バスのテールランプが夜の闇に吸い込まれていくと、世界は暴力的なまでの静寂に包まれた。
聞こえるのは、岩肌を執拗に噛む波の音と、吹き付ける潮風が錆びた標識を揺らす乾いた音だけだ。
足元から這い上がってくる寒気は、朝倉が着ている服を容易に通り抜け、容赦なくその芯まで凍らせていく。
プレス工場で浴び続けていた熱気など、ここでは一瞬で霧散し、骨の奥が軋むような冷たさだけが残った。
朝倉はカバンのストラップを指が白くなるほど強く握り直し、隣のベンチに目をやった。
そこに座る老人は、彫像のように微動だにしない。
カシミヤのコートは、深い紺色をしている。
街灯の乏しいこの場所でも、その生地が放つ鈍い光沢が「良質なもの」であることを無言で主張していた。
襟を立て、膝の上で組んだ両手には、黒革のケースに収まった古いライカが握られている。
その佇まいには、この寂れた岬にはおよそ不釣り合いな、洗練された「権力」の匂いが漂っていた。
かつて朝倉が、県庁の奥まった応接室や、高級料亭の入り口ですれ違った人々……。
あるいは、一通の電話で新聞一面のトップ記事を消し去るような、冷徹で淀みのない力を持つ者たちの匂いだ。
朝倉はベンチの反対側の端に、弾かれたように距離を置いて腰を下ろした。
ポケットから安ウイスキーの瓶を取り出し、震える手でキャップを開ける。
喉を焼くような安酒の感覚が、凍えかけた思考を強制的に再起動させる。
一口、二口と流し込むが、内側からの熱は外気の冷たさにすぐにかき消された。
「……こんな時間に、何があるって言うんです」
朝倉は、暗い水平線を見つめたまま呟いた。
会話を求めていたわけではない。
ただ、隣に座る男の発する奇妙な緊張感に、自分の中の「かつての習性」が耐えきれず反応してしまったのだ。
記者の本能は、沈黙の中に潜む異物を看過できない。
老人はゆっくりと、機械仕掛けのように首を動かした。
首から下げたライカが、闇の中で鈍い銀色の光を反射する。
「何もありませんよ。ただ、光が来るのを待っているだけです」
老人の声は、驚くほど澄んでいた。
枯れてはいるが、その芯には鋼のような強さが秘められている。
「ここは、この国で一番早く朝が来る場所だ。一年の汚れを、最初に照らされる光で焼き切りたい……」
「そう願うのは、私だけではないようですが。……そうでしょう、朝倉さん」
心臓が、プレス機の衝撃を受けたように大きく跳ね上がった。
自分の名前―――
なぜこの老人がそれを知っている。
朝倉はウイスキーの瓶を握りしめたまま、老人を凝視した。
老人の視線は、朝倉の油で汚れた指先、そして古びたボストンバッグへと向けられていた。
「俺は、ただの工場労働者ですよ。行く場所がなかっただけだ。……なぜ、その名前を知っている」
「ほう、工場の……。なるほど」
老人は薄く笑った。
その笑みには、隠し事を見透かすような鋭さと、同時に深い慈しみのようなものが混ざり合っていた。
「重い鉄板を叩き潰す音。あれは、内側にある声を消すにはうってつけの音だ」
「しかし、あんたの目は、まだ音に慣れきってはいないようだ。……何かを探している目だ。五年前、私たちがもっとも警戒していた頃の目と、少しも変わっていない」
老人は膝の上のライカをそっと持ち上げ、ファインダーを覗いた。
目の前には、ただの漆黒の海が広がっているだけだ。
星さえも厚い雲に覆われ、露出計も動かないはずの暗闇。
「何も写りませんよ。フラッシュもなしに、こんな闇を撮っても」
「写る、写らないは、大した問題ではありません。大事なのは、レンズを向けておくことです。光が差し込むその瞬間に、準備ができているかどうか」
「人生のほとんどは、その準備のためにあるようなものですから。……朝倉健さん。あんたの書いていた記事、私は嫌いではありませんでしたよ。むしろ、今のこの国に最も必要な、真実の響きがしていた」
朝倉の脳裏に、かつての光景がフラッシュバックする。
政治家・大河原進の汚職を裏付ける、あの「決定的な一枚」を撮影した時のこと。闇の中で政治家と業者が固い握手を交わし、黒い封筒が受け渡された瞬間。
あの時、朝倉は息を殺し、レンズを向けた。
その一枚が、ハルの人生まで壊す引き金になるとも知らずに、自分は世界を変えられると信じていたのだ。
「あんた……一体、何者だ。大河原の、差し金か」
朝倉の声が、わずかに震えた。
老人はカメラを下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。
上質なコートが風にたなびき、彼の背負ってきた長い「影」が地面に伸びる。
「名前を名乗るほどの大層な人間ではありません。ただ、かつては大きな主人の背中を守る『影』の一部でした」
