僕の体にめりこんで、不快な感触を残して抜けていったかのような、そんな感覚が。
「そうそう、透け放題だからってゆーれーにぶつからないようにしなよー?」
「え?」
 先頭の夢女は、前を向いたまま軽い調子で背後に声を放ってきた。あんまり関心もないしそんなことしてないだろうけど、一応言っとくか、みたいなノリで。
 横を歩く泡雪が、あーあ、という顔で僕を見上げていた。視線は僕に据えたまま、前方から来る人の足をちょこちょこと器用に避けている。僕は慌てて、すれ違う人波を避け始めた。生きている時は最も得意とした動きだったのだ。その気になれば楽勝だ。
「幽霊も一応は個々の魂なわけよ。接触したらキモい感じになるんよ。相手的にも、こいつぶつかってきやがったってなるからさー」
「え?」
 何か嫌な予感がして、来た道を振り向く。こちらを一顧だにしないで遠ざかっていく背の中に、目を鋭くして僕を睨んでいる男が三人居た。全く共通点の無さそうな服装と年齢だったが、彼等は同時に走り出した。一瞬で一気に距離が縮み、僕は即座に逃げ出した。
「走って!」
「にゃにゃあ!」
「はぁ!? 何!? げっ!」
 僕と泡雪が横を通り抜けると同時、事態に気付いたらしい夢女も追いかけてくる。
「あんた、何やったわけ!?」
「気にしないですり抜けてた!」
「ばっかじゃないの!?」
 出会って二度目のばっかじゃないのには反論のしようがない。
「ごめんごめん! こいつ幽霊なりたてなんよ。勘弁してくんないかな!」
「知るかー!」
「だったらますます教育が必要だよなあ!」
「待てこらあ!」
「すみません、待てません!」
 謝った上で断った僕は、その気になれば楽勝の人波避けを駆使して走る。男達はそこまで楽勝ではないのか人という障害物に邪魔されて全力が出せていない。
「こっち!」
 いつの間にか先頭を走っていた夢女に先導され、シャッターが降りているビルの一階にそのまま突っ込んですり抜ける。机や椅子が並んでいる薄暗い空間に入ると、夢女は足を止めずに階段を登った。二階から四階は塾や飲食店が営業していて、最上階である五階に着いてからやっとゴールだとばかりに座り込む。彼女はミニスカートだから、目のやり場に困って僕は窓の外を見た。白い雲が、空にまだらに浮いている。全力で走ったが、息は全く上がっていない。
 まさか、幽霊の世界でチンピラに追いかけられることになるなんて。
 チンピラかどうかは定かじゃないけど。
「一階に居なきゃ、別の場所を探すっしょ」
 前髪を掻きあげる夢女と、四つ足でしっかりと立つ泡雪に僕は謝る。
「ごめん。すり抜けられるなら気にしないのかなって。特に何の感覚もない……と思ってたから」
「例え感覚が無かったとしても、すり抜けたとしても、相手の姿は見えてるんだから普通避けるっしょ?」
「普通……?」
「あ」
 窓の外から夢女に目を移すと、イライラした様子だった彼女はばつが悪そうな顔になった。
 テナントの入っていない、寂れた空気さえあるフロアの中に、少し気まずい沈黙が流れた。
「……そうだよね、ごめん」
 他者との関係に罅を入れない為に、怒らせたり迷惑を掛けたと思ったら謝ってきた。でも、今のごめんは本音だった。
 普通、を聞き流せなかった僕が悪い。我ながら棘があったし、何も言わなければこんな雰囲気にはならなかっただろう。相手が職場の人だったら、すみませんと謝るだけだ。彼女に対しては、第一印象で相容れないタイプだと思ったのもあり、早く一人にしてほしいという気持ちしかなかった。だから初めから素を出してしまっていて、現時点では気安ささえ感じていたから思ったままに反応してしまった。
「何笑ってんだよ……」
「え?」
 言われて初めて、へらりとした笑みを作っていたことに気が付いた。『え?』と言いながらも笑ったままであると自覚したが、今更引っ込めることも出来ない。
「いつもそういう顔で謝ってた感じ? 小慣れてるっつーか、決められたパターンが出てきてるだけっつーか、そう見えるわ」
「…………」
