「ふざけないで!!」
「び、っくりしたぁ……」
珍しく定時上がりの今日。まだ空が明るい。太陽が完全に沈んでいないだけで、こんなにも気分が違うものなのかと感心する。こんな日は滅多に無いしたまには通らない道から帰るのもいいかもしれない。なんて…そんな軽い気持ちで選択したのが、運の尽きだった。
「へ〜こんな道あったんだ」
人通りの多い大通りから外れ、少し入り組んだ道に足を踏み入れる。さっきまでの喧騒が嘘みたいに、周囲は一気に静かになった。
案外こちらの方が家まで近いのかもしれない。新たな発見に少し嬉しくなっていれば先程の怒号だ。
「カップルの喧嘩か…?」
数メートル先で、男女が言い争っていた。正確に言えば、女性のほうが一方的にヒステリックな声を上げている。それに対して男の方は…
「うわぁ……」
思わず声が漏れ出る。少し茶髪の高身長でどう見てもモテるであろう整った顔立ち。女性の怒鳴り声にも顔色一つ変えずどちらかと言えばめんどくさい…といった表情。きっと今までもこういったことが数え切れないくらいあったんだろう。修羅場慣れしているタイプだ。
「道変えるしかないか…」
ずっと見てる訳にもいかないし、かといって横を通るのも気まづい。残念だけどここは引き返すか…そう思って踵を返そうとしたその瞬間、男とバッチリ目が合う。
「やばっ……」
最悪だ。完全に目が合ってしまった。自分がずっと見ていたのだから自業自得なのだが問題はそこじゃない。目の前の男がズンズンと物凄い勢いでこちらに向かってくる。
「は、え!?ちょっ、待っ…!」
なんだ!?なんなんだ!?後ろを向くもそこには誰もいない。つまり目的地は俺一択。ずっとここにいたから怒ったのか?いやいや、そんなの理不尽すぎるだろ!俺はただここを通りたかっただけで!ああああぁクソ!暴力だけは反対だ!!
心の中で意味不明な悲鳴を上げている間に、距離は一気に縮まる。もう逃げ場はない。
終わった……そう覚悟した瞬間。
パシっと腕を掴まれる。
「あー俺、この人と付き合ってるから」
「は?」
「へ?」
女性の声と自分のマヌケな声が重なる。ツキアッテル?何を?誰と誰が……?
「適当な事言わないでよ!じゃあこの人とキス出来るの!?」
「出来るけど?」
「おい、何言っ……!?」
掴まれた腕をグッと引かれれば唇に当たるフニッとした柔らかい感触。
あれ?俺、今……キス、してる……?
「はい、した。そういう訳だから別れて」
「信じらんない!!このクズ!!!」
名前も知らない女性に鋭く睨まれ、暴言を吐き捨てられたあと、彼女はそのまま立ち去っていった。
「な、ん……」
驚きで声も出ない。
「あっと、ごめんね〜?」
軽い調子の声に視線を戻す。
「あいつ執拗くてさ〜。たまたまここにいたお兄さん巻き込んじゃった。お兄さん可愛かったからついキスしちゃったけどもしかしてファーストキスだった?って、流石にそれは無いよね」
悪びれた様子は皆無。
「そうだ。俺、このすぐ近くのカフェでバイトしてるから良かったら今度来てよ!サニーカフェってとこ!今日のお詫びに奢るからさ!ちなみにモーニングがオオスメ!」
一息でそこまで言うと、男はひらっと手を振る。
「じゃ、俺もう行くね〜」
嵐のように去っていく背中を、俺はただ呆然と見送るしかなかった。
「は……はぁぁああ!!??」
そして、ポツンと取り残された俺は周りを気にすることなく一人大声で叫び散らかした。
「なんっっっなんだよあいつは!!」
家に帰りお気に入りのクッションを力いっぱい投げつけドカッとソファに座り込む。少し奮発して買ったクッションだけど、今はどうでもいい。
とにかく頭の中は、あの男のことでいっぱいだった。決して好きになったからじゃない。断じて違う。ただ、怒りで占領されているだけだ。
「普通近くにいたからって見ず知らずの男にキスするか!?貞操観念無さすぎだろ!」
叫びすぎて息が上がる。落ち着け。一旦深呼吸だ…………………よし。
「とりあえずご飯だ」
ソファから立ち上がり冷蔵庫を開けるが、予想通り中身はほぼ空。自炊なんて長らくしていない。
「はぁ……」
しょうがない。あまり褒められたことではないが、俺は迷わずデリバリーアプリを開く。
「適当にハンバーガーにでもするか」
セットでポテトとドリンクも付けて注文完了。届くまでの間、もう一度冷静に先程のことを思い返す。
「ってか、こんなとこで一人で悩んでないでさっさと警察に行けばいい話だよな?」
そうだ。簡単な話じゃないか。よし、そうと決まれば……
「って言っても証拠も無いし…男が男にキスされましたぁなんて信じて貰えるのか?」
正直自信は無かった。きっと鼻で笑われるのが落ちだ。
それに……足が動かないのはそれだけが理由じゃない。
あいつがムカつくくらいイケメンだったから。実はそこまで嫌じゃなかったから。俺の恋愛対象が……
「あーーもーー」
ぐるぐるぐるぐる。脳内を色んな理由で埋めつくして考えていればピンポーン、とチャイムが鳴る。その音に現実に引き戻され、慌ててデリバリーした物を受け取る。
「……うまっ」
ポテトは若干冷めてるけどそれでも美味いのに変わりはない。ハンバーガーにもかぶりつきながらふと、あいつの言葉が頭をよぎった。
『モーニングおすすめ』
「モーニングか…」
朝ごはんなんて、食べない日のほうが圧倒的に多い。だけど、なぜかその言葉が引っかかる。
サニーカフェ。ずっと前から名前だけは知っていた。美味しそうだな、とは思っていた場所だ。
「……出勤前の朝早い時間なら、いないよな」
独り言のように呟く。
「明日、こっそり行ってみるか」
気づけば、さっきまでの怒りはすっかり薄れていた。キスされたことも、警察だなんだも、どうでもいい。
俺の頭の中は、すでにモーニングのことでいっぱいだった。
「ほんとに来てしまった…」
