高校において重要なのは、受験に必要な五教科だけ。
それ以外の教科をやる意義は、御園千雅にはわからなかった。
特に芸術の選択科目は、どれも興味もなければ自分の将来に役立ちそうにもない。けれど必ずどれかを選んで受けることが、カリキュラムとして決まってしまっている。だから千雅は減点方式で音楽を選んでいた。美術は絵を描くのが嫌いで論外だし、ただ文字を書くだけで二コマ潰す書道は苦痛だと思ったから。
だが初回授業にして――既に千雅は音楽を選んだことを後悔していた。
「バリトン、もっと声出してください。バスは出し過ぎの人がいますね。周りに合わせて、バランスを取りながら歌うように。じゃあ、もう一度最初から」
音楽教師が指揮棒を振ると、全員が初めから合唱を始める。けれども綺麗なソプラノのハーモニーも、アルトの落ち着いた響きもない。聞こえてくるのは男子たちの野太い声だけだ。男子校なのだから、当たり前だが。
みんな受験の成績に関わらないからか、それとも興味がないからか、適当に声を出しては音を外している。そんな中、千雅もトップテノールのパートで、ただただ機械のように音符に合わせて声を出していた。音を外しはしなかったが、たとえ多少外れたとしても大した影響はないだろう。
今、音楽室には約三十人の生徒がいる。しかもプロの合唱団ではなく、やる気のない高校生たちだ。アマチュア以下が大人数で一つの曲を音程バラバラに歌っていれば、どれが誰の声なのかわかりやしない。もちろん他より大声を出したり歌っていなかったりすれば、さすがに気づかれてしまうが、個を捨てて周りに足並みを合わせていれば、さすがにわかりはしないだろう。
自分を消して、指揮者が作る流れに身を任せ、その人が示す方向に向かって行けば正解が与えられる。そういう振る舞いは得意だったが、同時にそこはかとない虚無感に襲われた。理由はよくわからないが苛立って、今すぐ終わってくれと願ってしまう。
「さっきよりはよくなりました。ですが今度は、トップの影が薄いです。間違っても構いません。お腹から声を出して」
自分が所属するパートの名が呼ばれる。けれど自分の名は呼ばれない。やっぱり個なんて重要ではないのだと、千雅は教師の姿を見ながらぼんやり思っていた。その横で自分を見上げる、輝くような瞳があったことには気づかずに。
だから――驚いたのだ。
「お前の声、めっちゃいいじゃん。なあ、一緒にアカペラやろうぜ!」
授業終わり、隣で歌っていたよく話したこともないクラスメイトに声を褒められ、太陽みたいな笑顔を向けられたときには。
***
高校生活が始まって十日が経ち、授業も安定してきた頃。帰りのショートホームルームでPTA入会のプリントと、入部届けが配られて、放課後の一年A組の教室は色めき立っていた。もちろん原因はPTAではなく入部届けである。
「お前、外部だったっけ。どこの部活に入るか決めた?」
「やっぱバスケかな。中学でやってたし」
「俺、テニスの練習行ってくるわ。外部で来たいヤツがいたら一緒に行こうぜ」
ここ、奏城学院中学高等学校は、中高一貫校の男子校で、中学からの内部進学組と、高校からの外部入学組がいる。内部進学組は既に入る部活を決めている生徒も多く、その部活に興味がある外部進学組を活動場所に引き連れていっていた。だから教室に残っているのは、ほとんどが外部入学組の生徒だった。
「御園はどうすんの? お前も外部だっただろ。サッカー部とか、一緒に見学行かね?」
千雅がプリントをファイルにはさんでスクールバッグに入れたところで、前の席のツンツン頭――前田洋平から話が振られる。彼も自分と同じく、外部進学組だった。
「やめとくよ。高校って勉強大変そうだから、部活やる余裕なさそうだし」
「えー、真面目だな。勉強って言ったって、大した事ないだろ。まだ受験まで二年もあるじゃねぇか」
「定期試験や模試だってたくさんあるだろ」
奏城は一応進学校だ。希望者のみではあるが、一年の頃から学校で定期的に模試が開催される。それを全て受けることになると考えると、部活をしている余裕があるかは怪しかった。それになにより、千雅にはやりたいことも興味があることも、なにもなかった。
「だから今のところ、部活に入るつもりはないんだ。ごめんけど、サッカー部には一人で行って」
「そうそう。千雅は俺と一緒にアカペラをやるんだから。他の部活なんて入らねーの」
突然横から洋平のものとは別の声が聞こえてきて、千雅はばっと隣を見る。
空いていた席には、いつの間にか天然パーマの男子が、にこにこと笑みを浮かべながら座っていた。
「天宮、またお前か……」
「や、千雅」
天パの顔に、千雅は思わず眉をひそめた。
天宮翔琉。内部進学組の一人で、身長はおおよそ百七十。茶髪の短髪で、学校指定のブレザーの下にパーカーを着るという自由な格好をしている。明るく活発な性格で、休憩時にはしょっちゅう他のクラスメイトと喋っている、クラスの中心的人物だ。自席で静かに教科書を読んでいるタイプの千雅とは真逆で、今まで絡みはほとんどなかった。
そんな彼から声をかけられたのは、先ほどの音楽の授業がきっかけだ。
「なんで名前呼びなんだよ」
千雅は眉間の皺を深めるが、翔琉は笑顔を崩さない。
「いいじゃん、クラスメイトなんだし。俺も翔琉って呼んでくれよ」
「呼ばない」
「ちぇー、つれないの。でもいいや。アカペラ一緒にやってくれれば」
「……さっきも言ったと思うけど、やらないから」
音楽の授業が終わった時、アカペラをやろうと誘われた。そのとき千雅は、きっぱり断ったのだ。そんなものはやらないと。
千雅の返答を聞いた翔琉は、不服そうに唇を尖らせた。
「そんな簡単に決めなくてもいいだろ」
「なんで俺にこだわるわけ」
「そりゃ、声がいいからだって。隣で聞いてたけど、あの高音をいい感じに出せるのはトップコーラスの素質がある。ちょうどチームに足りなくてさ。それに音も全く外してなかっただろ。お前の声は磨けば絶対光るって。俺が言うんだから間違いない」
