岬の突端から少し離れた場所に、冬の潮風に晒されて塗装の剥げた公衆トイレと、その脇に一台の自動販売機があった。自販機の放つ青白いLEDの光だけが、この断崖における唯一の文明の証だった。
朝倉は、織田から手渡されたマイクロSDカードを震える指で掴み、ボストンバッグの底に眠らせていた古いスマートフォンを取り出した。
五年前、キャリアを解約して以来、目覚まし時計代わりにさえ使わなくなった化石のような端末だ。
カードをスロットに差し込み、電源を入れる。 暗闇の中で液晶が起動し、網膜を焼くような白さが視界を覆った。
「ハル……」
画面上のファイルマネージャーには、日付順に並んだ数百個の音声データと、数本の動画ファイルが記録されていた。
最後の日付は、五年前の十二月二十八日。
彼女が雪の夜に消える、わずか三日前のものだ。
朝倉は、一番新しい動画ファイルに触れた。
再生ボタンを押した瞬間、ノイズ混じりの映像が浮かび上がる。
画面に映っていたのは、病室の白い天井と、ひどく痩せ細り、透明に近いほど肌が白くなったハルの横顔だった。
彼女はスマートフォンを自撮り棒に固定しているのか、震える手でカメラの角度を調整していた。
『お兄ちゃん、聞こえる?』
スピーカーから漏れた声は、記憶の中の彼女の声よりもずっと掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。背後では、心電図の規則的な音が、死へのカウントダウンのように刻まれている。
『これを、お兄ちゃんがいつ見ているのかは分からない。……でも、もしお兄ちゃんがこれを手にしているなら、それは、お兄ちゃんがもう一度「本当のこと」を知ろうとしてくれた証拠だよね』
ハルは、カメラに向かって力なく、けれど確かに微笑んだ。
『ごめんね、勝手なことして。お兄ちゃんが私のために、あんなに大切にしていたペンを捨てちゃったこと、私、ずっと悔しかった。お兄ちゃんから言葉を奪った人たちのこと、私、どうしても許せなかったの』
映像が切り替わる。
隠し撮りされたものだろう。
荒い画質の中に、朝倉がよく知る人物の顔が映し出された。
寺島社会部長だ。
場所は、病院の面会室。
寺島は、ハルの前で膝をつき、必死に何かを懇願していた。
『ハルちゃん、頼む。朝倉には黙っていてくれ。大河原さんは、これ以上彼が騒がなければ、君の治療費も、朝倉の再就職先も保証すると言っているんだ』
『君が証拠を渡してくれれば、お兄さんは助かる。私が責任を持って、彼を平穏な場所へ隠してやるから』
寺島の声には、かつての威厳など微塵もなかった。
あるのは、保身と罪悪感が混ざり合った、卑屈な男の哀願だけだった。
それに対するハルの返答は、鋭い刃のように寺島を射抜いた。
『寺島さん。お兄ちゃんが一番欲しがっているのは、平穏なんかじゃありません』
『……お兄ちゃんが息をするために必要なのは、正しいことが、正しいと言える世界です』
『あなたが奪ったのは、お兄ちゃんの仕事じゃない。お兄ちゃんの「心」そのものです』
朝倉の視界が、一気に滲んだ。 画面の中で、ハルは咳き込みながら、それでも寺島を拒絶し続けていた。
動画はそこで途切れ、音声ファイルへと続く。
そこには、ハルが命を削って集めた、大河原の事務所での裏取引の生々しい音声が記録されていた。
織田の声、寺島の怯える声、そして大河原の傲慢な笑い声。
それらは、紛れもなく「告発の証拠」だった。
だが、最後のフォルダに入っていたのは、膨大な数の「メモ」だった。
朝倉はそれを開き、息を呑んだ。
そこには、事件に関することは一切書かれていなかった。
[お兄ちゃんの好きなカレーの隠し味]
[取材で忙しかった時、お兄ちゃんが寝言で言っていたこと]
[お兄ちゃんが昔、私に読んでくれた絵本の一節]
[お兄ちゃんの書いた、三年前の夏祭りの記事。私はあの文章が一番好きだった]
ハルが遺したのは、敵を倒すための武器だけではなかった。
それは、朝倉健という人間が、かつてどれほど真摯に言葉を愛し、誰かを救い、愛されていたかという、失われた「朝倉健」を再構築するための記憶の欠片。
朝倉を縛り付けるための証拠ではなく、朝倉が再び「自分の言葉」で語り出すための、最後のプレゼント。
『お兄ちゃん。……あきらめないで』
動画の最後、ハルはカメラを真っ直ぐに見据えて言った。
『暗闇(くら)を抜けて。お兄ちゃんの名前に戻って。……私は、お兄ちゃんの書く言葉が、世界で一番好きなんだから』
液晶の光が消え、岬には再び暴力的なまでの静寂が戻ってきた。
だが、朝倉の耳の奥には、もうプレス機の「ドォン」という重低音は響いていなかった。
代わりに聞こえるのは、自分の激しい鼓動と、凍てつく喉を通り抜ける、再生への産声のような荒い呼吸だった。
彼は顔を上げ、自販機の灯りの下、血の滲んだ手で古いスマートフォンを握りしめた。