翌朝。いつもより少し早めに家を出て、俺は太陽の看板が目印のサニーカフェの前に立っていた。調べたところ、ここは7時からモーニングをやっているとのことだったので出勤前にはちょうどいい時間帯だ。
「入るか…」
いつまでもドアの前で立ち尽くしているわけにもいかず、意を決してドアノブに手をかける。ゆっくりと引くと、カランコロン……と小さな音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、若い男性の店員。そのまま席へ案内され、メニュー表を手渡される。
「お決まりでしたらお伺いします」
「じゃあ……このモーニングセットで」
「かしこまりました。ドリンクはどうされますか?」
「アイスティーで。ミルクも下さい」
「かしこまりました」
ぺこりと頭を下げ去っていた店員の背を見送りふぅ…と小さく息を吐く。
改めて店内を見渡すと席数は十席ほど。こじんまりとしているが、落ち着いた雰囲気だ。朝が早いせいか、客は俺を含めて二組だけ。向こうも出勤前のような感じで店内は静かだった。
「おぉ、デザートも美味しそう……」
メニュー表をぱらぱらと捲ればケーキやプリン、焼き菓子まで揃っていて甘党の俺にはなかなか危険なラインナップだ。
――と、その時。
「お待たせいたしました。こちらモーニングの……って、昨日のお兄さん!」
「へ?あ、お前……!」
顔を上げた瞬間、視界に入ったのは昨日の男だった。まさかこんな朝早い時間帯にいるなんて完全に想定外だ。
「来てくれたんだね!嬉しい〜!」
「…………」
「モーニング、頼んでくれたんだ〜!ありがとね!ほら、食べて食べて!俺の奢りだから!」
どうやら本気で奢ってくれるらしい。
「……ほんとにいいのか?」
「当たり前!昨日のお詫びだから!」
「……じゃ、遠慮なく」
プレートの上のサンドウィッチを一つ掴みパクリと口に運ぶ。
「っ!美味い……」
「でしょ!?良かった〜」
ハムと卵とレタスというシンプルな組み合わせだが、妙に完成度が高い。
もう一つは生クリームとフルーツがたっぷりと挟まったサンドウィッチ。こちらは先程のサンドウィッチとは違い、じゅわっと口いっぱいに甘みが広がって思わず口角が上がる。
「ん、これも美味いな」
「そんな美味しそうに食べてくれるなんて作りがいがあるな〜」
「え、これお前が作ったのか?」
「そ!俺が考案して俺が作った!」
「へ〜お前、意外と凄いんだな」
「ちょっとー!意外って失礼だなぁー!」
「悪かったって」
気づけば、俺は普通にこいつと会話していた。昨日の一件が無ければ、ただの感じのいい男だ。……いや、絆されるの早すぎだろ、俺。
「てか、お前…店員なのに座っていいのか?」
「大丈夫大丈夫!今お客さん少ないしお兄さんともっと喋りたいからさ」
「ふーん……」
「あ、そういえばまだ名前言ってなかったよね?俺、清水蓮。年は二十一の大学四回生。ここからすぐ近くの大学に通ってる!」
「……にじゅ、」
若いだろうとは思ったが、まさか二十一とは……しかもこの付近ってことはそこそこレベルが高い大学だったはず…
「お前、頭良いんだな」
「えー別に普通だよ?お兄さんは?」
「……佐久間柚希。二十六。普通の会社員だよ」
「えー!全然見えない!佐久間さんね!覚えた!」
「よく童顔だって言われる。柚希でいいよ」
「じゃあ柚希さんね!俺も蓮でいいよ!」
「蓮くん」
「蓮!」
「……蓮」
「うんうん!」
よく分からんが、変に懐かれたような気がする。こんなおじさんと話してて楽しいんだろうか。
「大学生なら学校行かなくていいのか?」
「大丈夫!今日は昼からだから!」
「あぁ、なるほど…」
羨ましい。自分もそんな時があったな〜って、思い出に浸ってる場合じゃない。時計を見るとそろそろ出ないとまずい時間だ。「俺、そろそろ行く。ご馳走さま。美味かった」
「あ、待って! 連絡先交換しよう!」
「……は?」
「もっと柚希さんと話したい!」
「いや……別にいいけどさ。俺なんかと話して楽しいか? 昨日のことなら、もう気にしてないし」
「ううん。確かに昨日のことも申し訳無かったけど、それだけじゃなくてさ。もっと柚希さんのこと知りたいって思ったんだよ。だめ……?」
いつもの自信満々な顔はどこいったんだって感じの連の不安そうな表情に俺は思わず笑ってしまう。
「え、ぇえ〜?なんで笑ってるの〜?」
「ははっ、ごめんごめん。そんな顔もするんだなぁと思って」
「も〜。でも、今の笑顔ちょー好き」
「なっ……お、まえなぁ…そういうのは俺じゃなくて女の子に言いなさい」
「いてっ、ほんとなのになぁ」
「はいはい。ほら、俺のID。無くすなよ」
軽くチョップをお見舞いしてやり紙に書いた自分のIDを差し出す。
「ありがと!登録したらすぐメッセージ送るから!」
「分かったよ。じゃあな。学校、頑張れよ」
「もちろん! また来て! この時間帯か夕方に入ってること多いから!」
「りょーかい」
「蓮ーー!ちょい手伝え〜」
「ほら、呼ばれてるぞ。はよ行け」
「悪い!すぐ行く!またね!」
厨房へ戻っていく蓮の背中を見送り、店を出る。外に出ると、春の柔らかい日差しが降り注いだ。チラっと店の中を見ればブンブンとこちらに手を振っているのが見えた。
「ったく…子どもか」
一応こちらも軽く手を挙げてやる。
「どうせあいつが飽きるまでの間だ」
あれだけムカついていたはずなのに。楽しかった、なんて思ってしまった自分に呆れながら――
俺は会社へ向かう足を速めた。
その日以降、蓮から毎日どうでもいいようなメッセージや写真が届くようになった。
『今日は学食で唐揚げ定食食べた!でも俺が作ったやつの方が美味い』
「知らんがな」
仕事終わりの電車に揺られながら思わず小さく呟き、既読をつける。返事をするほどの内容でもない気がして、そのまま画面を閉じた。
家に着いて着替えてシャワーを浴びて。ベッドに腰を下ろしてもう一度携帯を見ると、また通知。
『購買で買ったパンのクリームが少なくて泣いた』
「ふっ…」
