黒蛇様と契りの贄姫

 花緒は大盃を両手で掬うように持ち上げる。緊張で手が震え、盃の御神酒がゆらゆらと水面を描いた。

(これを口にすれば、私は正式に桜河様の贄姫になれるのね)

 現世と縁を切る代わり、常世で大きな責任を背負う。自分がお役目をこなせるのか不安はある。けれども贄姫である自分にしかできないのだ。

(それから逃げるような不義理はしたくない)

 また、自分を現世から連れ出してくれた桜河に恩返しがしたかった。自分を必要としてくれる居場所を守りたかったのだ。

 決意と覚悟は決まった。震えの止まった手で、花緒は盃を傾ける。盃に付けた唇に冷たい液体がそっと触れた。仄かなお酒の香りが鼻腔をくすぐる。

 一連の動作を終えると、花緒は盃を厳かに卓に上に降ろした。それを確認した桜河は、今度は自分が盃に手を伸ばし、彼の薄い唇に清酒を触れさせた。

 桜河の仕草を見つめていた花緒は、桜河が御神酒を口に当てた途端、首もとに焼けるような痛みが走って顔をひそめた。

「うっ……!」

 首もとには贄の証である桜の痣があったはずだ。それが熱を持ったのだろう。とっさに首筋を手で押さえる花緒の目線の先で、桜河もまた胸もとを押さえていた。

「く……」

「桜河様!」

 初めて見る彼の苦悶の表情。花緒は自分の痛みも忘れて桜河の傍らに駆け寄る。

「桜河様、お身体は大丈夫ですか?」

「問題ない。他の者に妖力を分け与えるときは、それ相応の痛みを伴うものなのだ。己の体に負担が掛かるからなのだろう。妖力を持たない人間に分けたのは初めての経験だったが、妖魔に分けるよりも数段痛みが強かった」

 桜河が、どこかいたずらっぽくも見える顔で答える。初めて見せる彼の砕けた表情に花緒は目を奪われる。贄の契りを交わして、ほんの僅かだけれど、彼との距離が近づいた気がした。

 桜河が気遣うように、花緒に手を差し伸べる。

「おまえは大事ないか? 体のどこかに異変を感じたりはしないか?」

「は、はい。これといって特に違和感はございません。強いて言えば、体が軽くなったと申しますか、常世の空気に馴染んだ気がいたします」

 現世で暮らしてきた花緒にとって、常世の空気はどこか重く感じるところがあった。それは妖魔たちが放つ妖力が原因なのか、それとも東西南北の門を通して入って来る毒気が原因だったのかはわからない。それに対して耐性が付いた気がするのだ。

 これなら常世で毒気の浄化を担っていける――そう感じた。

 桜河は姿勢を正し、花緒に向き直る。

「俺の唯一無二の贄姫。おまえのことを大切にすると誓おう」

「はい……!」

 桜河に信頼の込められた目線を向けられ、花緒は頭を下げた。

 誰かに〝大切にする〟と告げられたのはいつが最後だったか定かでない。それが久しぶりの言葉ゆえか、それとも桜河の声ゆえかわからないが、胸が熱く高鳴った。

 こうして花緒は、正式に桜河の贄姫となった。