朝倉の指先は、すでに感覚を失っていた。
スマートフォンの冷たい液晶を叩く衝撃が、指骨を通じて肘のあたりまで鈍い痺れを伝えてくる。
プレス工場の夜勤で、三〇〇トンの重圧と向き合い続けてきた日々でさえ、これほどまでに肉体を酷使したことはなかった。
一文字、一文字が、命を削り出す削岩機のように重い。
画面に並ぶ文字は、かつての朝倉が書いていたような、理路整然とした新聞記事の体裁をとうに失っていた。
それは、泥の中から這い出そうとする者の咆哮であり、あるいは死にゆく者が愛する者の名を呼ぶような、剥き出しの祈りだった。
「……違う。この言葉じゃない」
朝倉は、書き上げたばかりの数行を激しく消去した。
『大河原は、卑劣な手段を用いて……』 そんな、どこかの週刊誌が書き立てるような借り物の言葉では、ハルの無念を救うことはできない。寺島の裏切りを、自分の空白の五年間を、正しく定義することはできない。
朝倉は目を閉じ、耳栓を貫通して響いていた工場の重低音を、脳内で再生した。
一瞬で鋼鉄をひしゃげさせる、あの容赦のない現実。
彼は、そのリズムを指先に移した。
飾り立てるな。
美しく書こうとするな。
ただ、そこに「在った」事実を、鉄を叩くように打ち込め。
[俺の妹は、雪の夜に死んだ]
[彼女を殺したのは、大河原の権力でも、寺島の裏切りでもない]
[真実を武器だと思い込み、傲慢にもペンを握り続けた、俺の無知だ]
指が加速していく。
言葉が廃屋の瓦礫を突き破り、どす黒い噴水のように溢れ出した。
朝倉の視界は、もはや涙と汗で霞んでいたが、指だけが自律した生き物のように画面の上を躍動した。
それは「執筆」という高尚な行為ではなく、自らの内臓を引きずり出し、そこに刻まれた「五年の沈黙」を解体する解剖作業に近かった。
「……朝倉さん。誰かが見ているようだ」
織田の、氷のように冷たい声が朝倉の背中を打った。
朝倉は画面から目を離さずに、その声に耳を貸す。
岬の下方、つづら折りの旧道。
そこには、一台の黒いセダンが音もなく停まっていた。
ヘッドライトは消されているが、微かに漏れるスモールランプの光が、この暗闇の中では異様な存在感を放っている。
「大河原の犬どもか」
「いや……あの車には見覚えがある」 織田はライカを構えたまま、低く呟いた」
「大河原の使い走りなら、もっと騒々しくあんたを囲むはずだ。……寺島氏だよ」
「どうやら彼は、あんたの行先に心当たりがあったらしい。あるいは、ハルさんの最期の場所を、彼もまた一晩中、気に病んでいたのか」
朝倉は一瞬、打鍵の手を止めた。
寺島が、そこにいる。
五年前、自分を奈落へ突き落とした恩師が、今、闇の中から自分を「監視」している。
彼は朝倉を止めに来たのか。
それとも、かつての愛弟子の最期を見届けに来たのか。
「……あの人は、俺が書くことを一番恐れているはずだ」
「あるいは、一番期待しているのかもしれん。自分にはもう書けなくなった『真実』を、あんたが吐き出すのをね。人間という生き物は、そこまで矛盾できる」
織田はライカを首から下げ直し、上質なコートの襟を正した。
「寺島氏は動かない。ただ、見ているだけだ。彼は、あんたがその指で『送信ボタン』を押すか、それとも再び沈黙を選ぶか、その一点を賭けている」
朝倉は、スマートフォンの画面に視線を叩きつけた。
周囲の音が消える。 闇の中に佇む寺島の気配も、織田の吐息も、すべてが遠い星の出来事のように霧散した。
今、世界には、この五万文字に迫る「格闘」と、刻一刻と表情を変える水平線しかない。
指先から滴る血が、スマートフォンの表面を赤く染め、文字を滲ませる。
だが、朝倉の打鍵は止まらない。
それは、ハルへの謝罪であり、自分への処刑宣告であり、そして、かつて自分が愛した「世界」への、最後にして最大の手紙だった。
[俺たちは、いつか死ぬ]
[だが、言葉は死なない]
[たとえその言葉が、誰にも届かぬまま、この岬の海に沈んだとしても]
画面の右下に表示された文字数が、限界へと近づいていく。
朝倉の魂は、タイピングの振動と共に肉体から切り離され、光り輝く「情報の墓標」へと昇華されていった。
夜明けまで、あと一時間。