ほんと、どうでもいい。なのに、少しだけ口角が上がっている自分に気づいて慌てて表情を戻す。
『それは災難だったな』
ポンっと一言だけ返信する。送信して、すぐ後悔した。別に返さなくても良かったか…と。
けれど数秒もしないうちに既読がつく。
『仕事お疲れ様ー!柚希さんなら分かってくれると思った!』
お疲れ様…その言葉に少し癒されつつ、その日はそれで終わった。
翌日。
昼休憩中、また通知が鳴る。
『今日、通学路に猫いた。触ろうとしたら逃げられた…』
『それは嫌われたな』
『ひどい!でも否定出来ない!』
危うく笑いそうになり慌てて携帯を伏せた。
それからだった。毎日、何かしらのどうでもいい報告が届くようになったのは。
『モーニングの仕込み多すぎて腕死んだ…』
『今日のコーヒー上手く出来た!』
『今講義中〜次の授業サボるか迷い中〜』
『お疲れさん』
『凄いじゃん』
『こら、ちゃんと受けろよ』
最初は、気が向いたときだけ返していた。
短い一言。
それだけ。
それなのに――
仕事が終わってスマホを見ると、通知が来ていない日は少しだけ落ち着かない。
「……来てない」
独り言みたいに呟いてから、はっとする。何を期待してるんだ、俺は。
こうしていつの間にか、休憩時間や仕事終わりに返事をするのが当たり前になっていた。
残業で遅くなった日も、疲れて何もしたくない日も、携帯を開けばそこに蓮のメッセージが並んでいる。
『今日プリンが上手く作れたんだよ。甘いもの好きだったよね?今度食べに来て欲しい』
その文を見て少し胸がざわつく。
『覚えてたのか』
『当たり前!忘れるわけないじゃん。柚希さんのことは何でも覚えてるよ』
「当たり前、か……」
その言葉について深く考えるのが怖くなり、俺は画面を閉じた。
気づけば、朝はサニーカフェに寄るのが当たり前になり、夜は蓮からのメッセージに返事をする。
そんな日常が、静かに定着していた。
それが楽しいなんて認めたくなかった。ただの暇つぶしだ。どうせ、あいつが飽きるまでの間。
――そう思っていたはずなのに。
『お疲れ様!ちゃんと帰ってる?無理しちゃダメだよ!』
『お疲れ。帰ってるよ。お前も夜更かしすんなよ』
『分かってるよー!また明日カフェで待ってるね。おやすみ」
ポンっと可愛らしいスタンプが送られてきてやり取りは終了。画面が暗くなり、はぁ…と大きく息を吐き出す。
いつからだろう。このやりとりが、欠かせないものになったのは。
「依存してんのはどっちだってんだ……」
自重気味に呟いて、考えるのをやめるように俺はベッドの中に潜り込んだ。
「どう?正直に言って欲しい」
「ん。相変わらず美味いよ。ガトーショコラが甘すぎないからホイップと合わせるとちょうどいい」
「ほんと!?良かったぁ…」
「そんな心配しなくても大丈夫だろ」
「ダメダメ!俺なんか、まだまだ練習しないと」
「真面目なんだか適当なんだか分かんない奴だな」
「俺はいつも真面目です〜」
「どの口が言ってんだ」
出勤前の朝。
いつも通りこのカフェに寄ってサンドウィッチを食べてから蓮が考えた試作を食べる。今回はガトーショコラだ。
お菓子作りが好きなのかこいつの作るものはいつも美味い。俺みたいな素人の感想をいつも真剣に聞いてる姿を見ると案外根は真面目なんじゃないかと思う。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「はーい。いつもありがとね」
「…別に。時間あるから」
「お、照れ隠し?」
「うっさい。もう来ねぇぞ」
「うそうそ!いつも感謝してます!」
「ったく…」
「へへ、行ってらっしゃい。今日も無理しすぎないように!」
「それ、昨日も聞いた」
「大事なことだから!」
お前は母親か。と突っ込みたい気持ちを抑え、笑って手を振る蓮に背を向け俺は仕事場へ向かった。
仕事の休憩時間、帰り道。俺はいつも通り蓮とメッセージのやり取りをする。
『今ちょっと落ち着いた!ちょー疲れた!』
『お疲れ。今日は忙しかったんだな』
『ラッシュがやばかった〜』
他愛もない内容なのに通知が来る度、少し喜んでいる自分がいる。
そして、この日は久しぶりに予定より早く仕事が終わった。
「そう言えば夕方には寄ったこと無かったな……」
帰り道、なんとなくカフェのことが頭をよぎった。時刻は十八時前。気づけば俺の足は自然とカフェの方へ向かっていた。
今日は忙しかったと言っていたし居たとしても俺には気づかないかもしれない。そもそもすでに退勤している可能性だってあるし……っていうかなんで俺はあいつに会うために来た感じになってんだ?いや、違う。俺は飯を食いに来ただけだ。別に変な事はしていない。
なんて誰に聞かれているわけでもないのに心の内で必死に言い訳をしながらチラリとガラス越しに中を覗けばカウンターの向こうに見慣れた姿があった。
――――あ。
ちょうど顔を上げた蓮と目が合う。
一瞬ぽかんとした後、すぐに表情を明るくして口を何やらパクパクと動かしている。
『一緒に帰ろ』
何故か断る理由も見つからず、俺は素直に小さく頷いた。
「ごめんお待たせ!」
「そんな待ってねぇよ。お疲れ」
「ありがと〜ってか凄いびっくりしたんだけど!どうしたの!?」
「あーいや……たまたま早く終わったからついでに飯でも食べようかなって…」
「え〜俺に会いに来てくれたのかと思ったのに〜」
「……調子乗るな。ってか、お前の家こっち方面なの?」
「そ。一人暮らししてるよ」
「なるほどな」
それなら確かに利便性はいいはずだ。
「そう言えば夜ご飯どうするの?自炊?」
「あー……いつも通りデリバリーかな」
「え、毎日そうなの?」
「まぁ仕事終わりだと作る気力無いし。料理苦手だから」
「ふーん…」
蓮は少し考えるように視線を落とし、それからこう言った。
「じゃあさ、俺が作ってあげようか」
「……は?」
「お菓子作りだけじゃなくて料理も得意だし!毎日デリバリーじゃ栄養が心配」
