翌日、五右衛門は市井の薄汚れた飯屋で食事をしていた。
摩阿が望んでいること。その一つは、年相応の娘が抱く趣味首肯を叶えることだ。噂になっている甘味を食べたり、流行の装飾品を手に取ったり。前田家の姫君であり、秀吉の側室である摩阿に、町娘が望むような願いごとが叶うことはない。しかし、五右衛門にはそれを現実に変えることができる。問題はもう一つ、最も重要な願いの方だ。
味もしない漬物で麦が九割以上の飯をかきこんでいると、五右衛門の背中から話し声が聞こえてきた。
「おい、また商人が襲撃されたそうだぞ。家族は皆殺しにされ、金目な物は全て持ち去られたらしい」
「そりゃまた、ひでえ話だなあ」
「小さい店ばかり狙っているそうだ。折角、大盗賊の石川五右衛門が消えたというのにな」
「ああ、まったくだ」
それを聞いた五右衛門は眉根を寄せる。
確かに夜な夜な襲撃をしていたが、小規模な店を選ぶような真似はしていない。逆に大店ばかりを狙い、用心棒を渡り合った上で金だけを持ち去った。無意味な殺生をしたこともないのだ。
「勘定、置いとくぜ」
一文銭を5枚置くと五右衛門は席を立った。
飯屋の外に出た五右衛門は、先程の噂話を思い出し顎に手をやる。
「ちょうど良いじゃねえか」
そう呟いて歩き始めた。その足取りは飯屋に入る前よりも軽やかだった。
摩阿の元に庶民の声が届いたのは、それから数日後のことであった。前田屋敷の女中から、身に覚えのない事で褒め称えられたのだ。
「さすが姫様ですね。屋敷に居ながら市井を荒らし回っていた盗賊を退治し、貧しい者達に施しを与えるなど、姫様以外にできる事ではございません」
書物の頁を捲っていた摩阿の手が止まる。
「人違いではありませんか?」
摩阿がそう返すと、女中は口元を押さえて顔を伏せた。
「申し訳ございません。そういうことなのですね。姫様は関知していないと、そういうことにしておけば宜しいのですね」
なぜか、納得した表情で「承知しました」とばかりに頭を下げる女中。摩亜はその誤解を解こうとするが、女中は足早に去ってしまった。
部屋に取り残された摩阿は思案する。
自分が何もしていないのであれば、他の誰かが摩阿の名前を使って行っているということだ。前田家の人間が盗賊狩りなどするはずがない。秀吉に至っては、摩阿の存在など頭の隅にすらないだろう。
「はあ・・・五右衛門様の仕業ですね」
嘆息した摩阿の表情は、確かにほころんでいた。
その夜、いつものように天井裏からコンコンという音が聞こえてきた。
灯りの下で読んでいた書物を閉じて、摩阿が天井を見上げる。すると、天板の隙間から覗き込んでいた五右衛門が音も無く降りて来た。五右衛門はいつものように畳に腰を下ろし、懐から包み紙を取り出した。
「今日は―――――」
五右衛門が口を開いた瞬間、摩阿が手の平を向ける。
「五右衛門様に、お伺いしたい事がございます」
その口調と表情を目にした五右衛門は、諦めたように両手を天に向けた。
「やれやれ、意外に早く耳に入ったみてえだなあ」
苦笑いする五右衛門に対し摩阿は顎を上げ、口をへの字に曲げて大きく息を吐き出した。
「一体、どういうことなのでしょうか?」
摩阿の追求に対し、五右衛門は悪びれることなく説明する。
「そりゃあ、摩亜姫の評判を上げるためしかねえだろう」
摩亜は口をへの字にしたまま小首を傾げる。
「秀吉が一番欲しいものは、日の本に住む者達の支持だ。つまり、人気者になりてえんだよ」
「サルではなく、秀吉様ですよ」
少し表情が柔らかくなった摩亜が五右衛門を嗜める。
「もし、だ。自分の側室が都で有名になり、名声を得たとしたらどうなると思う?」
「あ・・・!!」
五右衛門がしたり顔で片方の口角を上げる。
「そういうこった。序列が上がる。もしかしたら、落成する伏見城に部屋が貰える、なんてことも実現するかも知れねえなあ」
摩亜の役目は、天下人である秀吉と、旧信長の家臣団でも古参である大大名の利家を繋ぐ橋である。
成り上がり者である秀吉に大名達が従っているのは武力や財力もあるが、宿老の利家と東日本を治めている徳川 家康の二人が従っているからだ。利家は義理と人情によって味方をしているが、家康は秀吉と利家の二人を敵にした場合に勝算が無いと分かっているため従っているに過ぎない。秀吉と利家が存命の間は大丈夫だろう。しかし、その後はどうなるか分からない。将来の天下泰平ために必要な豊臣家と前田家の繋がりを、より強固にすることが摩亜の重大な使命なのである。
摩亜は当然、その事は理解しているし、自分の使命も承知している。
それでも、五右衛門からそれを聞いた摩亜は少しだけ口を尖らせた。
