新年を告げる一〇八つ目の鐘が鳴り終わり、その余韻が冬の夜気に溶けて消えた。
新年の始まり。
しかし、岬のベンチに座る二人の男にとって、それはただ「昨日」よりもさらに深い闇が、音もなく降り積もっただけのことに過ぎなかった。

朝倉は、織田のコートの襟を掴んでいた手を、力なく解いた。
怒りは消えていない。

だが、それ以上に「絶望」という名の冷たい泥が、彼の足元から全身を飲み込もうとしていた。

「寺島さんが……あの人が、俺を売ったというのか」

朝倉の声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。

寺島社会部長。

彼は朝倉にとって、記者としての父も同然だった。
新人の頃、深夜まで赤字を入れられた原稿を前に、「言葉を信じろ、朝倉。お前のペンは、誰かを救うためにあるんだ」と励ましてくれたあの顔。
捏造スキャンダルを突きつけられ、社内に居場所を失った朝倉に、唯一「最後まで味方だ」と言ってくれたあの背中。

それが、すべて芝居だったというのか。

「信じられないのも無理はありません」

織田は乱れた襟を直すこともせず、静かに語り続ける。

「大河原のような男にとって、正義感の強い若造を潰すのは容易い」
「しかし、その背後にある『組織』を黙らせるには、組織の内側に毒を回すのが一番効率がいい」
「彼は、あんたを愛していたからこそ、あんたがどれほど正確に証拠を積み上げ、どこにそれを隠しているかを誰よりも熟知していたのだ」

朝倉は膝を折り、地面に崩れ落ちた。
視界が歪む。
アスファルトの冷たさが、手のひらを通じて心臓まで伝わってくる。

自分が信じていた世界は、砂上の楼閣ですらなかった。
それは最初から、自分を陥れるための巧妙な檻だったのだ。

「……ハルは、それを知っていたのか」

「ええ。彼女は、あんたの部屋のメモを整理しているうちに、寺島氏とのやり取りに矛盾があることに気づいたようです。あの子の洞察力は、記者であるあんた以上だった」
「彼女が私の事務所に来たとき、彼女は寺島氏が裏で大河原と繋がっている証拠まで掴んでいました。彼女は、あんたを守るために、あんたの師を断罪しようとした。……たった一人でね」

朝倉は、自分の拳をコンクリートに叩きつけた。
一度、二度。  
手の甲が割れ、血が滲む。
だが、痛みは感じなかった。

守っていたつもりだった。
病弱な妹を、世間の荒波から隠してやっているつもりだった。

だが、本当は逆だった。泥を被り、毒を飲み、闇の中で戦っていたのは、ハルの方だったのだ。

「彼女は、私にこう言いました。『お兄ちゃんから言葉を取り上げないで。あの人は、書くことでしか息ができない人だから』と」

織田は、首から下げていたライカの裏蓋を、熟練した手つきで開けた。
中から現れたのは、小さな銀色のチップだった。

マイクロSDカード。

それは、現代の魔法の杖であり、同時に多くの人生を狂わせる弾丸でもある。

「この中には、寺島と大河原の密談の音声、そしてハルさんが命懸けで集めた、汚職の決定的な証拠の続きが入っています」
「……朝倉さん。これは本来、五年前のあの日、あんたのペンによって世に出るはずだったものです」

織田は、震える朝倉の手に、その小さなチップを押し付けた。
指先に触れる、冷たくて硬い感触。
 それは朝倉が五年前に捨てた、重たい「言葉」そのものだった。

「なぜ……今さら、俺にこんなものを」

「私は癌です」

織田はさらりと、明日の天気を語るような口調で言った。

「余命は長くない。大河原の『影』として生きてきた私の人生に、救いなどないことは分かっています。地獄へ行く前の、せめてもの悪足がきですよ」
「……それに、私は見たいのです。あんたが、もう一度あの時の目で、この世界を射抜くところを」

朝倉は、手のひらの中の銀色のチップを見つめた。
これを公開すれば、大河原は失脚するだろう。
寺島も、その地位を追われる。

だが、それは同時に、朝倉が再び「言葉の世界」に引き戻されることを意味する。
かつてハルを死に追いやり、自分を廃人にした、あの残酷な戦場へ。

「俺には、もう書けない。……指が、プレス機の油で汚れきってるんだ」

「汚れは洗えば落ちる。だが、死んだ魂は、光を浴びなければ蘇らない」

織田は立ち上がり、海を指差した。
水平線の際が、わずかに、本当にわずかに、紺青色から紫がかった銀色へと変化し始めていた。

夜明けまで、あと数時間。

「朝倉さん。あんたの妹が、最期に手のひらに書いた文字を思い出してください」
「……暗闇(くら)のない、朝(あさ)。彼女は、あんたがもう一度、自分の名前を誇れるようになることを願っていた。……それを叶えられるのは、世界中で、あんたしかいないんだ」

風が吹き抜け、朝倉の頬を打った。
彼は立ち上がり、手のひらのチップを握りしめた。
血と油の混じった拳の中で、銀色の光がかすかに鈍く光っていた。

朝倉は、織田から一歩離れ、まだ見ぬ太陽の方角を見据えた。
その目は、プレス工場の単調な作業の中で死んでいた時とは、明らかに違う色を帯び始めていた。