どこからそんな自信が湧いてくるのだろう。自分はあの合唱で、普通に歌っていただけだ。自分を消して、みんなに合わせて、結果音を外さなかっただけ。取り立てて歌がうまいという自覚もないし、そう言われたことも今までない。
「俺じゃなくてもいいでしょ。他にトップテノールだった人から探せば」
「ダメなの。お前の声じゃないと。でなきゃ絶対、選手権じゃ勝てないし」
「なに、選手権って」
「高校生アオハルアカペラ選手権。高校生のアカペラ大会だよ。テレビとか動画配信で毎年やってるけど、知らねーの?」
「知らない。テレビも動画もあんま見ないし」
「へー。でもいいよ、これから知ってけば」
「…………」
話が通じない。こちらはやらないと言っているのに、どうやってもアカペラをやる方向に持って行かれてしまう。千雅はため息をつき、スクールバッグを手に取り席を立った。
「御園? いいのか」
洋平が千雅と翔琉を見比べておろおろしている。この妙なやりとりに巻き込んでしまったのは申し訳なかった。
「おいおいおい、ちょっと待てって!」
帰ろうとした千雅の腕を、翔琉が掴んだ。
「せめてやらない理由くらい、話してけよ」
「だって音楽なんてつまらないし。さっきの合唱なんて早く終わりたかった。どうせアカペラも同じようなものだろ」
「……だからやらないって?」
「そう。もう帰っていい?」
「いーや、ダメだ!」
翔琉は席を立ち、俺の行く手を阻むように仁王立ちになった。
「アカペラと合唱は違うし、合唱だって本当はあんなものじゃない。そもそも本気でやる音楽は、授業なんかと全然違う。つまらないなんて理由で断られてたまるか!」
「そう言われても」
つまらないものはつまらない。特に今日の合唱は本当に憂鬱だった。あんなものを毎日やっていれば、心が真っ白になってしまう。既にもう、十分白で塗り潰されているというのに。だが翔琉は、いまだに千雅を通してくれない。
「じゃあ、俺が教えてやるよ」
「なにを」
「音楽の楽しさを! 洋平、お前観客な!」
「はいっ!? お、俺!?」
いきなり翔琉に名指しされた洋平は、自分を指さし戸惑っている。だが、そんな様子の洋平には目もくれず、翔琉は千雅を見据えて静かに告げる。
「なにか歌ってみろよ」
「なんで」
「いいから。知ってる曲、なんでも適当に歌ってみろって」
これは歌わねば通してくれそうにない。千雅は周りを見渡す。教室にいるのは既に、千雅たち三人だけになっていた。これなら変な注目を浴びなくて済みそうだと、ほんの少しだけ安心しながら、千雅は最近テレビでよく聞くCMソングをなんとなく歌ってみる。
「あー、これ。この前アレンジしたやつじゃん」
翔琉はよくわからないことを呟いた後、息を吸い込み声を出す。
その瞬間――千雅は思わず歌を止めてしまった。
翔琉と洋平が不思議そうに見つめてくる。
「どうした?」
「い、いや。今なにか……」
翔琉は千雅の声に重ねて歌ってきた。いわゆるハモりというやつだろう。とにかく千雅と翔琉の声が重なった瞬間、体が――あるいは、周りの空気がうねるように形を変えた気がした。それから背中から何かが這い上がってくる感覚がして、思わず驚いて歌を止めてしまったのだ。こんな感覚、平たい音が続いていた音楽の授業の合唱では感じなかった。
「ほら、続き歌えって。お前が歌わなきゃ、曲にならねーだろ」
「あ、ああ……」
促されて、困惑しながらも続きを歌う。翔琉もそれに合わせて音を重ねてきた。自分が歌うメロディラインに、翔琉は時に高く、時に低くハーモニーを奏でていく。二つの声が絡み合い、一つに溶け合う。知っているはずなのに、初めて聞く曲のようだった。
体が震える。心が跳ねる。もっと声を出したいと思ってしまう。口元だって、いつの間にか緩んでいた。気づけば通しで最後まで、翔琉と二人で歌っていた。
「すっげぇじゃん二人とも! めっちゃ歌うまかった!」
洋平が興奮気味に手を叩いた。浅い息を吐きながら顔をあげると、翔琉がニッと笑った。
「楽しかっただろ」
楽しい。千雅にはよくわからなかった。けれどこの躍動するような心の動きを、「楽しい」と呼ぶのならそうなのだろう。彼の思い通りになるのは、癪だったが。
「明日、俺のチームの集まりがあるんだ。見学でもいいからお前も来いよ」
そこに行けばまた、今のような感覚が味わえるのだろうか。
そう思った千雅は、気づけば翔琉の提案に頷いてしまっていた。
図書館で勉強してから家に帰ると、時刻は十八時を回っていた。暗いリビングに電気をつけると、母親が予約していたらしき米の炊ける音が聞こえてきた。
千雅はリビングの机の横にスクールバッグを下ろすと、制服のまま冷蔵庫の扉を開ける。中には昨日の夕食の残りのカレーが入っていた。それを電子レンジにかけ、ご飯と一緒に皿によそう。カレーと一緒にリビングへ戻り、なんとなしにテレビをつけた。
テレビでは、バラエティ番組で半裸のお笑い芸人が下ネタを話していた。それに一人でくすくす笑いながら、カレーをスプーンで口に運ぶ。
千雅の家は、いわゆる母子家庭だ。幼い頃に父親が出て行って以降、母親と二人、3LKのファミリー向けのマンションで暮らしている。看護師の母親は仕事が忙しく、夜が遅いのはしょっちゅうで、千雅はほとんど毎日一人で夕食を食べている。そんな生活も昔からなので、寂しくもなんとも思わない。
不意に玄関でガチャリと鍵の開く音がした。
――母親が帰ってきた。
慌ててリモコンを手に取った千雅だが、チャンネルを変える前に母親が部屋へと入ってくる。
「ただいま――って、なぁに、それ。そんな番組見たら駄目じゃない」
母親はバラエティに出ている、半裸のお笑い芸人に目をしかめる。こういう「教育上に悪い番組」が、この人は大がつくほど嫌いだった。
「今つけただけ。ちょうど変えようとしたとこ」
