その文字列は、朝倉がこの五年間、プレス機で鋼鉄を叩き潰すことで押し殺してきた、すべての感情の澱(おり)そのものだった。
画面を埋め尽くす膨大な告発の記録には、大河原の汚職の全貌、寺島の裏切りの経緯、そしてハルという一人の少女が、どのようにしてその小さな命を「希望」に変えようとしたのか、そのすべてが血を吐くような筆致で記されている。
これを送信すれば、数分後には世界が変わる。
ネットの奔流に乗った言葉は、朝倉健という名を「悲劇の英雄」へと塗り替えるだろう。
復讐は果たされ、大河原は、そして寺島は、社会的破滅という名の深淵へと叩き落とされる。
だが、送信ボタンの上に置かれた朝倉の指は、剥き出しの神経のように小刻みに震えていた。
「……織田さん。俺は、この記事を世界という戦場へ放り投げるために、この夜を越えてきたつもりだった」
朝倉は、まだ夜明け前の、濃密な群青色に沈む空を見上げた。
「でも、書けば書くほど、分からなくなったんだ。この記事を世に出して、あいつらを監獄へ送れば、ハルが最期に手のひらに書いたあの文字は報われるのか? 汚れた連中を同じ地獄へ引きずり込むことが、ハルが見たかった『あさ』なのか?」
織田は何も答えない。
ただ、岩のように動かぬ姿勢でライカを構え、朝倉の横顔をファインダーの隅に捉えていた。
朝倉は、液晶画面を見つめ直した。 そこにあるのは、非のうちどころのない完璧な「告発状」だ。記者としての最高傑作と言ってもいい。 だが、今の朝倉にとって、これを読ませたい相手は、顔も名もなき「世間」などではなかった。
朝倉の指が動いた。
送信ボタンではなく、画面をスクロールし、一つの連絡先を呼び出した。
それは、かつて自分の背中を叩いてくれた、あのブルーブラックのインクを撒き散らして泣いた男。
今、この岬の麓で、自分を暗闇の中から見守り、同時に怯えているであろう寺島のアドレスだった。
「俺は、記者を辞める。……言葉を『武器』にするのは、もう終わりだ」
朝倉は、寺島一人のためだけに、その魂のすべてを注ぎ込んだ原稿を送信した。
不特定多数の正義に訴えるのではなく、自分を裏切った父に、たった一人の「人間」として、その真実を突きつけたのだ。
「……送信、完了」
直後、朝倉は手元のスマートフォンを、迷うことなくコンクリートの角に叩きつけた。 乾いた破砕音と共に液晶が砕け散り、基板が剥き出しになる。朝倉はそこから、飛び出した銀色のマイクロSDカードを拾い上げた。
「朝倉さん……!」
織田が初めて、驚愕に声を上げた。
朝倉は、ハルの命の欠片であり、大河原を葬る唯一の物理的証拠であるそのチップを、まだ冷たい潮風が荒れ狂う海へと、渾身の力で放り投げた。 銀色の弾丸は、夜明け前の闇を無音で切り裂き、白い波飛沫の間に消えた。
「これで、終わりだ。……織田さん、あんたの罪も、寺島さんの裏切りも、俺が全部『書き終えた』。だからもう、誰も裁かない。誰にもこの物語は奪わせない。……俺の『あさ』は、誰かを地獄に落として手に入れるものじゃない」
朝倉は、自らの手で「最強のカード」を捨てた。
それは、復讐という鎖から自らを解き放ち、かつて自分を壊した「言葉の暴力性」から決別するための、凄絶な儀式だった。
麓に停まっていたセダンのライトが、一瞬だけ、力強く点滅した。
まるで、寺島がその「言葉の重み」を確かに受け取り、一人の人間として朝倉に頭を下げたかのように。
車は静かに向きを変え、岬の闇から去っていった。
夜明けまで、あと数分。
朝倉の手には、もうペンも、スマートフォンも、プレス機のレバーもなかった。
ただ、機械油と自分の血が混じり合った、空っぽの手のひらだけが、新しい光を待っていた。
織田はゆっくりとライカを下げ、朝倉の隣に並んだ。
「……見事な、不発弾だ。あんたは今日、世界で一番静かな革命を起こしたな」
