新幹線の車窓には、見どころが多い。富士山の稜線、浜名湖の水面、季節ごとに色を変える茶畑。都市に入れば住宅地が連なり、工場の屋根や夜景が流れる。窓側の席に座れば、誰もが一度は外を見る。理由はいらない。ただ、速すぎないその速度が、自然に視線を外へ誘う。
同じ時間帯に同じ区間を通る者たちの間で、沿線に並ぶマンション群の中に、いつも同じ部屋があった。線路とほぼ同じ高さにある角部屋で、カーテンは半分だけ開き、窓際に女がいる。生気がない――そう言われ始めたのは、いつからだったか。朝でも見える。夜でも見える。晴れていても、曇っていても、そこにいる。
新幹線が減速する区間に差しかかると、窓側の席の乗客たちは、ほとんど無意識にその方向を見る。暇つぶしには、ちょうどいい速度だった。そして、視線は集まる。あの部屋へ。女は動かない。少なくとも、動いたようには見えない。立ち位置は、いつも同じだ。窓の中央より、ほんの少し左。体は正面を向いているようにも、こちらを向いているようにも見える。角度は曖昧で、判断できなかった。
誰かが、ぽつりと言った。
「……目が合った気がした」
それが、噂の始まりだった。
その場にいた何人かは、すぐに否定しようとした。速度の問題だろう、角度の錯覚だろう、と。だが、口に出す前に、新幹線は次の区間へ入ってしまう。今さら言っても、遅い気がした。
直接撮影された画像は出回らなかった。個人を特定する行為はネットハラスメントになる。だから、人々は文字だけで語った。自分は見ただけだ、たまたまだ、と言い訳するように。「あの部屋の女、知ってる?」「ずっと立ってる」「全然、動かない」「生きてる?」。ある時期から見えるようになった、という証言が重なり、誰もが一度は思った――本当は、何も見ていないのではないかと。しかし、その考えは、書き込まれることはなかった。
死体ではないのか。助けを求めているのではないのか。これは事件ではないのか。しかし、確かな犯罪の証拠は一つもなかった。異常は共有されているのに、事実はどこにもない。
観察者たちは、皆、新幹線の中にいた。高速で流れる景色の一部として、女を見た。長くて三秒、短ければ一瞬。「表情が怖かった」と言う人ほど、何が怖かったのか説明できなかった。服装の証言はだいたい同じで、部屋着のようだったという。年齢も定まらない。三十代、五十代、もっと上かもしれない。共通しているのは、「生気がない」という印象だけだった。
誰も、女が何をしているかを見ていない。立っていると思われているが、椅子に腰掛けているか、あるいは椅子に縛られている可能性もある。こちらを見ているように感じるのは、新幹線が進行方向に向かって走るからだ。視線が、追いつかれる錯覚。それでも、人は理由を欲しがった。理由のない不安には、耐えられない。
「毎日、同じ時間じゃない?」
「違う、朝も夜もいる」
「首吊り?」
その言葉が出た瞬間、誰が言ったのかは、はっきりしなかった。だが、否定もされなかった。新幹線のダイヤと女の姿を照らし合わせる者が現れ、減速する区間、視線が留まる速度、その瞬間、必ず見える女、という説明が補強されていく。「見られるタイミングを知ってるみたいで気味が悪い」「こっちを待ってる」。怖さは、説明よりも速かった。誰も断定していないのに、前提だけが共有されていく。語られ方が変わっていく。女は「立っている」から「立たされている」へ、「見ている」から「見せられている」へと、いつの間にか変質していた。
そして、通報が入った。
「マンションで、女性が監禁されているかもしれない」
警察は重大事案の可能性ありと判断した。数分後、周辺道路にパトカーが次々と入り、赤色灯が回り始めた。その音に反応するように、周囲の民家から犬の吠える声が上がり、あちこちで重なった。救急車も駆けつけ、赤色灯が昼間の外壁を断続的に染める。住民がベランダや廊下に顔を出し、ざわめきが広がった。