 ショックと共に、心臓があった辺りが石のように固まる感覚がした。何度も経験した瞬間を魂が覚えていて、体が無くなっても再現してくるのだろうか。
 笑みは保てず、無に近い表情になっているのを自覚する。無意識のうちに尖ってしまった、錐のような視線で夢女を刺す。刺し返してくることなく、彼女はただ胡乱気に目を細めて僕を見ている。
 忘れかけていた。彼女はギャルなんだ。外見も内面もギャルで、スクールカースト上位の勝ち組。僕達を下に見て、空気みたいに扱う存在。
 僕とは、相容れない存在。
「……幽霊について教えてくれてありがとう。じゃあ、こ」
 れで、と言って入ってきたドアに向かうつもりが、泡雪が夢女の顔に飛びついて両前肢でバリバリと引っ掻き、「ぎゃああああ!」という悲鳴が響いたことで全てが止まった。「きゃ」ではなく「ぎゃ」なのが彼女らしい。制服の背が真後ろに倒れ、ゴン! という音は立てずに勢いのままに後頭部が床にめりこむ。上げかけた顔から後方ジャンプした泡雪は、シャツがめくれて臍が出ている彼女の腹に着地して体内に四つ肢を突っ込んだ。
「ぎゃ」
 今度の悲鳴は短かった。顔面を左手で覆った夢女が、当然ながらに怒りの声を上げる。
「何すんのさ!」
「ノゾミをいじめたらゆるさないよ!」
 怒っているというより毅然とした言い方だった。肢はぴしっとしているし、白い毛も逆立っていない。
「…………」
 仰向けのまま、背の半ばから身を起こした夢女は、顔面から左手を離す。猫の爪痕一つない、メイクできつい印象だけど美しくもあるその顔に、後ろめたさのような、何かに耐えるような感情が浮かんでいる。淡雪からは目を逸らし、少し硬い声で問うてくる。
「……あたし、いじめてた?」
「うん、いじめてた」
「そっか……。ごめん」
 夢女は僕を真っ直ぐに見て、はっきりと言った。真剣さが伝わってきて、ああ、これが彼女の「謝る」ということなんだなと、納得できた。僕のへらへらとした頼りない『ごめん』に苛立つのも当然だ。
「……ううん、いいんだ」
 この場を去ろうという気は消えていた。確かに傷つけられた筈なのに、彼女と向かい合いたいと思っていた。
「夢女の言う通りだよ。間違ってない」
 謝る時に笑う癖の理由を、正直に話そうと思った。
「いつも、場を収める為に、それ以上怒られないように、許される為に謝ってたんだ。さっきは、本当に迷惑を掛けたと思ったから謝ったけど……場を流そうとしたのは……確かなんだ」
「ノゾミ……」
 泡雪が夢女から離れて、にゃぁんと鳴いた。
「ノゾミが家の外で、他の人間とどう過ごしてたかなんて、ボクは考えたことがなかったよ。でも……」
 ぽてぽてと近くまで歩いてきて、また細く鳴く。こんな哀しそうな鳴き方は聞いてことがなくて、胸が痛んだ。淡雪に、哀しい思いをさせてしまった。
「誰かに怒られて、そのたびにあんな笑顔を浮かべて過ごしてたんなら……」
 今こうして、ボクと話してても仕方ないよね。と彼は言った。
 それは、初めての僕の死の肯定だった。
「ノゾミはここで、また絶望しちゃう? さっきみたいに追いかけられたり、幽霊としてうまく生きられなくて、苦しくて、また……そしたら、ボクは……」
「淡雪……」
 僕は、先程消滅させた絶望の塊を思い出した。大きな絶望にずるずると近寄る、小さな絶望を。
「そんなことさせない」
 そこで、夢女が意思の込もった声を出した。
 決意さえも感じる、強い声だった。
「淡雪も、希望も、絶望させたりなんかしない」
 何だか、酷く悔しそうにも見えて、僕の心はざわついた。その裏に不安と不穏と信念と、経験が隠されている気がして。
「……僕の方が先じゃないんだ?」
「淡雪は可愛いからね」
 わざと冗談を言ってみたら、彼女はそう即答した。
「そうだね、可愛いね」
 間髪無く、泡雪が肯定した。
「可愛いならしょうがないね」
 僕は笑った。この時に、絶望させないという言葉を自然と受け入れてしまっているのを自覚した。実際に絶望するかしないかは、別として。
 可愛いと笑う泡雪を囲んで、僕と夢女は笑っていた。