朝倉は自販機の横に腰を下ろし、震える手でスマートフォンのメモアプリを開いた。
織田から渡されたチップの中には、大河原を、そして寺島を葬るための「弾丸」が詰まっている。
あとは、それを世に放つための「言葉」を綴るだけだ。
かつての朝倉なら、一時間もあれば、権力者の喉元を食い破るような冷徹な告白文を書き上げていただろう。
だが、画面上の真っ白なカーソルが点滅するたび、朝倉の呼吸は浅くなり、冷や汗が背中を伝った。
指が、動かない。
プレス機のレバーを引くために、あるいは鉄板のバリを削るために最適化された朝倉の指先は、今や驚くほど鈍重な肉の塊に成り果てていた。
一文字、入力しようとするだけで、関節が錆びついた機械のように悲鳴を上げる。
「……あ、か、さ……」
「朝倉」という自分の苗字すら、入力するのがもどかしい。
さらに深刻だったのは、脳内の「言葉の貯蔵庫」が、廃屋のように空っぽになっていたことだ。
五年間、彼は鉄を叩く音の中に逃げ込み、形容詞を捨て、接続詞を殺し、比喩を忘却してきた。
工場の現場で必要だったのは、「はい」「いいえ」「了解」「危険」といった、感情を削ぎ落とした信号だけだ。
今、大河原の汚職を、寺島の裏切りを、ハルの無念を叙述しようとしても、出てくるのはプレス機が鉄を潰す「ドォン」という重苦しい残響だけだった。
「書けない……」
朝倉は呻き、スマートフォンの画面を地面に叩きつけそうになった。
脳の奥が痺れる。
語彙が、表現が、あの頃の鋭利な文体が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
「無理だ。俺の脳はもう、油と煤で焼き付いている。ペンを握るための神経は、三〇〇トンの圧力で叩き潰されたんだ……!」
「……それが、五年の歳月というものだ」
背後から、織田の低く乾いた声が飛んできた。
彼は相変わらず海を見つめたまま、ライカのシャッターを切ることもなく立ち尽くしている。
「言葉は、使わなければ死ぬ。筋肉と同じだ。あんたが鉄を叩いていた五年間、言葉はあんたの中で腐り、発酵し、今やどす黒い沈殿物になっている。……実は私もね、かつては詩を書いていた」
織田の告白に、朝倉は顔を上げた。
「大河原の影になる前、私は小さな文芸誌の編集をしていた。美しい言葉こそが世界を救うと信じていた」
「だが、ある時気づいたのだ。どれほど美しい詩を書こうとも、権力者が振るう一振りの『現実』には勝てないと」
「私は自分のペンを折り、大河原に魂を売った。その日から、私の言葉は『嘘』を飾るための道具に成り下がった」
織田はゆっくりと朝倉に歩み寄り、その油塗れの、タコだらけの右手を指差した。
「あんたの手は、確かに汚れている。だが、その汚れは、沈黙という苦行を耐え抜いた証だ」
「言葉が出ないのは、あんたが『本物』を紡ごうとしているからだ。小手先の技術や、かつての栄光に頼ろうとするから、指が拒絶する」
朝倉は、自分の掌を見つめた。
血と油の混じった、無骨で醜い手。
ハルは、この手を見て「お兄ちゃんの言葉が好きだ」と言ったのか。
こんな、機械の一部になったような手から、誰かの心を震わせる言葉が生まれると、本気で信じていたのか。
「……ハルは、俺に『あさ』を、暗闇のない朝を取り戻せと言った」
朝倉は再び、スマートフォンを握り直した。
執筆への苦悶は、肉体を切り刻まれるような拷問に近かった。
一つの単語を絞り出すたびに、肺が燃えるような感覚に襲われる。
「汚職」「裏切り」「殺意」……そんな既存の言葉では足りない。
自分が五年間、工場の片隅で感じていたあの孤独、鉄の匂い、ハルを失った夜の雪の冷たさ。
それらすべてを、今の「死んだ言葉」でどう表現すればいい。
朝倉は、目を閉じた。 プレス機の振動を思い出す。
一撃で鉄を成形する、あの暴力的なまでの純粋な力。
流麗な文章などいらない。
飾り立てた修辞もいらない。
ただ、鉄板を叩き潰すように、事実を、感情を、魂の破片を、画面に叩きつける。
「……が、あ、ら……」
朝倉の指が、猛烈な勢いで動き始めた。
それはもはや「執筆」ではなかった。
自分の喉を掻き切り、溢れ出す血で地面に呪詛を書き記すような、凄絶な「格闘」だった。
画面の明かりが、朝倉の形相を鬼気迫るものに変えていく。
織田はその様子を、初めてファインダー越しに捉えた。 シャッターは切らない。
ただ、一人の男が「廃墟」の中から、己の言葉を掘り起こすその瞬間を、レンズという「目」に焼き付けていた。
夜明けまで、あと二時間。
朝倉の指先からは、油に混じって本物の血が滴り、スマートフォンの画面を汚していった。