あまりにも自然な言い方で返す言葉に詰まる。
「い、いいよ。そんなん悪いし」
「いいの!俺がしてあげたいだけだから!あ、もしかして彼女とかいる感じ!?」
「…………彼女はいた事ないよ。今も誰とも付き合ってないし」
「…そうなんだ」
その時、彼がどんな表情をしていたか俺は知る由も無かった。
「それを言うならお前の方こそ付き合ってる子いるだろ。俺なんかに毎日構ってて良いのか」
「俺だって今は誰とも付き合ってないよ?」
「へ〜。あれか?毎日違う子と遊んでんのか?」
「もー!確かに前は遊んでたけど今は真面目にしてます〜!」
「それは意外だ。失礼失礼」
「適当だなぁ…とにかく前にも言ったけど今は柚希さんのことをもっと知りたいの。だから、ね?お願い」
その眼差しがあまりにも真っ直ぐで。結局俺の方が折れた。
「……分かったよ」
「やった!そう言えば家どこなの?」
「もう着くよ」
蓮の嬉しそうな横顔を見て胸の奥がざわついた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
人を家に上げるのはいつぶりだろうか。
「思ったよりシンプルだね」
「生活感なくて悪かったな」
「いや、柚希さんっぽい」
どういう意味だと聞き返す前に蓮はキッチンに立つ。冷蔵庫を開け、手際よく食材を取り出していき慣れた手つきで料理をする後ろ姿を眺めながら、俺は無意識に口を開いていた。
「懐かしいな……」
「え?」
俺の小さく漏れた言葉に蓮の動きが止まる。
「あ、いや……なんでも。昔の事、ちょっと思い出しただけ」
一瞬の沈黙。
それから、いつになく真剣な声色をした蓮が口を開く。
「それは、昔の恋人のこと?」
「あー、まぁ……そうだよ」
「それって彼氏?」
「な、んっ」
違う。どうしてそう思ったんだ。男のわけないだろ。……そう言えばそれで終わる話のはずだった。なのに、蓮の顔を見たら何故か誤魔化すことは出来ないと思った俺は長い長い沈黙の後に正直に答える。
「…………そう、だよ。気持ち悪いと思ったか」
蓮は静かに首を振る。
「そんな事ない。ただ俺にもチャンスあるなって」
「……は?」
「正直彼女はいた事ないって聞いた時、もしかしてって思ったんだよ。賭けだったけど」
「いや、ちょっと待て。お前何言って」
理解が追いつかない。男が好きだとバレた挙句チャンスがあると思った?それってつまり俺の勘違いじゃなければ……
その先を考える前に、キッチンタイマーが鳴った。
「出来たよ。先に食べよ」
蓮はそう言って皿を手に取りテーブルに運ぶ。俺も無言で椅子に座り、向かい合う形になった。
料理の湯気と美味そうな匂いが妙に現実感を与える。
「いただきます」
「…いただきます」
しばらくはカチャカチャと食器の音だけが響いた。味は…正直言って美味い。でも、今はそれどころじゃない。
そして、蓮が箸を置きゆっくりと口を開く。
「俺さ、柚希さんのこと好き」
「……いやいやいや!!」
思わず本気の否定が入る。
「冗談も程々にしろよ」
「本気だよ。冗談なんかじゃない」
静かだけど、迷いのない声。
「それは、勘違いだ」
「なんでそう思うの」
俺は即座に言い返す。
「男が好きって知ったからそう思っただけだろ。物珍しいだけだ」
「違う」
はっきり否定される。
「確かに俺たちの出会いはいいもんじゃなかったよ。俺のことチャラくてろくでもない奴って思われてもしょうがないよ」
少しだけ自嘲するように笑ってから、蓮は続けた。
「でもさ……」
そこから先、蓮は懐かしむように言葉を繋いだ。
初めてカフェに来た日のこと。ぶっきらぼうで、無愛想で、それなのに毎回必ず試作を食べてくれたこと。忙しいはずなのに、感想はいつも真面目で適当なことを言わなかったこと。
そこから毎朝、仕事前で余裕なんて無いはずなのにカフェに寄ってくれるようになったこと。毎日、当たり前みたいに続いたメッセージ。疲れているはずなのに必ず返ってくる「お疲れ」の一言。
「なによりさ」
一呼吸置いて、互いの視線が交わり合う。
「コロコロ変わる柚希さんの表情が可愛いなって」
「っ、」
「気づいたら頭の中、柚希さんでいっぱいだったよ。今何してるかな。今日もカフェ来るかな。試作また食べてくれるかなって」
それは告白というより、これまでの時間をなぞるみたいな口調だった。
「最初は、そんな自分に気づかないふりしてた。でも……」
真っ直ぐ、逃げ場のない目。
「これが好きって気持ちじゃなかったら何なんだよ」
言い切る声は、驚くほど落ち着いていた。
「そんな……急に言われても……困る」
蓮の気持ちを聞いて突っぱねることも受け入れることも、今の俺には出来なかった。
「別に今すぐどうこうなりたいってわけじゃないよ。ただ、俺の気持ちを知って欲しいって思っただけだから」
「蓮……」
「ただ」
そう言って俺の手をぎゅっと握りしめる。
「俺、諦めないから。本気で柚希さんのこと振り向かせてみせる」
「何言って……」
「俺の気持ち迷惑?気持ち悪い?それともまだ元彼に未練がある?」
「ちがっ…!」
「なら問題無いでしょ?」
「お前……」
「覚悟しといてよ」
軽い口調なのに、その奥に強い意志が滲んでいる。
「逃げてもいい。でも、俺は諦めない」
言葉が出ない。拒絶したいはずなのに握りしめられた手を振りほどけないのが現実だ。頭の中がごちゃついて上手く整理で出来ない。
「……俺の人生、どうなるんだよ」
思わず零れた本音に、蓮は少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「さあ?それは一緒に決めようよ」
冗談みたいな言い方なのに、否定しきれない。
「まずはお互いのこと、もっと知っていこうね」
――厄介だ。
本当に、厄介な男だ。
けれど同時に、これまで静かだった人生が大きく動き出してしまった気がして。
