遠くの街から届く除夜の鐘の音は、重く湿った潮風に洗われ、まるで地底から響いてくる唸りのように岬の空気を震わせていた。
一〇八つの煩悩を祓うというその音は、朝倉健にとっては救いでも何でもなかった。
一音が響くたびに、積み上げてきた絶望の地層が一段ずつ崩れ落ち、その下に埋めていたはずの記憶が、鋭い岩肌のように顔を出す。

朝倉はベンチに深く腰掛け、両膝に肘をついて顔を覆った。
指の隙間から見えるのは、アスファルトのひび割れと、そこに落ちた自分の影だけだ。
隣では、織田と呼ばれた老人が、依然として彫像のような姿勢で暗い海を見つめている。

「……五年前も、こんな音を聞いていた」

朝倉は、自分でも驚くほど乾いた声を出した。

「あの日は、会社をクビになって、荷物を段ボール一箱に詰めて、雪の降る街を歩いていた。ハルが家で待っているのに、どんな顔をして帰ればいいのか分からなかった」
「除夜の鐘が鳴るたびに、自分の人生が削り取られていくような気がして……あの音を止めてやりたいと、そればかり考えていた」

織田はゆっくりと、ライカを構えたまま頷いた。

「あの夜、あんたを尾行させていたのは私です。あんたが駅前の公園で、一時間以上も立ち尽くしていたことも、持っていた段ボールをゴミ捨て場に叩きつけたことも、すべて報告を受けていました」

朝倉は顔を上げ、織田を射抜くような視線で睨みつけた。

「……楽しかったか?一人の記者の人生が、音を立てて崩れていくのを眺めるのは」

「楽しいはずがない」

織田の声には、感情の起伏がなかった。

それがかえって、言葉の背後にある重みを際立たせる。

「当時の私は、大河原進という巨大な神輿を守ることだけが正義だと信じ込まされていた。神輿を担ぐ連中にとって、道に落ちている小石や、行く手を阻む枝は、ただ取り除かれるべき障害でしかない」
「あんたは、その中でも最も鋭く、神輿を担ぐ者たちの足を刺し貫く棘だった。だから、私たちは全力を挙げて、あんたという人間を『無効化』したのです」

「無効化……」

朝倉は自嘲気味に笑った。

「便利な言葉だな。俺のキャリアを奪い、ハルから平穏を奪い、死に追いやったことを、そんな一言で片付けられるのか」

織田は初めて、カメラを首から下ろし、朝倉の方を向いた。

「朝倉さん。あんたが信じている『真実』は、まだ半分に過ぎない」

朝倉の背筋に、氷を流し込まれたような感覚が走った。

「……どういう意味だ」

「五年前のあの大晦日。あんたの記事を握り潰したのは、大河原の圧力だけではない。あんたが最も信頼していた人物……当時の上司であり、あんたを育てた恩師でもある、社会部長の寺島だ」
「彼が大河原側に情報を流し、引き換えに自分の息子の就職先と、将来の理事の椅子を確約させた。……あんたを売ったのは、権力者ではなく、あんたが背中を預けていた味方だったのだよ」

世界が、一瞬だけ音を失った。
除夜の鐘の音が、頭蓋骨の中で乱反射する。

寺島。

自分に「記者のいろは」を叩き込み、捏造スキャンダルが出た際も「信じているぞ」と涙ながらに肩を叩いてくれた、あの男が。

「嘘だ。そんなデタラメに、今さら誰が……」

「証拠は、このライカの中にある」

織田はカメラの底を指差した。

「この中には、フィルムではなく、マイクロSDカードが隠されている。大河原が寺島に現金を渡す瞬間の音声記録と、密約のコピー」
「私はあの日、予備の『保険』として、すべての裏工作の記録を残していた。いつか自分が切り捨てられた時のために。……だが、それを使う機会は、別の形でやってきた」

織田は深くため息をつき、空を見上げた。
厚い雲の隙間から、一筋の星明かりが海面に落ちる。

「ハルさんは、死ぬ三日前、私のところへ来た。自力で歩くのもやっとのような状態で、大河原の事務所に一人で現れたのだ」
「彼女は、あんたを助けてくれと懇願しに来たのではない。……彼女は、あんたが追っていた汚職の『続き』を持ってきたのだ」

朝倉の呼吸が止まった。
ハルが? 
あんなに震えて、外に出ることさえ怖がっていたハルが?

「彼女は言った。兄が命をかけて書いた記事が嘘にされるのは耐えられない。もし兄が書けないのなら、私が証拠を集めると」
「彼女は、あんたが取材中に自宅に隠していたメモや、関係者からの預かりものを整理し、一つのファイルにまとめていた。そして彼女は、それを私に突きつけた。……『これを公表されたくなければ、兄の名前を元通りにしてください』と」

朝倉の目から、熱いものが溢れ出した。
ハル。
お前は、そんな危険な真似を……。
自分を守るために、彼女は一人で「影」の懐へ飛び込んでいったのか。

「私は彼女を追い返そうとした。だが、彼女の目は、あんたの目よりもずっと強かった」
「……結局、私は彼女を裏切った。大河原に報告し、さらなる圧力をかけるよう進言した。その結果、彼女は精神的に追い詰められ、あの夜……雪の中に消えた」

九十、九十一、九十二。
鐘の音は、着実に一〇八へと近づいていく。
朝倉は立ち上がり、織田のコートの襟を掴んで激しく揺さぶった。

「お前が……お前が殺したんだ!ハルを、返せ! 言葉を奪って、妹を奪って、何が 日の出 だ!何が光だ!」

織田は抵抗しなかった。
朝倉の怒りを受け止めながら、ただ悲しげに目を閉じている。

「そうだ。私が殺したも同然だ。だから私は、彼女が死ぬ前に、私に託した『最後の言葉』を伝えるために、今日まで死ねずにいた」
「……朝倉さん。彼女が、あんたの手のひらに書いた『あさ』という文字。あれは、あんたの名前でも、日の出のことでもない」

朝倉の手の力が、ふっと抜けた。

「……何だと」

「彼女は、私が彼女の病室に忍び込んだとき、掠れた声でこう言った」
『あさ、を……あきらめないで』と。……彼女が言いたかったのは、『朝倉(あさくら)』という名前から、『くら(暗)』を抜いた状態。つまり、暗闇のない、本当の『朝』を兄に取り戻してほしいという願いだったのだ」

一〇八つ目の鐘が、ひときわ大きく鳴り響いた。
長い、余韻が、岬の闇を支配する。

カレンダーが、音もなく一枚めくられた。
五年間の凍てついた時間が、織田の告白という熱を帯びて、今、大きな音を立てて割れ始めた。