摩阿が望んでいること。その一つは、年相応の娘が抱く趣味首肯を叶えることだ。噂になっている甘味を食べたり、流行の装飾品を手に取ったり。前田家の姫君であり、秀吉の側室である摩阿に、町娘が望むような願いごとが叶うことはない。しかし、五右衛門にはそれを現実に変えることができる。問題はもう一つ、最も重要な願いの方だ。
味もしない漬物で麦が九割以上の飯をかきこんでいると、五右衛門の背中から話し声が聞こえてきた。
「おい、また商人が襲撃されたそうだぞ。家族は皆殺しにされ、金目な物は全て持ち去られたらしい」
「そりゃまた、ひでえ話だなあ」
「小さい店ばかり狙っているそうだ。折角、大盗賊の石川五右衛門が消えたというのにな」
「ああ、まったくだ」
それを聞いた五右衛門は眉根を寄せる。
確かに夜な夜な襲撃をしていたが、小規模な店を選ぶような真似はしていない。逆に大店ばかりを狙い、用心棒を渡り合った上で金だけを持ち去った。無意味な殺生をしたこともないのだ。
「勘定、置いとくぜ」
一文銭を5枚置くと五右衛門は席を立った。
飯屋の外に出た五右衛門は、先程の噂話を思い出し顎に手をやる。
「ちょうど良いじゃねえか」
そう呟いて歩き始めた。その足取りは飯屋に入る前よりも軽やかだった。
摩阿の元に庶民の声が届いたのは、それから数日後のことであった。前田屋敷の女中から、身に覚えのない事で褒め称えられたのだ。
「さすが姫様ですね。屋敷に居ながら市井を荒らし回っていた盗賊を退治し、貧しい者達に施しを与えるなど、姫様以外にできる事ではございません」
書物の頁を捲っていた摩阿の手が止まる。
「人違いではありませんか?」
摩阿がそう返すと、女中は口元を押さえて顔を伏せた。
「申し訳ございません。そういうことなのですね。姫様は関知していないと、そういうことにしておけば宜しいのですね」
なぜか、納得した表情で「承知しました」とばかりに頭を下げる女中。摩亜はその誤解を解こうとするが、女中は足早に去ってしまった。
部屋に取り残された摩阿は思案する。
自分が何もしていないのであれば、他の誰かが摩阿の名前を使って行っているということだ。前田家の人間が盗賊狩りなどするはずがない。秀吉に至っては、摩阿の存在など頭の隅にすらないだろう。
「はあ・・・五右衛門様の仕業ですね」
嘆息した摩阿の表情は、確かにほころんでいた。
その夜、いつものように天井裏からコンコンという音が聞こえてきた。
灯りの下で読んでいた書物を閉じて、摩阿が天井を見上げる。すると、天板の隙間から覗き込んでいた五右衛門が音も無く降りて来た。五右衛門はいつものように畳に腰を下ろし、懐から包み紙を取り出した。
「今日は―――――」
五右衛門が口を開いた瞬間、摩阿が手の平を向ける。
「五右衛門様に、お伺いしたい事がございます」
その口調と表情を目にした五右衛門は、諦めたように両手を天に向けた。
「やれやれ、意外に早く耳に入ったみてえだなあ」
苦笑いする五右衛門に対し摩阿は顎を上げ、口をへの字に曲げて大きく息を吐き出した。
「一体、どういうことなのでしょうか?」
摩阿の追求に対し、五右衛門は悪びれることなく説明する。
「そりゃあ、摩亜姫の評判を上げるためしかねえだろう」
摩亜は口をへの字にしたまま小首を傾げる。
「秀吉が一番欲しいものは、日の本に住む者達の支持だ。つまり、人気者になりてえんだよ」
「サルではなく、秀吉様ですよ」
少し表情が柔らかくなった摩亜が五右衛門を嗜める。
「もし、だ。自分の側室が都で有名になり、名声を得たとしたらどうなると思う?」
「あ・・・!!」
五右衛門がしたり顔で片方の口角を上げる。
「そういうこった。序列が上がる。もしかしたら、落成する伏見城に部屋が貰える、なんてことも実現するかも知れねえなあ」
摩亜の役目は、天下人である秀吉と、旧信長の家臣団でも古参である大大名の利家を繋ぐ橋である。
成り上がり者である秀吉に大名達が従っているのは武力や財力もあるが、宿老の利家と東日本を治めている徳川 家康の二人が従っているからだ。利家は義理と人情によって味方をしているが、家康は秀吉と利家の二人を敵にした場合に勝算が無いと分かっているため従っているに過ぎない。秀吉と利家が存命の間は大丈夫だろう。しかし、その後はどうなるか分からない。将来の天下泰平ために必要な豊臣家と前田家の繋がりを、より強固にすることが摩亜の重大な使命なのである。
摩亜は当然、その事は理解しているし、自分の使命も承知している。
それでも、五右衛門からそれを聞いた摩亜は少しだけ口を尖らせた。