適当な嘘をついて民放に変えると、ちょうどニュース番組をやっていた。話題は私立大学の学費について。年々高騰していると報じられたのを聞いて、母親は眉間に皺を寄せた。
「いやねえ、私立は。千雅はしっかり勉強して、国公立の医学部に行くのよ」
「わかってる」
いつもの言葉を返した後に、千雅は脇に置いていたスクールバッグから、プリントを二枚取り出した。顔色をうかがいながら、母親の前にそれを差し出す。
「これ、今日もらったプリント」
「あら、PTAの会員のプリントね。サインしておくから、明日持って行ってちょうだい」
「……もう一枚あるけど」
「入部届け? こんなの渡されても困るわよ。千雅は勉強があるから部活は入らないでしょ?」
「…………」
母親は入部届けを当たり前のように千雅へと返してくる。
「それよりね、駅前に新しい塾ができてたの。けっこう有名な塾の系列で、医学部にもたくさん合格してるみたいだから、千雅にどうかなって」
「……いいよ。自分で勉強するから」
千雅は残ったカレーをかき込み、食器をキッチンの流しへと運ぶ。母親から突き返された入部届けと、スクールバッグを持って、リビング横の自室へ入った。
七畳ほどの部屋にバッグを投げ、入部届けを持ったまま、ベッドの上に身を投げる。ただ夕食を食べて母親と会話をしただけなのに、どっと疲れが溢れてきた。
千雅は今までの人生で、一度も医者になりたいなんて言ったことはない。国公立の医学部というのは、母親がそう決めているのだ。
「医者になれば将来は安定するから」
「好きなことをしてもいいけど、医学部を卒業してからにしなさいね」
それが幼い頃から、母親が千雅に言い聞かせてきた言葉だった。将来のため、お金のためとあの人は言うが、別れた父親が医者だったらしく、それが関係しているのかもしれない。
好きなことをしてもいいと言えば聞こえはいいが、医学部は入るために膨大な時間を勉強に費やさねばならない。おまけに入った後も、普通の学部が四年であることに比べて、医学部は六年分の人生を拘束される。その後なにをするにしても、きっと遅いのではないのだろうか。けれどそれを母親に言っても、どうせ通じない。
幼い頃から見るテレビを制限され、ゲームや漫画より小説に勉強と薦められてきた。テストでいい点を取らなければ、ひどく怒られた。そんな生活が嫌で中学時代には何度か抗ったこともある。けれどその度に、せっかく育てたのにとか、お金を出してあげているのにとか、そんな事を言われて泣かれていた。そのため千雅はすっかり疲れてしまい、いつの間にか抗うのをやめてしまったのだ。そうして気づけば、千雅は自分の望みも自分の色も――「自分」という全てがわからなくなっていた。
けれどそれも構わない。結局自分は、母親の人形なのだ。彼女の言うとおり、大人しく勉強して、大人しく大学に入って、大人しく医者になればいい。実際医者は給料もいいというし、将来が約束されるのは間違いないだろう。どうせいつかは社会の歯車の一つになるのだ。周りに歩調を合わせて普通にしていることを望まれるなら、自分なんて作っても仕方ないかもしれない。
だからこの選択で、きっと問題ないはずなのだ。
そう自分に言い聞かせながら、千雅は手元に握ったままの入部届けを横目に見る。その一番下には、保護者のサイン欄があった。部活に入るにはそれが必須だ。けれどもあの母親が、サインしてくれるとは思えない。
――見学でもいいからお前も来いよ。
翔琉の言葉を思い出し、千雅は軽く目を伏せる。
アカペラだって、きっと部活の一つだろう。千雅に入ることは、できそうにない。
「でも、約束したしな……」
せめて話だけは聞きに行こう。そして、そこで終わりにしよう。
千雅は入部届けを握りしめ、柔らかな枕へ顔を埋めた。
翌日の放課後、千雅は翔琉に連れられて一年C組にやって来た。既に四人の生徒が集まっている。真面目そうな黒髪眼鏡、背の低いおっとり系、金髪ピアスのチャラ男、穏やかそうな人見知り――千雅の知らない顔ばかりだった。この時点で仲よさげなところを見るに、恐らく全員、翔琉と同じ内部進学組だろう。
「よーっす。最後のメンバー見つけてきたぜ!」
翔琉が挨拶すると、四人はじっとりとした目で彼を見つめる。
「うわ、ほんとに連れてきた。しかも外部組じゃん。ちゃんと同意は取ってるわけ?」
「そーそー。カケくんは強引だからなー」
おっとり系の毒舌に続いて、金髪がため息をついた。黒髪眼鏡は心配そうな顔で千雅を見つめる。
「大丈夫か? 翔琉に付き合わされてるだけなら、無理しなくていいぞ」
人見知りもこくこくと、同意するように頷いている。
なんだか仲間のはずの翔琉の扱いがひどい。千雅を勧誘してきたときも、かなり強引に感じたが、もしかすると他のメンバーの時もそうだったのだろうか。
「まあ、来るのは一応自分で決めたから……」
「そうだそうだー! みんな、俺をなんだと思ってんだよ!」
千雅の言葉に続けて、翔琉が頬を膨らませた。そんな彼を、周りは呆れた目で見つめている。翔琉はその反応に肩をすくめた後、千雅の肩に手を置いた。
「ま、いいや。とりあえず紹介だな。こいつはA組の御園千雅。コーラス候補だ」
「……よろしくお願いします」
コーラスがなんなのかは不明だが、ひとまず合わせて礼をする。四人からぱちぱちと拍手が上がった。
続けて翔琉は黒髪眼鏡の横に移動する。
「で、こっちはD組の三浦涼。担当はコーラス」
「よろしく。翔琉に付き合ってくれてありがとな」
「その隣がB組の猫田渉。担当はコーラス」
「よろよろー。趣味は涼をいじることでーす」
おっとり系がひらひら手を振ると、黒髪眼鏡――涼が眉をひそめる。
その反応を気に留めず、翔琉はチャラ男の隣へ歩んでいった。
「こいつはC組の幸村伊月。担当はベース」
「どーもー。時々、練習場所の提供とかもやってまーす」
「で、最後は同じくC組の綾部瑠依。担当はボイパ」
「よ、よろしく……です」
人見知り――瑠依は小さく頭を下げると、伊月の後ろにそっと隠れる。
