攫われていた女性は、立ち並ぶ武家屋敷の最奥にある最も大きい屋敷の前で立ち止まった。巨大な門の横にある潜り戸を叩いた。すると、すぐに中から反応があった。
「何者か?」
硬質な男性の声に対し、女性は顔を戸に近付けて応える。
「戻りました」
その瞬間、潜り戸が勢い良く開き、中から複数の帯剣した武士が飛び出してきた。
「摩阿様!!」
全員が跪いて頭を垂れる。
「よくぞご無事で!!」
「さあ、中へ、お早く」
出迎えた家臣は周囲を警戒しつつ、摩阿を屋敷の中へと引き入れた。
摩阿は前田 利家と正室であるまつとの間に生を受けた。
利家がまだ若輩の頃、同じ織田 信長の家臣であった柴田 勝家との縁を深めるために、勝家の家臣の元へと嫁いだ。しかし信長亡き後、勢力争いの末に起きた賤ヶ岳の戦いにおいて勝家は敗戦。戦死した勝家の後を追って夫が自刃したため、前田家へと戻されることになる。そして、14歳になった摩阿は、泰平の余を築くために天下人となった秀吉の元に嫁ぐことになった。
摩阿は用意されたお湯で身体を拭くと、着物を着替えて自室へと戻った。
本来であれば秀吉の側室である摩阿は聚楽第に住むべき存在であるが、部屋を与えられなかったため前田の屋敷に住んでいる。摩阿の役割は大名たちからの信頼が厚い利家と、天下人になったものの未だ不安定な秀吉を繋ぐ橋になることである。しかし、摩阿姫が病弱であること、まだ外見が幼いこともあり側室の中でも序列が低かった。
「ごめんなさい」
誰もいない部屋で、摩阿がぽつりと溢す。
ずっと、父と母、前田家に貢献できていないことを嘆いていた摩阿であったが、ここにきて攫われるという失態を犯してしまった。摩阿のせいではないのであるが、それでも、自責の念に押し潰されそうになっていた。
攫われたことが非公開であったため、摩阿を取り囲む環境が変わることはなかった。
夜のうちに両親が会いに来たものの、ただ無事に戻ったことを報告しただけであった。自責の念が強過ぎたため、摩阿は安堵の言葉を口にすることもせず、涙を流すこともできず、ただ、表情を打ち消して視線を落としていた。
その後、前田の屋敷は以前にも増して警備が厳重になった。隙を狙われたとはいえ、豊臣家の家臣筆頭である利家の娘であり、天下人秀吉の側室である摩阿を二度も攫われる訳にはいかないのだ。
―――――それから一月が過ぎた頃。
そう、長雨が続いている夜。激しい雨音と暗闇の中でそれは起きた。
「この警戒の中では、都一番の盗賊と呼ばれた石川五右衛門でさえ、米一粒でさえ盗み出すことは不可能だろう」と家臣たちが笑い話として語り合っていたその時、突然、屋敷内に叫び声と甲高い笛の音が鳴り響いた。それは、本当に偶然だった。たまたま一文銭が床に落ちなければ、前田家の家臣団はその男に気付くことはなかっただろう。銭を拾って立ち上がる際に、たまたま天井が目に入ったことにより、そこに張り付いている男を見付けたのだ。
その男は即座に廊下に降りると、背後に回りこんで首筋に手刀を落とす。そのまま外に飛び出そうとした瞬間、奥から歩いて来た他の家臣に再び見付かってしまった。今度は間に合わず、叫び声と笛、鳴子が響く中を逃げ回ることになってしまった。
天井裏に飛び移り、くもの巣を払いながら突き進む。
足音、呼吸音にまで聞き漏らさないように移動し、暗闇の中で息を殺す。
存在を消して機会を窺う。
さすがに、たった一人で天下最強と謳われる前田の家臣団を、真正面から打ち破ることなどできるはずがない。
屋敷の内部から外へと声が移動する。
豪雨の中、外を駆け回る足音が聞こえる。
既に屋敷内にはいないものと判断したのか、それとも、屋敷を取り囲んだのかは分からない。
周囲から完全に人の気配が消えたことを確認し、天井裏から男は飛び降りる。
そこは蝋燭の灯りが照らす部屋の中だった。
不意に背後から視線を感じ、男は前方に跳んだ後で素早く振り返る。
男は二間ほど先を見据えた。