俺はただ、不安と予感の入り混じった感情を抱えたまま、黙って箸を強く握り直した。
「び、っくりしたぁ……」
珍しく定時上がりの今日。まだ空が明るい。太陽が完全に沈んでいないだけで、こんなにも気分が違うものなのかと感心する。こんな日は滅多に無いしたまには通らない道から帰るのもいいかもしれない。なんて…そんな軽い気持ちで選択したのが、運の尽きだった。
「へ〜こんな道あったんだ」
人通りの多い大通りから外れ、少し入り組んだ道に足を踏み入れる。さっきまでの喧騒が嘘みたいに、周囲は一気に静かになった。
案外こちらの方が家まで近いのかもしれない。新たな発見に少し嬉しくなっていれば先程の怒号だ。
「カップルの喧嘩か…?」
数メートル先で、男女が言い争っていた。正確に言えば、女性のほうが一方的にヒステリックな声を上げている。それに対して男の方は…
「うわぁ……」
思わず声が漏れ出る。少し茶髪の高身長でどう見てもモテるであろう整った顔立ち。女性の怒鳴り声にも顔色一つ変えずどちらかと言えばめんどくさい…といった表情。きっと今までもこういったことが数え切れないくらいあったんだろう。修羅場慣れしているタイプだ。
「道変えるしかないか…」
ずっと見てる訳にもいかないし、かといって横を通るのも気まづい。残念だけどここは引き返すか…そう思って踵を返そうとしたその瞬間、男とバッチリ目が合う。
「やばっ……」
最悪だ。完全に目が合ってしまった。自分がずっと見ていたのだから自業自得なのだが問題はそこじゃない。目の前の男がズンズンと物凄い勢いでこちらに向かってくる。
「は、え!?ちょっ、待っ…!」
なんだ!?なんなんだ!?後ろを向くもそこには誰もいない。つまり目的地は俺一択。ずっとここにいたから怒ったのか?いやいや、そんなの理不尽すぎるだろ!俺はただここを通りたかっただけで!ああああぁクソ!暴力だけは反対だ!!
心の中で意味不明な悲鳴を上げている間に、距離は一気に縮まる。もう逃げ場はない。
終わった……そう覚悟した瞬間。
パシっと腕を掴まれる。
「あー俺、この人と付き合ってるから」
「は?」
「へ?」
女性の声と自分のマヌケな声が重なる。ツキアッテル?何を?誰と誰が……?
「適当な事言わないでよ!じゃあこの人とキス出来るの!?」
「出来るけど?」
「おい、何言っ……!?」
掴まれた腕をグッと引かれれば唇に当たるフニッとした柔らかい感触。
あれ?俺、今……キス、してる……?
「はい、した。そういう訳だから別れて」
「信じらんない!!このクズ!!!」
名前も知らない女性に鋭く睨まれ、暴言を吐き捨てられたあと、彼女はそのまま立ち去っていった。
「な、ん……」
驚きで声も出ない。
「あっと、ごめんね〜?」
軽い調子の声に視線を戻す。
「あいつ執拗くてさ〜。たまたまここにいたお兄さん巻き込んじゃった。お兄さん可愛かったからついキスしちゃったけどもしかしてファーストキスだった?って、流石にそれは無いよね」
悪びれた様子は皆無。
「そうだ。俺、このすぐ近くのカフェでバイトしてるから良かったら今度来てよ!サニーカフェってとこ!今日のお詫びに奢るからさ!ちなみにモーニングがオオスメ!」
一息でそこまで言うと、男はひらっと手を振る。
「じゃ、俺もう行くね〜」
嵐のように去っていく背中を、俺はただ呆然と見送るしかなかった。
「は……はぁぁああ!!??」
そして、ポツンと取り残された俺は周りを気にすることなく一人大声で叫び散らかした。
「なんっっっなんだよあいつは!!」
家に帰りお気に入りのクッションを力いっぱい投げつけドカッとソファに座り込む。少し奮発して買ったクッションだけど、今はどうでもいい。
とにかく頭の中は、あの男のことでいっぱいだった。決して好きになったからじゃない。断じて違う。ただ、怒りで占領されているだけだ。
「普通近くにいたからって見ず知らずの男にキスするか!?貞操観念無さすぎだろ!」
叫びすぎて息が上がる。落ち着け。一旦深呼吸だ…………………よし。
「とりあえずご飯だ」
ソファから立ち上がり冷蔵庫を開けるが、予想通り中身はほぼ空。自炊なんて長らくしていない。
「はぁ……」
しょうがない。あまり褒められたことではないが、俺は迷わずデリバリーアプリを開く。
「適当にハンバーガーにでもするか」
セットでポテトとドリンクも付けて注文完了。届くまでの間、もう一度冷静に先程のことを思い返す。
「ってか、こんなとこで一人で悩んでないでさっさと警察に行けばいい話だよな?」
そうだ。簡単な話じゃないか。よし、そうと決まれば……
「って言っても証拠も無いし…男が男にキスされましたぁなんて信じて貰えるのか?」
正直自信は無かった。きっと鼻で笑われるのが落ちだ。
それに……足が動かないのはそれだけが理由じゃない。
あいつがムカつくくらいイケメンだったから。実はそこまで嫌じゃなかったから。俺の恋愛対象が……
「あーーもーー」
ぐるぐるぐるぐる。脳内を色んな理由で埋めつくして考えていればピンポーン、とチャイムが鳴る。その音に現実に引き戻され、慌ててデリバリーした物を受け取る。
「……うまっ」
ポテトは若干冷めてるけどそれでも美味いのに変わりはない。ハンバーガーにもかぶりつきながらふと、あいつの言葉が頭をよぎった。
『モーニングおすすめ』
「モーニングか…」
朝ごはんなんて、食べない日のほうが圧倒的に多い。だけど、なぜかその言葉が引っかかる。
サニーカフェ。ずっと前から名前だけは知っていた。美味しそうだな、とは思っていた場所だ。
「……出勤前の朝早い時間なら、いないよな」
独り言のように呟く。
「明日、こっそり行ってみるか」
気づけば、さっきまでの怒りはすっかり薄れていた。キスされたことも、警察だなんだも、どうでもいい。
俺の頭の中は、すでにモーニングのことでいっぱいだった。
「ほんとに来てしまった…」