最後に翔琉は自分を指さした。
「で、俺は天宮翔琉。担当はリード。チームリーダー兼、曲のアレンジもやってる」
「わかった……けど、リードとかコーラスとかベースとか、ってなに」
恐らくアカペラ用語なのだろうが、音楽については楽譜が読める程度の知識しかない千雅にはよくわからない。しかし翔琉はあっけらかんとしている。
「合唱でいうパートと同じ。ま、歌えばわかるから大丈夫だって!」
「…………」
どうやら説明する気はないらしい。百聞は一見にしかずというが、さすがに適当すぎるのではないだろうか。顔をしかめる千雅をよそに、翔琉は他の四人に「練習始めるぞ」と合図をしている。
まあいい。どうせ今日は見学だけなのだ。千雅はアカペラチームになんて、入れないのだから。
だが側にあった椅子に腰掛けると、翔琉が不思議そうな目でこちらを見てきた。
「なにやってんだ。千雅も歌うんだって」
「は? 見学だけじゃないのか」
思わず言い返すと、翔琉はにっと白い歯を見せた。
「それじゃつまんねーだろ。合わなくてもいいから一緒にやろうぜ」
翔琉が腕を掴んでくるので、千雅は渋々立ち上がる。
「俺、歌詞とか歌い方とかなにも知らないんだけど」
「昨日お前が歌った歌。あれでやるから大丈夫だって。みんな、昨日配った音源聴いただろ?」
翔琉が他の四人を振り向くと、彼らはそれぞれ頷いた。渉が呆れ顔でため息をつく。
「聴いた聴いた。昨日アレンジしたのを今日歌うとか鬼畜だよねえ。まあ、いいけどさー」
「御園がくるから急遽、楽譜を調整するとか……相変わらずよくやるよ」
苦笑いする涼の言葉に千雅は目を見開いた。
「楽譜って……天宮が、書いてるの?」
「アレンジだけな。元の曲を、アカペラで歌えるように編曲してんの」
「すごいな……」
「はは、だろー? 俺は天才だからな!」
自分で言っては台無しだ。せっかく素直に感心したのに。千雅が内心ため息をつく横で、翔琉は言葉を続ける。
「ほんとは俺がリード……メロディー担当なんだけど、初心者がいきなりコーラスはキツいだろうし。今日はお前がリードやってみろよ。俺が代わりにコーラスやるから」
「うまく歌えないかもしれないけど、いいの?」
自分は歌が上手いわけじゃない。昨日歌った歌だって、得意というわけでもない。今まで練習してきたであろう四人とは、釣り合いが取れないかもしれないのに。
「大丈夫だって。下手でも合わなくてもいいから、とにかく楽しめば。それに俺たちも、お前の声を聞きたいし」
「俺の、声……?」
「そ。アカペラは声だけで作るものだからな。相手の声を知らなきゃ、なんにもはじまらねーんだ。だから……」
翔琉は一度言葉を切って、千雅をまっすぐ見つめてきた。
「教えてくれよ、千雅の声を」
「…………」
そんなことを言われたのは初めてだった。胸の奥がざわついて、何かが表に出てきそうになる。けれど嫌な感覚じゃない。むしろ、この欲求の正体を知りたいと、思ってしまった。
「……わかった、歌えばいいんだろ」
「よし、決まりだ!」
翔琉たちから簡単に発声練習を教えてもらい、声を出していく。心の動きは、少しずつ大きくなっていった。胸をどきどきさせながら、いよいよ曲へと移っていく。
「んじゃ、いくぞ。ワン、ツー、スリー!」
翔琉の声で、全員が自分のパートを一斉に歌い始める。
その瞬間、昨日の何十倍も、心が震えた。
千雅の主旋律に合わせ、翔琉が高音で、涼が中音で、渉が低音でコーラスの音を重ねていく。それらの下からを支えているのはベースの伊月だ。そして全てをまとめて引き締めるように、瑠依が声で楽器の音を――多分、ボイスパーカッションというやつだろう――を奏でていく。
本来は楽器ありきのJポップだ。けれど今、千雅たちは声だけで曲を作り上げている。それぞれの声が絡み合い、一つの音楽を構成している。一人一パートを担当する中では、誰かが欠ければこれは曲として成立しないだろう。
全てのパートが自分を持っていて、そして全てのパートが互いを引き立て合っている。そして自分も、自分自身の声でその曲の一部になっている。
初めて「自分」というものを、表に出せた気がした。
曲が終わると、千雅以外の五人は興奮気味に手を叩いた。
「やっぱめっちゃいーじゃん、千雅! お前がいれば選手権制覇も夢じゃないって!」
翔琉の言葉に、隣で涼も頷いている。
「ああ、荒削りだがいい声だった。なにより、高いのがすごくいい。もう俺が無理して高音出す必要がなくなる」
「これ、コーラスだけにするのはもったいないでしょ。カケくんと交代でリードとコーラス入れ替えながら歌うのがよさそーじゃん」
伊月の横で渉と瑠依も頷いている。どうやら千雅の声は、彼らに受け入れられたらしい。
「な、千雅も楽しかっただろ」
「そう……だな」
翔琉の言葉に千雅はうなずく。
昨日以上に、全身が高揚していた。喉に、耳に、体に、心に。音の余韻が残って消えない。
間違いなく――自分は歌うのを楽しんでいた。
「んじゃ、はいってくれるよな!?」
自分が認められるなんて、今までなかった経験だ。
きっとここでなら、「自分」というものを出せるはず。そんな場に自分も加わりたい。
けれど千雅は、頷くことができなかった。
「……入るなら、入部届けがいるだろ」
母親のサインが必要な入部届け。あれが必要な限り千雅に部活へ入る自由はない。
だが千雅は、きょとんとした顔をする。
「いや、いらねーぞ? このチームは俺が選手権のために作ったものだから、部活とはちげーよ」
入部届けが要らない。それなら、母親に許可を取らなくてもいいのではないか。母親が帰って来るのは毎日夜だ。多少練習して帰っても、きっとばれることはないだろう。
「なら……入るよ」
気づけばその言葉が口をついて出てきていた。翔琉の笑みがぱっと弾ける。
「よっしゃあ! よろしくな、千雅!」
「ああ――よろしく、翔琉」
そして千雅はアカペラチームの一人になった。