しかし、その汚れた画面の上には、五年分の沈黙を喰らって肥大化した、どす黒く、そして光り輝く「真実」の断片が、一文字ずつ刻まれ始めていた。
織田から渡されたチップの中には、大河原を、そして寺島を葬るための「弾丸」が詰まっている。
あとは、それを世に放つための「言葉」を綴るだけだ。
かつての朝倉なら、一時間もあれば、権力者の喉元を食い破るような冷徹な告白文を書き上げていただろう。
だが、画面上の真っ白なカーソルが点滅するたび、朝倉の呼吸は浅くなり、冷や汗が背中を伝った。
指が、動かない。
プレス機のレバーを引くために、あるいは鉄板のバリを削るために最適化された朝倉の指先は、今や驚くほど鈍重な肉の塊に成り果てていた。
一文字、入力しようとするだけで、関節が錆びついた機械のように悲鳴を上げる。
「……あ、か、さ……」
「朝倉」という自分の苗字すら、入力するのがもどかしい。
さらに深刻だったのは、脳内の「言葉の貯蔵庫」が、廃屋のように空っぽになっていたことだ。
五年間、彼は鉄を叩く音の中に逃げ込み、形容詞を捨て、接続詞を殺し、比喩を忘却してきた。
工場の現場で必要だったのは、「はい」「いいえ」「了解」「危険」といった、感情を削ぎ落とした信号だけだ。
今、大河原の汚職を、寺島の裏切りを、ハルの無念を叙述しようとしても、出てくるのはプレス機が鉄を潰す「ドォン」という重苦しい残響だけだった。
「書けない……」
朝倉は呻き、スマートフォンの画面を地面に叩きつけそうになった。
脳の奥が痺れる。
語彙が、表現が、あの頃の鋭利な文体が、指の間から砂のように零れ落ちていく。
「無理だ。俺の脳はもう、油と煤で焼き付いている。ペンを握るための神経は、三〇〇トンの圧力で叩き潰されたんだ……!」
「……それが、五年の歳月というものだ」
背後から、織田の低く乾いた声が飛んできた。
彼は相変わらず海を見つめたまま、ライカのシャッターを切ることもなく立ち尽くしている。
「言葉は、使わなければ死ぬ。筋肉と同じだ。あんたが鉄を叩いていた五年間、言葉はあんたの中で腐り、発酵し、今やどす黒い沈殿物になっている。……実は私もね、かつては詩を書いていた」
織田の告白に、朝倉は顔を上げた。
「大河原の影になる前、私は小さな文芸誌の編集をしていた。美しい言葉こそが世界を救うと信じていた」
「だが、ある時気づいたのだ。どれほど美しい詩を書こうとも、権力者が振るう一振りの『現実』には勝てないと」
「私は自分のペンを折り、大河原に魂を売った。その日から、私の言葉は『嘘』を飾るための道具に成り下がった」
織田はゆっくりと朝倉に歩み寄り、その油塗れの、タコだらけの右手を指差した。
「あんたの手は、確かに汚れている。だが、その汚れは、沈黙という苦行を耐え抜いた証だ」
「言葉が出ないのは、あんたが『本物』を紡ごうとしているからだ。小手先の技術や、かつての栄光に頼ろうとするから、指が拒絶する」
朝倉は、自分の掌を見つめた。
血と油の混じった、無骨で醜い手。
ハルは、この手を見て「お兄ちゃんの言葉が好きだ」と言ったのか。
こんな、機械の一部になったような手から、誰かの心を震わせる言葉が生まれると、本気で信じていたのか。
「……ハルは、俺に『あさ』を、暗闇のない朝を取り戻せと言った」
朝倉は再び、スマートフォンを握り直した。
執筆への苦悶は、肉体を切り刻まれるような拷問に近かった。
一つの単語を絞り出すたびに、肺が燃えるような感覚に襲われる。
「汚職」「裏切り」「殺意」……そんな既存の言葉では足りない。
自分が五年間、工場の片隅で感じていたあの孤独、鉄の匂い、ハルを失った夜の雪の冷たさ。
それらすべてを、今の「死んだ言葉」でどう表現すればいい。
朝倉は、目を閉じた。 プレス機の振動を思い出す。
一撃で鉄を成形する、あの暴力的なまでの純粋な力。
流麗な文章などいらない。
飾り立てた修辞もいらない。
ただ、鉄板を叩き潰すように、事実を、感情を、魂の破片を、画面に叩きつける。
「……が、あ、ら……」
朝倉の指が、猛烈な勢いで動き始めた。
それはもはや「執筆」ではなかった。
自分の喉を掻き切り、溢れ出す血で地面に呪詛を書き記すような、凄絶な「格闘」だった。
画面の明かりが、朝倉の形相を鬼気迫るものに変えていく。
織田はその様子を、初めてファインダー越しに捉えた。 シャッターは切らない。
ただ、一人の男が「廃墟」の中から、己の言葉を掘り起こすその瞬間を、レンズという「目」に焼き付けていた。
夜明けまで、あと二時間。
朝倉の指先からは、油に混じって本物の血が滴り、スマートフォンの画面を汚していった。
しかし、その汚れた画面の上には、五年分の沈黙を喰らって肥大化した、どす黒く、そして光り輝く「真実」の断片が、一文字ずつ刻まれ始めていた。