警察は管理人を呼び、問題の部屋を特定する。インターホンを押すが反応はない。再度押しても応答はなかった。ドア越しに声をかけ、耳を当てると、室内からクラシック音楽が流れていた。ドアを強く叩き、最悪の事態を想定して室内立ち入りの準備が進められる。
そのとき、人だかりの中に、買い物袋を提げた女性が現れた。
「……あの、何かありました?」
富田さんだった。
事情を聞かされても、富田さんは目を丸くするだけだった。
「そうなんですか?」
警察とともに部屋へ向かい、鍵は普通に開いた。部屋の中はごく普通で、整理整頓され、生活の気配がある。窓際には椅子が一脚、レースのカーテンだけが掛かっていた。監禁などなかった。富田さんは自然な動作で椅子に座り、窓の外を見た。その姿勢は、外から見られていた位置と、ほとんど変わらなかった。
「ここ、何十年も住んでますよ」
管理人も頷き、「富田さんは真面目で優しい方です。問題を起こしたこともありません」と補足した。富田さんは退職して一年がたち、時間ができてから窓から新幹線を眺めるのが日課になったという。空と線路と、通り過ぎる車両。歯を磨きながら、クラシックを流しながら、スピーカー越しに友人と電話をしながら。ただ、それだけだった。
警察は事件性なしと判断し、念のため防犯上の注意を伝えた。
「夜間は、カーテンを閉めるようにしてください」
「高層階ですし……」
富田さんは、少し困ったように笑って答えた。警察車両は順に引き上げ、犬の吠え声も、やがて途切れていった。
その後も、富田さんは窓辺に座った。以前と同じ位置で、何も気にせずに。新幹線は次の日も、その次の日も通過する。自分がどれほど多くの視線を集め、どれほど多くの物語を背負わされたかを、富田さんが思い至ることはない。
新幹線の中で、また誰かが思う。
「――今、こっちを見た」
だが、それは事件ではない。人間の視線が、意味を欲しがっただけだ。富田さんは今日も、ただ見ている。空と、新幹線を。そして、そこに残るのは、視線だけだった。
同じ時間帯に同じ区間を通る者たちの間で、沿線に並ぶマンション群の中に、いつも同じ部屋があった。線路とほぼ同じ高さにある角部屋で、カーテンは半分だけ開き、窓際に女がいる。生気がない――そう言われ始めたのは、いつからだったか。朝でも見える。夜でも見える。晴れていても、曇っていても、そこにいる。
新幹線が減速する区間に差しかかると、窓側の席の乗客たちは、ほとんど無意識にその方向を見る。暇つぶしには、ちょうどいい速度だった。そして、視線は集まる。あの部屋へ。女は動かない。少なくとも、動いたようには見えない。立ち位置は、いつも同じだ。窓の中央より、ほんの少し左。体は正面を向いているようにも、こちらを向いているようにも見える。角度は曖昧で、判断できなかった。
誰かが、ぽつりと言った。
「……目が合った気がした」
それが、噂の始まりだった。
その場にいた何人かは、すぐに否定しようとした。速度の問題だろう、角度の錯覚だろう、と。だが、口に出す前に、新幹線は次の区間へ入ってしまう。今さら言っても、遅い気がした。
直接撮影された画像は出回らなかった。個人を特定する行為はネットハラスメントになる。だから、人々は文字だけで語った。自分は見ただけだ、たまたまだ、と言い訳するように。「あの部屋の女、知ってる?」「ずっと立ってる」「全然、動かない」「生きてる?」。ある時期から見えるようになった、という証言が重なり、誰もが一度は思った――本当は、何も見ていないのではないかと。しかし、その考えは、書き込まれることはなかった。
死体ではないのか。助けを求めているのではないのか。これは事件ではないのか。しかし、確かな犯罪の証拠は一つもなかった。異常は共有されているのに、事実はどこにもない。