母親に――その事実を秘密にしたまま。
それ以外の教科をやる意義は、御園千雅にはわからなかった。
特に芸術の選択科目は、どれも興味もなければ自分の将来に役立ちそうにもない。けれど必ずどれかを選んで受けることが、カリキュラムとして決まってしまっている。だから千雅は減点方式で音楽を選んでいた。美術は絵を描くのが嫌いで論外だし、ただ文字を書くだけで二コマ潰す書道は苦痛だと思ったから。
だが初回授業にして――既に千雅は音楽を選んだことを後悔していた。
「バリトン、もっと声出してください。バスは出し過ぎの人がいますね。周りに合わせて、バランスを取りながら歌うように。じゃあ、もう一度最初から」
音楽教師が指揮棒を振ると、全員が初めから合唱を始める。けれども綺麗なソプラノのハーモニーも、アルトの落ち着いた響きもない。聞こえてくるのは男子たちの野太い声だけだ。男子校なのだから、当たり前だが。
みんな受験の成績に関わらないからか、それとも興味がないからか、適当に声を出しては音を外している。そんな中、千雅もトップテノールのパートで、ただただ機械のように音符に合わせて声を出していた。音を外しはしなかったが、たとえ多少外れたとしても大した影響はないだろう。
今、音楽室には約三十人の生徒がいる。しかもプロの合唱団ではなく、やる気のない高校生たちだ。アマチュア以下が大人数で一つの曲を音程バラバラに歌っていれば、どれが誰の声なのかわかりやしない。もちろん他より大声を出したり歌っていなかったりすれば、さすがに気づかれてしまうが、個を捨てて周りに足並みを合わせていれば、さすがにわかりはしないだろう。
自分を消して、指揮者が作る流れに身を任せ、その人が示す方向に向かって行けば正解が与えられる。そういう振る舞いは得意だったが、同時にそこはかとない虚無感に襲われた。理由はよくわからないが苛立って、今すぐ終わってくれと願ってしまう。
「さっきよりはよくなりました。ですが今度は、トップの影が薄いです。間違っても構いません。お腹から声を出して」
自分が所属するパートの名が呼ばれる。けれど自分の名は呼ばれない。やっぱり個なんて重要ではないのだと、千雅は教師の姿を見ながらぼんやり思っていた。その横で自分を見上げる、輝くような瞳があったことには気づかずに。
だから――驚いたのだ。
「お前の声、めっちゃいいじゃん。なあ、一緒にアカペラやろうぜ!」
授業終わり、隣で歌っていたよく話したこともないクラスメイトに声を褒められ、太陽みたいな笑顔を向けられたときには。
***
高校生活が始まって十日が経ち、授業も安定してきた頃。帰りのショートホームルームでPTA入会のプリントと、入部届けが配られて、放課後の一年A組の教室は色めき立っていた。もちろん原因はPTAではなく入部届けである。
「お前、外部だったっけ。どこの部活に入るか決めた?」
「やっぱバスケかな。中学でやってたし」
「俺、テニスの練習行ってくるわ。外部で来たいヤツがいたら一緒に行こうぜ」
ここ、奏城学院中学高等学校は、中高一貫校の男子校で、中学からの内部進学組と、高校からの外部入学組がいる。内部進学組は既に入る部活を決めている生徒も多く、その部活に興味がある外部進学組を活動場所に引き連れていっていた。だから教室に残っているのは、ほとんどが外部入学組の生徒だった。
「御園はどうすんの? お前も外部だっただろ。サッカー部とか、一緒に見学行かね?」
千雅がプリントをファイルにはさんでスクールバッグに入れたところで、前の席のツンツン頭――前田洋平から話が振られる。彼も自分と同じく、外部進学組だった。
「やめとくよ。高校って勉強大変そうだから、部活やる余裕なさそうだし」
「えー、真面目だな。勉強って言ったって、大した事ないだろ。まだ受験まで二年もあるじゃねぇか」
「定期試験や模試だってたくさんあるだろ」
奏城は一応進学校だ。希望者のみではあるが、一年の頃から学校で定期的に模試が開催される。それを全て受けることになると考えると、部活をしている余裕があるかは怪しかった。それになにより、千雅にはやりたいことも興味があることも、なにもなかった。
「だから今のところ、部活に入るつもりはないんだ。ごめんけど、サッカー部には一人で行って」
「そうそう。千雅は俺と一緒にアカペラをやるんだから。他の部活なんて入らねーの」
突然横から洋平のものとは別の声が聞こえてきて、千雅はばっと隣を見る。
空いていた席には、いつの間にか天然パーマの男子が、にこにこと笑みを浮かべながら座っていた。
「天宮、またお前か……」
「や、千雅」
天パの顔に、千雅は思わず眉をひそめた。
天宮翔琉。内部進学組の一人で、身長はおおよそ百七十。茶髪の短髪で、学校指定のブレザーの下にパーカーを着るという自由な格好をしている。明るく活発な性格で、休憩時にはしょっちゅう他のクラスメイトと喋っている、クラスの中心的人物だ。自席で静かに教科書を読んでいるタイプの千雅とは真逆で、今まで絡みはほとんどなかった。
そんな彼から声をかけられたのは、先ほどの音楽の授業がきっかけだ。
「なんで名前呼びなんだよ」
千雅は眉間の皺を深めるが、翔琉は笑顔を崩さない。
「いいじゃん、クラスメイトなんだし。俺も翔琉って呼んでくれよ」
「呼ばない」
「ちぇー、つれないの。でもいいや。アカペラ一緒にやってくれれば」
「……さっきも言ったと思うけど、やらないから」
音楽の授業が終わった時、アカペラをやろうと誘われた。そのとき千雅は、きっぱり断ったのだ。そんなものはやらないと。
千雅の返答を聞いた翔琉は、不服そうに唇を尖らせた。
「そんな簡単に決めなくてもいいだろ」
「なんで俺にこだわるわけ」
「そりゃ、声がいいからだって。隣で聞いてたけど、あの高音をいい感じに出せるのはトップコーラスの素質がある。ちょうどチームに足りなくてさ。それに音も全く外してなかっただろ。お前の声は磨けば絶対光るって。俺が言うんだから間違いない」