翌朝。いつもより少し早めに家を出て、俺は太陽の看板が目印のサニーカフェの前に立っていた。調べたところ、ここは7時からモーニングをやっているとのことだったので出勤前にはちょうどいい時間帯だ。
「入るか…」
いつまでもドアの前で立ち尽くしているわけにもいかず、意を決してドアノブに手をかける。ゆっくりと引くと、カランコロン……と小さな音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきたのは、若い男性の店員。そのまま席へ案内され、メニュー表を手渡される。
「お決まりでしたらお伺いします」
「じゃあ……このモーニングセットで」
「かしこまりました。ドリンクはどうされますか?」
「アイスティーで。ミルクも下さい」
「かしこまりました」
ぺこりと頭を下げ去っていた店員の背を見送りふぅ…と小さく息を吐く。
改めて店内を見渡すと席数は十席ほど。こじんまりとしているが、落ち着いた雰囲気だ。朝が早いせいか、客は俺を含めて二組だけ。向こうも出勤前のような感じで店内は静かだった。
「おぉ、デザートも美味しそう……」
メニュー表をぱらぱらと捲ればケーキやプリン、焼き菓子まで揃っていて甘党の俺にはなかなか危険なラインナップだ。
――と、その時。
「お待たせいたしました。こちらモーニングの……って、昨日のお兄さん!」
「へ?あ、お前……!」
顔を上げた瞬間、視界に入ったのは昨日の男だった。まさかこんな朝早い時間帯にいるなんて完全に想定外だ。
「来てくれたんだね!嬉しい〜!」
「…………」
「モーニング、頼んでくれたんだ〜!ありがとね!ほら、食べて食べて!俺の奢りだから!」
どうやら本気で奢ってくれるらしい。
「……ほんとにいいのか?」
「当たり前!昨日のお詫びだから!」
「……じゃ、遠慮なく」
プレートの上のサンドウィッチを一つ掴みパクリと口に運ぶ。
「っ!美味い……」
「でしょ!?良かった〜」
ハムと卵とレタスというシンプルな組み合わせだが、妙に完成度が高い。
もう一つは生クリームとフルーツがたっぷりと挟まったサンドウィッチ。こちらは先程のサンドウィッチとは違い、じゅわっと口いっぱいに甘みが広がって思わず口角が上がる。
「ん、これも美味いな」
「そんな美味しそうに食べてくれるなんて作りがいがあるな〜」
「え、これお前が作ったのか?」
「そ!俺が考案して俺が作った!」
「へ〜お前、意外と凄いんだな」
「ちょっとー!意外って失礼だなぁー!」
「悪かったって」
気づけば、俺は普通にこいつと会話していた。昨日の一件が無ければ、ただの感じのいい男だ。……いや、絆されるの早すぎだろ、俺。
「てか、お前…店員なのに座っていいのか?」
「大丈夫大丈夫!今お客さん少ないしお兄さんともっと喋りたいからさ」
「ふーん……」
「あ、そういえばまだ名前言ってなかったよね?俺、清水蓮。年は二十一の大学四回生。ここからすぐ近くの大学に通ってる!」
「……にじゅ、」
若いだろうとは思ったが、まさか二十一とは……しかもこの付近ってことはそこそこレベルが高い大学だったはず…
「お前、頭良いんだな」
「えー別に普通だよ?お兄さんは?」
「……佐久間柚希。二十六。普通の会社員だよ」
「えー!全然見えない!佐久間さんね!覚えた!」
「よく童顔だって言われる。柚希でいいよ」
「じゃあ柚希さんね!俺も蓮でいいよ!」
「蓮くん」
「蓮!」
「……蓮」
「うんうん!」
よく分からんが、変に懐かれたような気がする。こんなおじさんと話してて楽しいんだろうか。
「大学生なら学校行かなくていいのか?」
「大丈夫!今日は昼からだから!」
「あぁ、なるほど…」
羨ましい。自分もそんな時があったな〜って、思い出に浸ってる場合じゃない。時計を見るとそろそろ出ないとまずい時間だ。「俺、そろそろ行く。ご馳走さま。美味かった」
「あ、待って! 連絡先交換しよう!」
「……は?」
「もっと柚希さんと話したい!」
「いや……別にいいけどさ。俺なんかと話して楽しいか? 昨日のことなら、もう気にしてないし」
「ううん。確かに昨日のことも申し訳無かったけど、それだけじゃなくてさ。もっと柚希さんのこと知りたいって思ったんだよ。だめ……?」
いつもの自信満々な顔はどこいったんだって感じの連の不安そうな表情に俺は思わず笑ってしまう。
「え、ぇえ〜?なんで笑ってるの〜?」
「ははっ、ごめんごめん。そんな顔もするんだなぁと思って」
「も〜。でも、今の笑顔ちょー好き」
「なっ……お、まえなぁ…そういうのは俺じゃなくて女の子に言いなさい」
「いてっ、ほんとなのになぁ」
「はいはい。ほら、俺のID。無くすなよ」
軽くチョップをお見舞いしてやり紙に書いた自分のIDを差し出す。
「ありがと!登録したらすぐメッセージ送るから!」
「分かったよ。じゃあな。学校、頑張れよ」
「もちろん! また来て! この時間帯か夕方に入ってること多いから!」
「りょーかい」
「蓮ーー!ちょい手伝え〜」
「ほら、呼ばれてるぞ。はよ行け」
「悪い!すぐ行く!またね!」
厨房へ戻っていく蓮の背中を見送り、店を出る。外に出ると、春の柔らかい日差しが降り注いだ。チラっと店の中を見ればブンブンとこちらに手を振っているのが見えた。
「ったく…子どもか」
一応こちらも軽く手を挙げてやる。
「どうせあいつが飽きるまでの間だ」
あれだけムカついていたはずなのに。楽しかった、なんて思ってしまった自分に呆れながら――
俺は会社へ向かう足を速めた。
その日以降、蓮から毎日どうでもいいようなメッセージや写真が届くようになった。
『今日は学食で唐揚げ定食食べた!でも俺が作ったやつの方が美味い』
「知らんがな」
仕事終わりの電車に揺られながら思わず小さく呟き、既読をつける。返事をするほどの内容でもない気がして、そのまま画面を閉じた。
家に着いて着替えてシャワーを浴びて。ベッドに腰を下ろしてもう一度携帯を見ると、また通知。
『購買で買ったパンのクリームが少なくて泣いた』
