自販機の青白い光の下で、朝倉は喉の奥からせり上がる酸い塊を堪えていた。
スマートフォンの液晶から溢れ出したハルの「遺言」は、凍りついた彼の心臓に煮え立った鉛を流し込むような激痛をもたらした。
ハルは、死の際まで兄の再起を信じていた。
それも、自分を死に追いやった「あちら側」の懐へ、自らの細い命をチップにして飛び込んでまで。

「……寺島さんは、あの子にまで、あんな無様な姿を晒したのか」

朝倉の声は、怒りよりも深い、底なしの悲嘆に震えていた。
隣で気配を消していた織田が、静かに、しかし断罪の鐘を鳴らすような重みで口を開いた。
その声は、執刀医が腐敗した患部を切り開くように、かつての「恩師」の墜落を紐解いていく。

「寺島氏は、最初から悪人だったわけではありません。むしろ逆だ」
「彼はあんたのことが、可愛くて仕方がなかった」
「己がとうに失ってしまった『青臭い正義』を、あんたという才能に見ていたのだから」
「あんたが筆を走らせるたびに、彼は自分の汚れが洗われるような錯覚を抱いていた」

織田はライカのレンズを執拗に磨きながら、虚空を見つめた。

「大河原の事務所に初めて寺島氏が呼び出された夜、彼は真っ向から大河原を糾弾しましたよ」
「テーブルを叩き、『私の部下を政治の道具にするな、彼の手を汚させるわけにはいかない』とね。……だが、大河原という男は、正論を吐く人間を黙らせる方法を、呼吸をするように知っている」
「彼は一通の封筒をテーブルに置いた。そこに入っていたのは、政治資金の裏資料ではなく、一人の青年の写真だった。寺島氏のひとり息子。彼が大学時代に海外で問題を起こし、多額の金で握りつぶされていた薬物事件の再調査記録だ」

朝倉の指が、凍てついたアスファルトを爪が剥がれるほど強く掻いた。
寺島の息子。
何度か食事に連れて行かれた際、寺島が「不器用だが、俺を継いで記者になりたいと言ってくれていてね」と、不器用に目尻を下げていたあの青年の顔が浮かぶ。

「息子が再逮捕されれば、寺島氏の築き上げた全ては灰になる。社会部長の椅子も、将来の役員の座も、そして何より彼が守りたかった『厳格な父』としての仮面もだ。……大河原は、蛇が這うような甘い声で囁いた」
「『息子さんの前途を奪うのは忍びない。私が預かろう。代わりに、朝倉という暴走特急を止めてくれ。彼を物理的に消すこともできるが、君はそれを望まないだろう? 社会的に抹殺し、二度と文字を書けないようにすれば、彼は命だけは助かる。彼を守れるのは、君だけだ』と」

「……社会的に殺すことが、命を救う道だったと?」

朝倉は吐き捨てるように言った。肺の中が煤で汚れたように苦しい。

「俺を裏切り、捏造のスキャンダルを捏造し、ハルから平穏を奪い、俺たちをゴミ捨て場に放り出すことが……あの人の、父親代わりの『愛情』だったというのか!」

「人間という生き物は、自分を正当化するためなら、どんな汚泥にも花を咲かせる」
「寺島は、自分を『朝倉を刺客から守るために、あえて泥を被った悲劇の盾』だと思い込もうとした」
「あんたの捏造記事を認めた夜、彼は自宅で、万年筆一本が空になるほどブルーブラックのインクを撒き散らして号泣したそうだ。
「だが、翌朝には大河原から提供された『将来の理事席』を確約され、血の混じった涙を洗って、パリッとアイロンの効いたシャツを着て出社した。……正義の裏側にあるのは、巨大な悪意などではない。ただの、卑屈で、泥のようにドロドロとした人間臭い『保身』だ」

朝倉は堪えきれず、自販機の脇で胃液を吐き出した。
喉を焼く酸い味が広がり、鼻を突く。 吐き気が止まらなかった。

自分が「社会の公器」だと信じ、守り抜こうとした組織の矜持。
そのトップにいた男が、自分の息子の不祥事と引き換えに、朝倉の魂を、文字通り切り売りした。
そこには悪魔の契約などという高尚なものは存在しない。
ただ、身内を守りたいという本能と、地位を失いたくないという怯えが、複雑に絡み合って朝倉の首を絞めただけなのだ。

「……滑稽だな」 朝倉は口元を拭い、ふらふらと立ち上がった。
その膝は笑い、立っているのが精一杯だった。

「俺は、大河原という巨大な巨像を相手に戦っているつもりだった。でも、実際に俺の背中を刺したのは、俺と一緒に正義を語り、涙を流してくれた、ただの臆病な父親だったんだ」
「……なあ、織田。俺たちが信じていたペンってのは、こんなにも安っぽく、たやすく折れるもんだったのか?」

「ペンは折れない。折れるのは、常にそれを握る人間の方だ」

織田が朝倉の目を、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐに見据えた。

「朝倉さん。あんたの指に深く染み込んだプレス工場の油は、あの男が撒き散らした『ブルーブラックのインク』よりも、ずっと清潔だ。だが、あんたはまだ、あの男を許すことも、殺すこともできていない。あの男の腕の中で、まだもがいている」

朝倉は答えなかった。
平線の向こう側。

紺青の空が、少しずつ、少しずつ、深淵のような黒から、血の気を失ったような死人の肌のような灰色へと変わろうとしていた。

寺島。
自分に言葉を教え、自分から言葉を奪った男。
かつて父と慕ったその男の顔が、今はただ、腐り落ちた亡霊のように朝倉の脳裏を支配している。

「……夜明けまで、あと三時間」

朝倉は、血の滲む拳を握り直し、再び暗い海へと向き直った。
彼の心の中には、寺島への憎悪でもなく、自責でもない、もっと静かで、氷のように研ぎ澄まされた「決意」が、黒い霧の中から形を成し始めていた。