どこからそんな自信が湧いてくるのだろう。自分はあの合唱で、普通に歌っていただけだ。自分を消して、みんなに合わせて、結果音を外さなかっただけ。取り立てて歌がうまいという自覚もないし、そう言われたことも今までない。
「俺じゃなくてもいいでしょ。他にトップテノールだった人から探せば」
「ダメなの。お前の声じゃないと。でなきゃ絶対、選手権じゃ勝てないし」
「なに、選手権って」
「高校生アオハルアカペラ選手権。高校生のアカペラ大会だよ。テレビとか動画配信で毎年やってるけど、知らねーの?」
「知らない。テレビも動画もあんま見ないし」
「へー。でもいいよ、これから知ってけば」
「…………」
話が通じない。こちらはやらないと言っているのに、どうやってもアカペラをやる方向に持って行かれてしまう。千雅はため息をつき、スクールバッグを手に取り席を立った。
「御園? いいのか」
洋平が千雅と翔琉を見比べておろおろしている。この妙なやりとりに巻き込んでしまったのは申し訳なかった。
「おいおいおい、ちょっと待てって!」
帰ろうとした千雅の腕を、翔琉が掴んだ。
「せめてやらない理由くらい、話してけよ」
「だって音楽なんてつまらないし。さっきの合唱なんて早く終わりたかった。どうせアカペラも同じようなものだろ」
「……だからやらないって?」
「そう。もう帰っていい?」
「いーや、ダメだ!」
翔琉は席を立ち、俺の行く手を阻むように仁王立ちになった。
「アカペラと合唱は違うし、合唱だって本当はあんなものじゃない。そもそも本気でやる音楽は、授業なんかと全然違う。つまらないなんて理由で断られてたまるか!」
「そう言われても」
つまらないものはつまらない。特に今日の合唱は本当に憂鬱だった。あんなものを毎日やっていれば、心が真っ白になってしまう。既にもう、十分白で塗り潰されているというのに。だが翔琉は、いまだに千雅を通してくれない。
「じゃあ、俺が教えてやるよ」
「なにを」
「音楽の楽しさを! 洋平、お前観客な!」
「はいっ!? お、俺!?」
いきなり翔琉に名指しされた洋平は、自分を指さし戸惑っている。だが、そんな様子の洋平には目もくれず、翔琉は千雅を見据えて静かに告げる。
「なにか歌ってみろよ」
「なんで」
「いいから。知ってる曲、なんでも適当に歌ってみろって」
これは歌わねば通してくれそうにない。千雅は周りを見渡す。教室にいるのは既に、千雅たち三人だけになっていた。これなら変な注目を浴びなくて済みそうだと、ほんの少しだけ安心しながら、千雅は最近テレビでよく聞くCMソングをなんとなく歌ってみる。
「あー、これ。この前アレンジしたやつじゃん」
翔琉はよくわからないことを呟いた後、息を吸い込み声を出す。
その瞬間――千雅は思わず歌を止めてしまった。
翔琉と洋平が不思議そうに見つめてくる。
「どうした?」
「い、いや。今なにか……」
翔琉は千雅の声に重ねて歌ってきた。いわゆるハモりというやつだろう。とにかく千雅と翔琉の声が重なった瞬間、体が――あるいは、周りの空気がうねるように形を変えた気がした。それから背中から何かが這い上がってくる感覚がして、思わず驚いて歌を止めてしまったのだ。こんな感覚、平たい音が続いていた音楽の授業の合唱では感じなかった。
「ほら、続き歌えって。お前が歌わなきゃ、曲にならねーだろ」
「あ、ああ……」
促されて、困惑しながらも続きを歌う。翔琉もそれに合わせて音を重ねてきた。自分が歌うメロディラインに、翔琉は時に高く、時に低くハーモニーを奏でていく。二つの声が絡み合い、一つに溶け合う。知っているはずなのに、初めて聞く曲のようだった。
体が震える。心が跳ねる。もっと声を出したいと思ってしまう。口元だって、いつの間にか緩んでいた。気づけば通しで最後まで、翔琉と二人で歌っていた。
「すっげぇじゃん二人とも! めっちゃ歌うまかった!」
洋平が興奮気味に手を叩いた。浅い息を吐きながら顔をあげると、翔琉がニッと笑った。
「楽しかっただろ」
楽しい。千雅にはよくわからなかった。けれどこの躍動するような心の動きを、「楽しい」と呼ぶのならそうなのだろう。彼の思い通りになるのは、癪だったが。
「明日、俺のチームの集まりがあるんだ。見学でもいいからお前も来いよ」
そこに行けばまた、今のような感覚が味わえるのだろうか。
そう思った千雅は、気づけば翔琉の提案に頷いてしまっていた。
図書館で勉強してから家に帰ると、時刻は十八時を回っていた。暗いリビングに電気をつけると、母親が予約していたらしき米の炊ける音が聞こえてきた。
千雅はリビングの机の横にスクールバッグを下ろすと、制服のまま冷蔵庫の扉を開ける。中には昨日の夕食の残りのカレーが入っていた。それを電子レンジにかけ、ご飯と一緒に皿によそう。カレーと一緒にリビングへ戻り、なんとなしにテレビをつけた。
テレビでは、バラエティ番組で半裸のお笑い芸人が下ネタを話していた。それに一人でくすくす笑いながら、カレーをスプーンで口に運ぶ。
千雅の家は、いわゆる母子家庭だ。幼い頃に父親が出て行って以降、母親と二人、3LKのファミリー向けのマンションで暮らしている。看護師の母親は仕事が忙しく、夜が遅いのはしょっちゅうで、千雅はほとんど毎日一人で夕食を食べている。そんな生活も昔からなので、寂しくもなんとも思わない。
不意に玄関でガチャリと鍵の開く音がした。
――母親が帰ってきた。
慌ててリモコンを手に取った千雅だが、チャンネルを変える前に母親が部屋へと入ってくる。
「ただいま――って、なぁに、それ。そんな番組見たら駄目じゃない」
母親はバラエティに出ている、半裸のお笑い芸人に目をしかめる。こういう「教育上に悪い番組」が、この人は大がつくほど嫌いだった。
「今つけただけ。ちょうど変えようとしたとこ」
適当な嘘をついて民放に変えると、ちょうどニュース番組をやっていた。話題は私立大学の学費について。年々高騰していると報じられたのを聞いて、母親は眉間に皺を寄せた。