「ふっ…」
ほんと、どうでもいい。なのに、少しだけ口角が上がっている自分に気づいて慌てて表情を戻す。
『それは災難だったな』
ポンっと一言だけ返信する。送信して、すぐ後悔した。別に返さなくても良かったか…と。
けれど数秒もしないうちに既読がつく。
『仕事お疲れ様ー!柚希さんなら分かってくれると思った!』
お疲れ様…その言葉に少し癒されつつ、その日はそれで終わった。
翌日。
昼休憩中、また通知が鳴る。
『今日、通学路に猫いた。触ろうとしたら逃げられた…』
『それは嫌われたな』
『ひどい!でも否定出来ない!』
危うく笑いそうになり慌てて携帯を伏せた。
それからだった。毎日、何かしらのどうでもいい報告が届くようになったのは。
『モーニングの仕込み多すぎて腕死んだ…』
『今日のコーヒー上手く出来た!』
『今講義中〜次の授業サボるか迷い中〜』
『お疲れさん』
『凄いじゃん』
『こら、ちゃんと受けろよ』
最初は、気が向いたときだけ返していた。
短い一言。
それだけ。
それなのに――
仕事が終わってスマホを見ると、通知が来ていない日は少しだけ落ち着かない。
「……来てない」
独り言みたいに呟いてから、はっとする。何を期待してるんだ、俺は。
こうしていつの間にか、休憩時間や仕事終わりに返事をするのが当たり前になっていた。
残業で遅くなった日も、疲れて何もしたくない日も、携帯を開けばそこに蓮のメッセージが並んでいる。
『今日プリンが上手く作れたんだよ。甘いもの好きだったよね?今度食べに来て欲しい』
その文を見て少し胸がざわつく。
『覚えてたのか』
『当たり前!忘れるわけないじゃん。柚希さんのことは何でも覚えてるよ』
「当たり前、か……」
その言葉について深く考えるのが怖くなり、俺は画面を閉じた。
気づけば、朝はサニーカフェに寄るのが当たり前になり、夜は蓮からのメッセージに返事をする。
そんな日常が、静かに定着していた。
それが楽しいなんて認めたくなかった。ただの暇つぶしだ。どうせ、あいつが飽きるまでの間。
――そう思っていたはずなのに。
『お疲れ様!ちゃんと帰ってる?無理しちゃダメだよ!』
『お疲れ。帰ってるよ。お前も夜更かしすんなよ』
『分かってるよー!また明日カフェで待ってるね。おやすみ」
ポンっと可愛らしいスタンプが送られてきてやり取りは終了。画面が暗くなり、はぁ…と大きく息を吐き出す。
いつからだろう。このやりとりが、欠かせないものになったのは。
「依存してんのはどっちだってんだ……」
自重気味に呟いて、考えるのをやめるように俺はベッドの中に潜り込んだ。
「どう?正直に言って欲しい」
「ん。相変わらず美味いよ。ガトーショコラが甘すぎないからホイップと合わせるとちょうどいい」
「ほんと!?良かったぁ…」
「そんな心配しなくても大丈夫だろ」
「ダメダメ!俺なんか、まだまだ練習しないと」
「真面目なんだか適当なんだか分かんない奴だな」
「俺はいつも真面目です〜」
「どの口が言ってんだ」
出勤前の朝。
いつも通りこのカフェに寄ってサンドウィッチを食べてから蓮が考えた試作を食べる。今回はガトーショコラだ。
お菓子作りが好きなのかこいつの作るものはいつも美味い。俺みたいな素人の感想をいつも真剣に聞いてる姿を見ると案外根は真面目なんじゃないかと思う。
「じゃ、そろそろ行くわ」
「はーい。いつもありがとね」
「…別に。時間あるから」
「お、照れ隠し?」
「うっさい。もう来ねぇぞ」
「うそうそ!いつも感謝してます!」
「ったく…」
「へへ、行ってらっしゃい。今日も無理しすぎないように!」
「それ、昨日も聞いた」
「大事なことだから!」
お前は母親か。と突っ込みたい気持ちを抑え、笑って手を振る蓮に背を向け俺は仕事場へ向かった。
仕事の休憩時間、帰り道。俺はいつも通り蓮とメッセージのやり取りをする。
『今ちょっと落ち着いた!ちょー疲れた!』
『お疲れ。今日は忙しかったんだな』
『ラッシュがやばかった〜』
他愛もない内容なのに通知が来る度、少し喜んでいる自分がいる。
そして、この日は久しぶりに予定より早く仕事が終わった。
「そう言えば夕方には寄ったこと無かったな……」
帰り道、なんとなくカフェのことが頭をよぎった。時刻は十八時前。気づけば俺の足は自然とカフェの方へ向かっていた。
今日は忙しかったと言っていたし居たとしても俺には気づかないかもしれない。そもそもすでに退勤している可能性だってあるし……っていうかなんで俺はあいつに会うために来た感じになってんだ?いや、違う。俺は飯を食いに来ただけだ。別に変な事はしていない。
なんて誰に聞かれているわけでもないのに心の内で必死に言い訳をしながらチラリとガラス越しに中を覗けばカウンターの向こうに見慣れた姿があった。
――――あ。
ちょうど顔を上げた蓮と目が合う。
一瞬ぽかんとした後、すぐに表情を明るくして口を何やらパクパクと動かしている。
『一緒に帰ろ』
何故か断る理由も見つからず、俺は素直に小さく頷いた。
「ごめんお待たせ!」
「そんな待ってねぇよ。お疲れ」
「ありがと〜ってか凄いびっくりしたんだけど!どうしたの!?」
「あーいや……たまたま早く終わったからついでに飯でも食べようかなって…」
「え〜俺に会いに来てくれたのかと思ったのに〜」
「……調子乗るな。ってか、お前の家こっち方面なの?」
「そ。一人暮らししてるよ」
「なるほどな」
それなら確かに利便性はいいはずだ。
「そう言えば夜ご飯どうするの?自炊?」
「あー……いつも通りデリバリーかな」
「え、毎日そうなの?」
「まぁ仕事終わりだと作る気力無いし。料理苦手だから」
「ふーん…」
蓮は少し考えるように視線を落とし、それからこう言った。
「じゃあさ、俺が作ってあげようか」
「……は?」
「お菓子作りだけじゃなくて料理も得意だし!毎日デリバリーじゃ栄養が心配」
あまりにも自然な言い方で返す言葉に詰まる。