誰の気配も感じなかったにも関わらず、そこには一人の女性がちょこんと座っていた。
「何者か?」
硬質な男性の声に対し、女性は顔を戸に近付けて応える。
「戻りました」
その瞬間、潜り戸が勢い良く開き、中から複数の帯剣した武士が飛び出してきた。
「摩阿様!!」
全員が跪いて頭を垂れる。
「よくぞご無事で!!」
「さあ、中へ、お早く」
出迎えた家臣は周囲を警戒しつつ、摩阿を屋敷の中へと引き入れた。
摩阿は前田 利家と正室であるまつとの間に生を受けた。
利家がまだ若輩の頃、同じ織田 信長の家臣であった柴田 勝家との縁を深めるために、勝家の家臣の元へと嫁いだ。しかし信長亡き後、勢力争いの末に起きた賤ヶ岳の戦いにおいて勝家は敗戦。戦死した勝家の後を追って夫が自刃したため、前田家へと戻されることになる。そして、14歳になった摩阿は、泰平の余を築くために天下人となった秀吉の元に嫁ぐことになった。
摩阿は用意されたお湯で身体を拭くと、着物を着替えて自室へと戻った。
本来であれば秀吉の側室である摩阿は聚楽第に住むべき存在であるが、部屋を与えられなかったため前田の屋敷に住んでいる。摩阿の役割は大名たちからの信頼が厚い利家と、天下人になったものの未だ不安定な秀吉を繋ぐ橋になることである。しかし、摩阿姫が病弱であること、まだ外見が幼いこともあり側室の中でも序列が低かった。
「ごめんなさい」
誰もいない部屋で、摩阿がぽつりと溢す。
ずっと、父と母、前田家に貢献できていないことを嘆いていた摩阿であったが、ここにきて攫われるという失態を犯してしまった。摩阿のせいではないのであるが、それでも、自責の念に押し潰されそうになっていた。
攫われたことが非公開であったため、摩阿を取り囲む環境が変わることはなかった。
夜のうちに両親が会いに来たものの、ただ無事に戻ったことを報告しただけであった。自責の念が強過ぎたため、摩阿は安堵の言葉を口にすることもせず、涙を流すこともできず、ただ、表情を打ち消して視線を落としていた。
その後、前田の屋敷は以前にも増して警備が厳重になった。隙を狙われたとはいえ、豊臣家の家臣筆頭である利家の娘であり、天下人秀吉の側室である摩阿を二度も攫われる訳にはいかないのだ。
―――――それから一月が過ぎた頃。
そう、長雨が続いている夜。激しい雨音と暗闇の中でそれは起きた。
「この警戒の中では、都一番の盗賊と呼ばれた石川五右衛門でさえ、米一粒でさえ盗み出すことは不可能だろう」と家臣たちが笑い話として語り合っていたその時、突然、屋敷内に叫び声と甲高い笛の音が鳴り響いた。それは、本当に偶然だった。たまたま一文銭が床に落ちなければ、前田家の家臣団はその男に気付くことはなかっただろう。銭を拾って立ち上がる際に、たまたま天井が目に入ったことにより、そこに張り付いている男を見付けたのだ。
その男は即座に廊下に降りると、背後に回りこんで首筋に手刀を落とす。そのまま外に飛び出そうとした瞬間、奥から歩いて来た他の家臣に再び見付かってしまった。今度は間に合わず、叫び声と笛、鳴子が響く中を逃げ回ることになってしまった。
天井裏に飛び移り、くもの巣を払いながら突き進む。
足音、呼吸音にまで聞き漏らさないように移動し、暗闇の中で息を殺す。
存在を消して機会を窺う。
さすがに、たった一人で天下最強と謳われる前田の家臣団を、真正面から打ち破ることなどできるはずがない。
屋敷の内部から外へと声が移動する。
豪雨の中、外を駆け回る足音が聞こえる。
既に屋敷内にはいないものと判断したのか、それとも、屋敷を取り囲んだのかは分からない。
周囲から完全に人の気配が消えたことを確認し、天井裏から男は飛び降りる。
そこは蝋燭の灯りが照らす部屋の中だった。
不意に背後から視線を感じ、男は前方に跳んだ後で素早く振り返る。
男は二間ほど先を見据えた。
誰の気配も感じなかったにも関わらず、そこには一人の女性がちょこんと座っていた。