「いやねえ、私立は。千雅はしっかり勉強して、国公立の医学部に行くのよ」
「わかってる」
いつもの言葉を返した後に、千雅は脇に置いていたスクールバッグから、プリントを二枚取り出した。顔色をうかがいながら、母親の前にそれを差し出す。
「これ、今日もらったプリント」
「あら、PTAの会員のプリントね。サインしておくから、明日持って行ってちょうだい」
「……もう一枚あるけど」
「入部届け? こんなの渡されても困るわよ。千雅は勉強があるから部活は入らないでしょ?」
「…………」
母親は入部届けを当たり前のように千雅へと返してくる。
「それよりね、駅前に新しい塾ができてたの。けっこう有名な塾の系列で、医学部にもたくさん合格してるみたいだから、千雅にどうかなって」
「……いいよ。自分で勉強するから」
千雅は残ったカレーをかき込み、食器をキッチンの流しへと運ぶ。母親から突き返された入部届けと、スクールバッグを持って、リビング横の自室へ入った。
七畳ほどの部屋にバッグを投げ、入部届けを持ったまま、ベッドの上に身を投げる。ただ夕食を食べて母親と会話をしただけなのに、どっと疲れが溢れてきた。
千雅は今までの人生で、一度も医者になりたいなんて言ったことはない。国公立の医学部というのは、母親がそう決めているのだ。
「医者になれば将来は安定するから」
「好きなことをしてもいいけど、医学部を卒業してからにしなさいね」
それが幼い頃から、母親が千雅に言い聞かせてきた言葉だった。将来のため、お金のためとあの人は言うが、別れた父親が医者だったらしく、それが関係しているのかもしれない。
好きなことをしてもいいと言えば聞こえはいいが、医学部は入るために膨大な時間を勉強に費やさねばならない。おまけに入った後も、普通の学部が四年であることに比べて、医学部は六年分の人生を拘束される。その後なにをするにしても、きっと遅いのではないのだろうか。けれどそれを母親に言っても、どうせ通じない。
幼い頃から見るテレビを制限され、ゲームや漫画より小説に勉強と薦められてきた。テストでいい点を取らなければ、ひどく怒られた。そんな生活が嫌で中学時代には何度か抗ったこともある。けれどその度に、せっかく育てたのにとか、お金を出してあげているのにとか、そんな事を言われて泣かれていた。そのため千雅はすっかり疲れてしまい、いつの間にか抗うのをやめてしまったのだ。そうして気づけば、千雅は自分の望みも自分の色も――「自分」という全てがわからなくなっていた。
けれどそれも構わない。結局自分は、母親の人形なのだ。彼女の言うとおり、大人しく勉強して、大人しく大学に入って、大人しく医者になればいい。実際医者は給料もいいというし、将来が約束されるのは間違いないだろう。どうせいつかは社会の歯車の一つになるのだ。周りに歩調を合わせて普通にしていることを望まれるなら、自分なんて作っても仕方ないかもしれない。
だからこの選択で、きっと問題ないはずなのだ。
そう自分に言い聞かせながら、千雅は手元に握ったままの入部届けを横目に見る。その一番下には、保護者のサイン欄があった。部活に入るにはそれが必須だ。けれどもあの母親が、サインしてくれるとは思えない。
――見学でもいいからお前も来いよ。
翔琉の言葉を思い出し、千雅は軽く目を伏せる。
アカペラだって、きっと部活の一つだろう。千雅に入ることは、できそうにない。
「でも、約束したしな……」
せめて話だけは聞きに行こう。そして、そこで終わりにしよう。
千雅は入部届けを握りしめ、柔らかな枕へ顔を埋めた。
翌日の放課後、千雅は翔琉に連れられて一年C組にやって来た。既に四人の生徒が集まっている。真面目そうな黒髪眼鏡、背の低いおっとり系、金髪ピアスのチャラ男、穏やかそうな人見知り――千雅の知らない顔ばかりだった。この時点で仲よさげなところを見るに、恐らく全員、翔琉と同じ内部進学組だろう。
「よーっす。最後のメンバー見つけてきたぜ!」
翔琉が挨拶すると、四人はじっとりとした目で彼を見つめる。
「うわ、ほんとに連れてきた。しかも外部組じゃん。ちゃんと同意は取ってるわけ?」
「そーそー。カケくんは強引だからなー」
おっとり系の毒舌に続いて、金髪がため息をついた。黒髪眼鏡は心配そうな顔で千雅を見つめる。
「大丈夫か? 翔琉に付き合わされてるだけなら、無理しなくていいぞ」
人見知りもこくこくと、同意するように頷いている。
なんだか仲間のはずの翔琉の扱いがひどい。千雅を勧誘してきたときも、かなり強引に感じたが、もしかすると他のメンバーの時もそうだったのだろうか。
「まあ、来るのは一応自分で決めたから……」
「そうだそうだー! みんな、俺をなんだと思ってんだよ!」
千雅の言葉に続けて、翔琉が頬を膨らませた。そんな彼を、周りは呆れた目で見つめている。翔琉はその反応に肩をすくめた後、千雅の肩に手を置いた。
「ま、いいや。とりあえず紹介だな。こいつはA組の御園千雅。コーラス候補だ」
「……よろしくお願いします」
コーラスがなんなのかは不明だが、ひとまず合わせて礼をする。四人からぱちぱちと拍手が上がった。
続けて翔琉は黒髪眼鏡の横に移動する。
「で、こっちはD組の三浦涼。担当はコーラス」
「よろしく。翔琉に付き合ってくれてありがとな」
「その隣がB組の猫田渉。担当はコーラス」
「よろよろー。趣味は涼をいじることでーす」
おっとり系がひらひら手を振ると、黒髪眼鏡――涼が眉をひそめる。
その反応を気に留めず、翔琉はチャラ男の隣へ歩んでいった。
「こいつはC組の幸村伊月。担当はベース」
「どーもー。時々、練習場所の提供とかもやってまーす」
「で、最後は同じくC組の綾部瑠依。担当はボイパ」
「よ、よろしく……です」
人見知り――瑠依は小さく頭を下げると、伊月の後ろにそっと隠れる。
最後に翔琉は自分を指さした。