「い、いいよ。そんなん悪いし」
「いいの!俺がしてあげたいだけだから!あ、もしかして彼女とかいる感じ!?」
「…………彼女はいた事ないよ。今も誰とも付き合ってないし」
「…そうなんだ」
その時、彼がどんな表情をしていたか俺は知る由も無かった。
「それを言うならお前の方こそ付き合ってる子いるだろ。俺なんかに毎日構ってて良いのか」
「俺だって今は誰とも付き合ってないよ?」
「へ〜。あれか?毎日違う子と遊んでんのか?」
「もー!確かに前は遊んでたけど今は真面目にしてます〜!」
「それは意外だ。失礼失礼」
「適当だなぁ…とにかく前にも言ったけど今は柚希さんのことをもっと知りたいの。だから、ね?お願い」
その眼差しがあまりにも真っ直ぐで。結局俺の方が折れた。
「……分かったよ」
「やった!そう言えば家どこなの?」
「もう着くよ」
蓮の嬉しそうな横顔を見て胸の奥がざわついた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
人を家に上げるのはいつぶりだろうか。
「思ったよりシンプルだね」
「生活感なくて悪かったな」
「いや、柚希さんっぽい」
どういう意味だと聞き返す前に蓮はキッチンに立つ。冷蔵庫を開け、手際よく食材を取り出していき慣れた手つきで料理をする後ろ姿を眺めながら、俺は無意識に口を開いていた。
「懐かしいな……」
「え?」
俺の小さく漏れた言葉に蓮の動きが止まる。
「あ、いや……なんでも。昔の事、ちょっと思い出しただけ」
一瞬の沈黙。
それから、いつになく真剣な声色をした蓮が口を開く。
「それは、昔の恋人のこと?」
「あー、まぁ……そうだよ」
「それって彼氏?」
「な、んっ」
違う。どうしてそう思ったんだ。男のわけないだろ。……そう言えばそれで終わる話のはずだった。なのに、蓮の顔を見たら何故か誤魔化すことは出来ないと思った俺は長い長い沈黙の後に正直に答える。
「…………そう、だよ。気持ち悪いと思ったか」
蓮は静かに首を振る。
「そんな事ない。ただ俺にもチャンスあるなって」
「……は?」
「正直彼女はいた事ないって聞いた時、もしかしてって思ったんだよ。賭けだったけど」
「いや、ちょっと待て。お前何言って」
理解が追いつかない。男が好きだとバレた挙句チャンスがあると思った?それってつまり俺の勘違いじゃなければ……
その先を考える前に、キッチンタイマーが鳴った。
「出来たよ。先に食べよ」
蓮はそう言って皿を手に取りテーブルに運ぶ。俺も無言で椅子に座り、向かい合う形になった。
料理の湯気と美味そうな匂いが妙に現実感を与える。
「いただきます」
「…いただきます」
しばらくはカチャカチャと食器の音だけが響いた。味は…正直言って美味い。でも、今はそれどころじゃない。
そして、蓮が箸を置きゆっくりと口を開く。
「俺さ、柚希さんのこと好き」
「……いやいやいや!!」
思わず本気の否定が入る。
「冗談も程々にしろよ」
「本気だよ。冗談なんかじゃない」
静かだけど、迷いのない声。
「それは、勘違いだ」
「なんでそう思うの」
俺は即座に言い返す。
「男が好きって知ったからそう思っただけだろ。物珍しいだけだ」
「違う」
はっきり否定される。
「確かに俺たちの出会いはいいもんじゃなかったよ。俺のことチャラくてろくでもない奴って思われてもしょうがないよ」
少しだけ自嘲するように笑ってから、蓮は続けた。
「でもさ……」
そこから先、蓮は懐かしむように言葉を繋いだ。
初めてカフェに来た日のこと。ぶっきらぼうで、無愛想で、それなのに毎回必ず試作を食べてくれたこと。忙しいはずなのに、感想はいつも真面目で適当なことを言わなかったこと。
そこから毎朝、仕事前で余裕なんて無いはずなのにカフェに寄ってくれるようになったこと。毎日、当たり前みたいに続いたメッセージ。疲れているはずなのに必ず返ってくる「お疲れ」の一言。
「なによりさ」
一呼吸置いて、互いの視線が交わり合う。
「コロコロ変わる柚希さんの表情が可愛いなって」
「っ、」
「気づいたら頭の中、柚希さんでいっぱいだったよ。今何してるかな。今日もカフェ来るかな。試作また食べてくれるかなって」
それは告白というより、これまでの時間をなぞるみたいな口調だった。
「最初は、そんな自分に気づかないふりしてた。でも……」
真っ直ぐ、逃げ場のない目。
「これが好きって気持ちじゃなかったら何なんだよ」
言い切る声は、驚くほど落ち着いていた。
「そんな……急に言われても……困る」
蓮の気持ちを聞いて突っぱねることも受け入れることも、今の俺には出来なかった。
「別に今すぐどうこうなりたいってわけじゃないよ。ただ、俺の気持ちを知って欲しいって思っただけだから」
「蓮……」
「ただ」
そう言って俺の手をぎゅっと握りしめる。
「俺、諦めないから。本気で柚希さんのこと振り向かせてみせる」
「何言って……」
「俺の気持ち迷惑?気持ち悪い?それともまだ元彼に未練がある?」
「ちがっ…!」
「なら問題無いでしょ?」
「お前……」
「覚悟しといてよ」
軽い口調なのに、その奥に強い意志が滲んでいる。
「逃げてもいい。でも、俺は諦めない」
言葉が出ない。拒絶したいはずなのに握りしめられた手を振りほどけないのが現実だ。頭の中がごちゃついて上手く整理で出来ない。
「……俺の人生、どうなるんだよ」
思わず零れた本音に、蓮は少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「さあ?それは一緒に決めようよ」
冗談みたいな言い方なのに、否定しきれない。
「まずはお互いのこと、もっと知っていこうね」
――厄介だ。
本当に、厄介な男だ。
けれど同時に、これまで静かだった人生が大きく動き出してしまった気がして。
俺はただ、不安と予感の入り混じった感情を抱えたまま、黙って箸を強く握り直した。