「……書かなきゃ、いけないんだな。ハル」
水平線の紫色の銀色が、ほんの少しだけ、その厚みを増していた。
朝倉は、織田から手渡されたマイクロSDカードを震える指で掴み、ボストンバッグの底に眠らせていた古いスマートフォンを取り出した。
五年前、キャリアを解約して以来、目覚まし時計代わりにさえ使わなくなった化石のような端末だ。
カードをスロットに差し込み、電源を入れる。 暗闇の中で液晶が起動し、網膜を焼くような白さが視界を覆った。
「ハル……」
画面上のファイルマネージャーには、日付順に並んだ数百個の音声データと、数本の動画ファイルが記録されていた。
最後の日付は、五年前の十二月二十八日。
彼女が雪の夜に消える、わずか三日前のものだ。
朝倉は、一番新しい動画ファイルに触れた。
再生ボタンを押した瞬間、ノイズ混じりの映像が浮かび上がる。
画面に映っていたのは、病室の白い天井と、ひどく痩せ細り、透明に近いほど肌が白くなったハルの横顔だった。
彼女はスマートフォンを自撮り棒に固定しているのか、震える手でカメラの角度を調整していた。
『お兄ちゃん、聞こえる?』
スピーカーから漏れた声は、記憶の中の彼女の声よりもずっと掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。背後では、心電図の規則的な音が、死へのカウントダウンのように刻まれている。
『これを、お兄ちゃんがいつ見ているのかは分からない。……でも、もしお兄ちゃんがこれを手にしているなら、それは、お兄ちゃんがもう一度「本当のこと」を知ろうとしてくれた証拠だよね』
ハルは、カメラに向かって力なく、けれど確かに微笑んだ。
『ごめんね、勝手なことして。お兄ちゃんが私のために、あんなに大切にしていたペンを捨てちゃったこと、私、ずっと悔しかった。お兄ちゃんから言葉を奪った人たちのこと、私、どうしても許せなかったの』
映像が切り替わる。
隠し撮りされたものだろう。
荒い画質の中に、朝倉がよく知る人物の顔が映し出された。
寺島社会部長だ。
場所は、病院の面会室。
寺島は、ハルの前で膝をつき、必死に何かを懇願していた。
『ハルちゃん、頼む。朝倉には黙っていてくれ。大河原さんは、これ以上彼が騒がなければ、君の治療費も、朝倉の再就職先も保証すると言っているんだ』
『君が証拠を渡してくれれば、お兄さんは助かる。私が責任を持って、彼を平穏な場所へ隠してやるから』
寺島の声には、かつての威厳など微塵もなかった。
あるのは、保身と罪悪感が混ざり合った、卑屈な男の哀願だけだった。
それに対するハルの返答は、鋭い刃のように寺島を射抜いた。
『寺島さん。お兄ちゃんが一番欲しがっているのは、平穏なんかじゃありません』
『……お兄ちゃんが息をするために必要なのは、正しいことが、正しいと言える世界です』
『あなたが奪ったのは、お兄ちゃんの仕事じゃない。お兄ちゃんの「心」そのものです』
朝倉の視界が、一気に滲んだ。 画面の中で、ハルは咳き込みながら、それでも寺島を拒絶し続けていた。
動画はそこで途切れ、音声ファイルへと続く。
そこには、ハルが命を削って集めた、大河原の事務所での裏取引の生々しい音声が記録されていた。
織田の声、寺島の怯える声、そして大河原の傲慢な笑い声。
それらは、紛れもなく「告発の証拠」だった。
だが、最後のフォルダに入っていたのは、膨大な数の「メモ」だった。
朝倉はそれを開き、息を呑んだ。
そこには、事件に関することは一切書かれていなかった。
[お兄ちゃんの好きなカレーの隠し味]
[取材で忙しかった時、お兄ちゃんが寝言で言っていたこと]
[お兄ちゃんが昔、私に読んでくれた絵本の一節]
[お兄ちゃんの書いた、三年前の夏祭りの記事。私はあの文章が一番好きだった]
ハルが遺したのは、敵を倒すための武器だけではなかった。
それは、朝倉健という人間が、かつてどれほど真摯に言葉を愛し、誰かを救い、愛されていたかという、失われた「朝倉健」を再構築するための記憶の欠片。
朝倉を縛り付けるための証拠ではなく、朝倉が再び「自分の言葉」で語り出すための、最後のプレゼント。
『お兄ちゃん。……あきらめないで』
動画の最後、ハルはカメラを真っ直ぐに見据えて言った。
『暗闇(くら)を抜けて。お兄ちゃんの名前に戻って。……私は、お兄ちゃんの書く言葉が、世界で一番好きなんだから』
液晶の光が消え、岬には再び暴力的なまでの静寂が戻ってきた。
だが、朝倉の耳の奥には、もうプレス機の「ドォン」という重低音は響いていなかった。
代わりに聞こえるのは、自分の激しい鼓動と、凍てつく喉を通り抜ける、再生への産声のような荒い呼吸だった。
彼は顔を上げ、自販機の灯りの下、血の滲んだ手で古いスマートフォンを握りしめた。
「……書かなきゃ、いけないんだな。ハル」
水平線の紫色の銀色が、ほんの少しだけ、その厚みを増していた。