「で、俺は天宮翔琉。担当はリード。チームリーダー兼、曲のアレンジもやってる」
「わかった……けど、リードとかコーラスとかベースとか、ってなに」
恐らくアカペラ用語なのだろうが、音楽については楽譜が読める程度の知識しかない千雅にはよくわからない。しかし翔琉はあっけらかんとしている。
「合唱でいうパートと同じ。ま、歌えばわかるから大丈夫だって!」
「…………」
どうやら説明する気はないらしい。百聞は一見にしかずというが、さすがに適当すぎるのではないだろうか。顔をしかめる千雅をよそに、翔琉は他の四人に「練習始めるぞ」と合図をしている。
まあいい。どうせ今日は見学だけなのだ。千雅はアカペラチームになんて、入れないのだから。
だが側にあった椅子に腰掛けると、翔琉が不思議そうな目でこちらを見てきた。
「なにやってんだ。千雅も歌うんだって」
「は? 見学だけじゃないのか」
思わず言い返すと、翔琉はにっと白い歯を見せた。
「それじゃつまんねーだろ。合わなくてもいいから一緒にやろうぜ」
翔琉が腕を掴んでくるので、千雅は渋々立ち上がる。
「俺、歌詞とか歌い方とかなにも知らないんだけど」
「昨日お前が歌った歌。あれでやるから大丈夫だって。みんな、昨日配った音源聴いただろ?」
翔琉が他の四人を振り向くと、彼らはそれぞれ頷いた。渉が呆れ顔でため息をつく。
「聴いた聴いた。昨日アレンジしたのを今日歌うとか鬼畜だよねえ。まあ、いいけどさー」
「御園がくるから急遽、楽譜を調整するとか……相変わらずよくやるよ」
苦笑いする涼の言葉に千雅は目を見開いた。
「楽譜って……天宮が、書いてるの?」
「アレンジだけな。元の曲を、アカペラで歌えるように編曲してんの」
「すごいな……」
「はは、だろー? 俺は天才だからな!」
自分で言っては台無しだ。せっかく素直に感心したのに。千雅が内心ため息をつく横で、翔琉は言葉を続ける。
「ほんとは俺がリード……メロディー担当なんだけど、初心者がいきなりコーラスはキツいだろうし。今日はお前がリードやってみろよ。俺が代わりにコーラスやるから」
「うまく歌えないかもしれないけど、いいの?」
自分は歌が上手いわけじゃない。昨日歌った歌だって、得意というわけでもない。今まで練習してきたであろう四人とは、釣り合いが取れないかもしれないのに。
「大丈夫だって。下手でも合わなくてもいいから、とにかく楽しめば。それに俺たちも、お前の声を聞きたいし」
「俺の、声……?」
「そ。アカペラは声だけで作るものだからな。相手の声を知らなきゃ、なんにもはじまらねーんだ。だから……」
翔琉は一度言葉を切って、千雅をまっすぐ見つめてきた。
「教えてくれよ、千雅の声を」
「…………」
そんなことを言われたのは初めてだった。胸の奥がざわついて、何かが表に出てきそうになる。けれど嫌な感覚じゃない。むしろ、この欲求の正体を知りたいと、思ってしまった。
「……わかった、歌えばいいんだろ」
「よし、決まりだ!」
翔琉たちから簡単に発声練習を教えてもらい、声を出していく。心の動きは、少しずつ大きくなっていった。胸をどきどきさせながら、いよいよ曲へと移っていく。
「んじゃ、いくぞ。ワン、ツー、スリー!」
翔琉の声で、全員が自分のパートを一斉に歌い始める。
その瞬間、昨日の何十倍も、心が震えた。
千雅の主旋律に合わせ、翔琉が高音で、涼が中音で、渉が低音でコーラスの音を重ねていく。それらの下からを支えているのはベースの伊月だ。そして全てをまとめて引き締めるように、瑠依が声で楽器の音を――多分、ボイスパーカッションというやつだろう――を奏でていく。
本来は楽器ありきのJポップだ。けれど今、千雅たちは声だけで曲を作り上げている。それぞれの声が絡み合い、一つの音楽を構成している。一人一パートを担当する中では、誰かが欠ければこれは曲として成立しないだろう。
全てのパートが自分を持っていて、そして全てのパートが互いを引き立て合っている。そして自分も、自分自身の声でその曲の一部になっている。
初めて「自分」というものを、表に出せた気がした。
曲が終わると、千雅以外の五人は興奮気味に手を叩いた。
「やっぱめっちゃいーじゃん、千雅! お前がいれば選手権制覇も夢じゃないって!」
翔琉の言葉に、隣で涼も頷いている。
「ああ、荒削りだがいい声だった。なにより、高いのがすごくいい。もう俺が無理して高音出す必要がなくなる」
「これ、コーラスだけにするのはもったいないでしょ。カケくんと交代でリードとコーラス入れ替えながら歌うのがよさそーじゃん」
伊月の横で渉と瑠依も頷いている。どうやら千雅の声は、彼らに受け入れられたらしい。
「な、千雅も楽しかっただろ」
「そう……だな」
翔琉の言葉に千雅はうなずく。
昨日以上に、全身が高揚していた。喉に、耳に、体に、心に。音の余韻が残って消えない。
間違いなく――自分は歌うのを楽しんでいた。
「んじゃ、はいってくれるよな!?」
自分が認められるなんて、今までなかった経験だ。
きっとここでなら、「自分」というものを出せるはず。そんな場に自分も加わりたい。
けれど千雅は、頷くことができなかった。
「……入るなら、入部届けがいるだろ」
母親のサインが必要な入部届け。あれが必要な限り千雅に部活へ入る自由はない。
だが千雅は、きょとんとした顔をする。
「いや、いらねーぞ? このチームは俺が選手権のために作ったものだから、部活とはちげーよ」
入部届けが要らない。それなら、母親に許可を取らなくてもいいのではないか。母親が帰って来るのは毎日夜だ。多少練習して帰っても、きっとばれることはないだろう。
「なら……入るよ」
気づけばその言葉が口をついて出てきていた。翔琉の笑みがぱっと弾ける。
「よっしゃあ! よろしくな、千雅!」
「ああ――よろしく、翔琉」
そして千雅はアカペラチームの一人になった。
母親に――その事実を秘密にしたまま。