観察者たちは、皆、新幹線の中にいた。高速で流れる景色の一部として、女を見た。長くて三秒、短ければ一瞬。「表情が怖かった」と言う人ほど、何が怖かったのか説明できなかった。服装の証言はだいたい同じで、部屋着のようだったという。年齢も定まらない。三十代、五十代、もっと上かもしれない。共通しているのは、「生気がない」という印象だけだった。
誰も、女が何をしているかを見ていない。立っていると思われているが、椅子に腰掛けているか、あるいは椅子に縛られている可能性もある。こちらを見ているように感じるのは、新幹線が進行方向に向かって走るからだ。視線が、追いつかれる錯覚。それでも、人は理由を欲しがった。理由のない不安には、耐えられない。
「毎日、同じ時間じゃない?」
「違う、朝も夜もいる」
「首吊り?」
その言葉が出た瞬間、誰が言ったのかは、はっきりしなかった。だが、否定もされなかった。新幹線のダイヤと女の姿を照らし合わせる者が現れ、減速する区間、視線が留まる速度、その瞬間、必ず見える女、という説明が補強されていく。「見られるタイミングを知ってるみたいで気味が悪い」「こっちを待ってる」。怖さは、説明よりも速かった。誰も断定していないのに、前提だけが共有されていく。語られ方が変わっていく。女は「立っている」から「立たされている」へ、「見ている」から「見せられている」へと、いつの間にか変質していた。
そして、通報が入った。
「マンションで、女性が監禁されているかもしれない」
警察は重大事案の可能性ありと判断した。数分後、周辺道路にパトカーが次々と入り、赤色灯が回り始めた。その音に反応するように、周囲の民家から犬の吠える声が上がり、あちこちで重なった。救急車も駆けつけ、赤色灯が昼間の外壁を断続的に染める。住民がベランダや廊下に顔を出し、ざわめきが広がった。
警察は管理人を呼び、問題の部屋を特定する。インターホンを押すが反応はない。再度押しても応答はなかった。ドア越しに声をかけ、耳を当てると、室内からクラシック音楽が流れていた。ドアを強く叩き、最悪の事態を想定して室内立ち入りの準備が進められる。
そのとき、人だかりの中に、買い物袋を提げた女性が現れた。
「……あの、何かありました?」
富田さんだった。
事情を聞かされても、富田さんは目を丸くするだけだった。
「そうなんですか?」
警察とともに部屋へ向かい、鍵は普通に開いた。部屋の中はごく普通で、整理整頓され、生活の気配がある。窓際には椅子が一脚、レースのカーテンだけが掛かっていた。監禁などなかった。富田さんは自然な動作で椅子に座り、窓の外を見た。その姿勢は、外から見られていた位置と、ほとんど変わらなかった。
「ここ、何十年も住んでますよ」
管理人も頷き、「富田さんは真面目で優しい方です。問題を起こしたこともありません」と補足した。富田さんは退職して一年がたち、時間ができてから窓から新幹線を眺めるのが日課になったという。空と線路と、通り過ぎる車両。歯を磨きながら、クラシックを流しながら、スピーカー越しに友人と電話をしながら。ただ、それだけだった。
警察は事件性なしと判断し、念のため防犯上の注意を伝えた。
「夜間は、カーテンを閉めるようにしてください」
「高層階ですし……」
富田さんは、少し困ったように笑って答えた。警察車両は順に引き上げ、犬の吠え声も、やがて途切れていった。
その後も、富田さんは窓辺に座った。以前と同じ位置で、何も気にせずに。新幹線は次の日も、その次の日も通過する。自分がどれほど多くの視線を集め、どれほど多くの物語を背負わされたかを、富田さんが思い至ることはない。
新幹線の中で、また誰かが思う。
「――今、こっちを見た」
だが、それは事件ではない。人間の視線が、意味を欲しがっただけだ。富田さんは今日も、ただ見ている。空と、新幹線を。そして、そこに残るのは、視線だけだった。