朝倉の指が、最後の一行を打ち終えた。
スマートフォンの冷たい液晶を叩く衝撃が、指骨を通じて肘のあたりまで鈍い痺れを伝えてくる。
プレス工場の夜勤で、三〇〇トンの重圧と向き合い続けてきた日々でさえ、これほどまでに肉体を酷使したことはなかった。
一文字、一文字が、命を削り出す削岩機のように重い。
画面に並ぶ文字は、かつての朝倉が書いていたような、理路整然とした新聞記事の体裁をとうに失っていた。
それは、泥の中から這い出そうとする者の咆哮であり、あるいは死にゆく者が愛する者の名を呼ぶような、剥き出しの祈りだった。
「……違う。この言葉じゃない」
朝倉は、書き上げたばかりの数行を激しく消去した。
『大河原は、卑劣な手段を用いて……』 そんな、どこかの週刊誌が書き立てるような借り物の言葉では、ハルの無念を救うことはできない。寺島の裏切りを、自分の空白の五年間を、正しく定義することはできない。
朝倉は目を閉じ、耳栓を貫通して響いていた工場の重低音を、脳内で再生した。
一瞬で鋼鉄をひしゃげさせる、あの容赦のない現実。
彼は、そのリズムを指先に移した。
飾り立てるな。
美しく書こうとするな。
ただ、そこに「在った」事実を、鉄を叩くように打ち込め。
[俺の妹は、雪の夜に死んだ]
[彼女を殺したのは、大河原の権力でも、寺島の裏切りでもない]
[真実を武器だと思い込み、傲慢にもペンを握り続けた、俺の無知だ]
指が加速していく。
言葉が廃屋の瓦礫を突き破り、どす黒い噴水のように溢れ出した。
朝倉の視界は、もはや涙と汗で霞んでいたが、指だけが自律した生き物のように画面の上を躍動した。
それは「執筆」という高尚な行為ではなく、自らの内臓を引きずり出し、そこに刻まれた「五年の沈黙」を解体する解剖作業に近かった。
「……朝倉さん。誰かが見ているようだ」
織田の、氷のように冷たい声が朝倉の背中を打った。
朝倉は画面から目を離さずに、その声に耳を貸す。
岬の下方、つづら折りの旧道。
そこには、一台の黒いセダンが音もなく停まっていた。
ヘッドライトは消されているが、微かに漏れるスモールランプの光が、この暗闇の中では異様な存在感を放っている。
「大河原の犬どもか」
「いや……あの車には見覚えがある」 織田はライカを構えたまま、低く呟いた」
「大河原の使い走りなら、もっと騒々しくあんたを囲むはずだ。……寺島氏だよ」
「どうやら彼は、あんたの行先に心当たりがあったらしい。あるいは、ハルさんの最期の場所を、彼もまた一晩中、気に病んでいたのか」
朝倉は一瞬、打鍵の手を止めた。
寺島が、そこにいる。
五年前、自分を奈落へ突き落とした恩師が、今、闇の中から自分を「監視」している。
彼は朝倉を止めに来たのか。
それとも、かつての愛弟子の最期を見届けに来たのか。
「……あの人は、俺が書くことを一番恐れているはずだ」
「あるいは、一番期待しているのかもしれん。自分にはもう書けなくなった『真実』を、あんたが吐き出すのをね。人間という生き物は、そこまで矛盾できる」
織田はライカを首から下げ直し、上質なコートの襟を正した。
「寺島氏は動かない。ただ、見ているだけだ。彼は、あんたがその指で『送信ボタン』を押すか、それとも再び沈黙を選ぶか、その一点を賭けている」
朝倉は、スマートフォンの画面に視線を叩きつけた。
周囲の音が消える。 闇の中に佇む寺島の気配も、織田の吐息も、すべてが遠い星の出来事のように霧散した。
今、世界には、この五万文字に迫る「格闘」と、刻一刻と表情を変える水平線しかない。
指先から滴る血が、スマートフォンの表面を赤く染め、文字を滲ませる。
だが、朝倉の打鍵は止まらない。
それは、ハルへの謝罪であり、自分への処刑宣告であり、そして、かつて自分が愛した「世界」への、最後にして最大の手紙だった。
[俺たちは、いつか死ぬ]
[だが、言葉は死なない]
[たとえその言葉が、誰にも届かぬまま、この岬の海に沈んだとしても]
画面の右下に表示された文字数が、限界へと近づいていく。
朝倉の魂は、タイピングの振動と共に肉体から切り離され、光り輝く「情報の墓標」へと昇華されていった。
夜明けまで、あと一時間。
朝倉の指が、最後の一行を打ち終えた。