二人の前で、水平線の際が、不意に鮮やかな橙色に染まり始めた。
画面を埋め尽くす膨大な告発の記録には、大河原の汚職の全貌、寺島の裏切りの経緯、そしてハルという一人の少女が、どのようにしてその小さな命を「希望」に変えようとしたのか、そのすべてが血を吐くような筆致で記されている。
これを送信すれば、数分後には世界が変わる。
ネットの奔流に乗った言葉は、朝倉健という名を「悲劇の英雄」へと塗り替えるだろう。
復讐は果たされ、大河原は、そして寺島は、社会的破滅という名の深淵へと叩き落とされる。
だが、送信ボタンの上に置かれた朝倉の指は、剥き出しの神経のように小刻みに震えていた。
「……織田さん。俺は、この記事を世界という戦場へ放り投げるために、この夜を越えてきたつもりだった」
朝倉は、まだ夜明け前の、濃密な群青色に沈む空を見上げた。
「でも、書けば書くほど、分からなくなったんだ。この記事を世に出して、あいつらを監獄へ送れば、ハルが最期に手のひらに書いたあの文字は報われるのか? 汚れた連中を同じ地獄へ引きずり込むことが、ハルが見たかった『あさ』なのか?」
織田は何も答えない。
ただ、岩のように動かぬ姿勢でライカを構え、朝倉の横顔をファインダーの隅に捉えていた。
朝倉は、液晶画面を見つめ直した。 そこにあるのは、非のうちどころのない完璧な「告発状」だ。記者としての最高傑作と言ってもいい。 だが、今の朝倉にとって、これを読ませたい相手は、顔も名もなき「世間」などではなかった。
朝倉の指が動いた。
送信ボタンではなく、画面をスクロールし、一つの連絡先を呼び出した。
それは、かつて自分の背中を叩いてくれた、あのブルーブラックのインクを撒き散らして泣いた男。
今、この岬の麓で、自分を暗闇の中から見守り、同時に怯えているであろう寺島のアドレスだった。
「俺は、記者を辞める。……言葉を『武器』にするのは、もう終わりだ」
朝倉は、寺島一人のためだけに、その魂のすべてを注ぎ込んだ原稿を送信した。
不特定多数の正義に訴えるのではなく、自分を裏切った父に、たった一人の「人間」として、その真実を突きつけたのだ。
「……送信、完了」
直後、朝倉は手元のスマートフォンを、迷うことなくコンクリートの角に叩きつけた。 乾いた破砕音と共に液晶が砕け散り、基板が剥き出しになる。朝倉はそこから、飛び出した銀色のマイクロSDカードを拾い上げた。
「朝倉さん……!」
織田が初めて、驚愕に声を上げた。
朝倉は、ハルの命の欠片であり、大河原を葬る唯一の物理的証拠であるそのチップを、まだ冷たい潮風が荒れ狂う海へと、渾身の力で放り投げた。 銀色の弾丸は、夜明け前の闇を無音で切り裂き、白い波飛沫の間に消えた。
「これで、終わりだ。……織田さん、あんたの罪も、寺島さんの裏切りも、俺が全部『書き終えた』。だからもう、誰も裁かない。誰にもこの物語は奪わせない。……俺の『あさ』は、誰かを地獄に落として手に入れるものじゃない」
朝倉は、自らの手で「最強のカード」を捨てた。
それは、復讐という鎖から自らを解き放ち、かつて自分を壊した「言葉の暴力性」から決別するための、凄絶な儀式だった。
麓に停まっていたセダンのライトが、一瞬だけ、力強く点滅した。
まるで、寺島がその「言葉の重み」を確かに受け取り、一人の人間として朝倉に頭を下げたかのように。
車は静かに向きを変え、岬の闇から去っていった。
夜明けまで、あと数分。
朝倉の手には、もうペンも、スマートフォンも、プレス機のレバーもなかった。
ただ、機械油と自分の血が混じり合った、空っぽの手のひらだけが、新しい光を待っていた。
織田はゆっくりとライカを下げ、朝倉の隣に並んだ。
「……見事な、不発弾だ。あんたは今日、世界で一番静かな革命を起こしたな」
二人の前で、水平線の際が、不意に鮮やかな橙色に染まり始めた。