「……忘れるはずがない。あの時、私たちが一番神経を尖らせていたのは、あんたのペンだった。……だが、あの結末は私の本意ではなかった。特に、お妹さんのことは、今でも私の胸を締め付ける」
潮風が、一気に氷のような冷たさを帯びた。
朝倉はベンチから立ち上がり、老人の胸ぐらを掴もうと一歩踏み出した。
だが、老人の瞳にある、底なしの深い哀しみを見て、その手は空中で止まった。
それは憎しみではなく、共有できないほど巨大な罪悪感を湛えた男の目だった。
「お前……大河原の、金庫番の織田……織田秘書か」
「今はただの死に損ないです。織田と呼んでください」
織田。
朝倉が五年前、死に物狂いで追っていた大河原進の最側近。
あらゆる裏工作を指揮し、マスコミに圧力をかけ、朝倉の社会的地位を根底から破壊した張本人。
自分の人生を、そしてハルの笑顔を、紙切れのようにシュレッダーにかけた男が、今、目の前に立っている。
遠くの街から、除夜の鐘の音がかすかに聞こえてきた。
一発、二発―――
一年の終わりを告げる音が、二人の間に漂う殺意と哀愁を切り裂いていく。
「私を殺してもいい。海に突き落としてもいい。あんたにはその権利がある」
「……だが、その前に一つだけ、私と一緒に『日の出』を待ってくれないか。あんたの妹が、最期まで信じていた光を。私は、それをあんたに届けるために、この五年間を生きてきたのだから」
織田は再びファインダーを覗き込み、一ミリも動かずに水平線を見つめた。
朝倉は握りしめた拳を、震えながら下ろした。
憎しみで血管が破裂しそうだったが、それ以上に「妹が信じていた光」という言葉が、彼の心を強く縛りつけた。
世界が新しくなる瞬間に、最も会いたくない男と、最も向き合いたくない過去が、岬の闇の中で鮮明に浮かび上がろうとしていた。
聞こえるのは、岩肌を執拗に噛む波の音と、吹き付ける潮風が錆びた標識を揺らす乾いた音だけだ。
足元から這い上がってくる寒気は、朝倉が着ている服を容易に通り抜け、容赦なくその芯まで凍らせていく。
プレス工場で浴び続けていた熱気など、ここでは一瞬で霧散し、骨の奥が軋むような冷たさだけが残った。
朝倉はカバンのストラップを指が白くなるほど強く握り直し、隣のベンチに目をやった。
そこに座る老人は、彫像のように微動だにしない。
カシミヤのコートは、深い紺色をしている。
街灯の乏しいこの場所でも、その生地が放つ鈍い光沢が「良質なもの」であることを無言で主張していた。
襟を立て、膝の上で組んだ両手には、黒革のケースに収まった古いライカが握られている。
その佇まいには、この寂れた岬にはおよそ不釣り合いな、洗練された「権力」の匂いが漂っていた。
かつて朝倉が、県庁の奥まった応接室や、高級料亭の入り口ですれ違った人々……。
あるいは、一通の電話で新聞一面のトップ記事を消し去るような、冷徹で淀みのない力を持つ者たちの匂いだ。
朝倉はベンチの反対側の端に、弾かれたように距離を置いて腰を下ろした。
ポケットから安ウイスキーの瓶を取り出し、震える手でキャップを開ける。
喉を焼くような安酒の感覚が、凍えかけた思考を強制的に再起動させる。
一口、二口と流し込むが、内側からの熱は外気の冷たさにすぐにかき消された。
「……こんな時間に、何があるって言うんです」
朝倉は、暗い水平線を見つめたまま呟いた。
会話を求めていたわけではない。
ただ、隣に座る男の発する奇妙な緊張感に、自分の中の「かつての習性」が耐えきれず反応してしまったのだ。
記者の本能は、沈黙の中に潜む異物を看過できない。
老人はゆっくりと、機械仕掛けのように首を動かした。
首から下げたライカが、闇の中で鈍い銀色の光を反射する。
「何もありませんよ。ただ、光が来るのを待っているだけです」
老人の声は、驚くほど澄んでいた。
枯れてはいるが、その芯には鋼のような強さが秘められている。
「ここは、この国で一番早く朝が来る場所だ。一年の汚れを、最初に照らされる光で焼き切りたい……」
「そう願うのは、私だけではないようですが。……そうでしょう、朝倉さん」
心臓が、プレス機の衝撃を受けたように大きく跳ね上がった。
自分の名前―――
なぜこの老人がそれを知っている。
朝倉はウイスキーの瓶を握りしめたまま、老人を凝視した。
老人の視線は、朝倉の油で汚れた指先、そして古びたボストンバッグへと向けられていた。
「俺は、ただの工場労働者ですよ。行く場所がなかっただけだ。……なぜ、その名前を知っている」
「ほう、工場の……。なるほど」
老人は薄く笑った。
その笑みには、隠し事を見透かすような鋭さと、同時に深い慈しみのようなものが混ざり合っていた。
「重い鉄板を叩き潰す音。あれは、内側にある声を消すにはうってつけの音だ」
「しかし、あんたの目は、まだ音に慣れきってはいないようだ。……何かを探している目だ。五年前、私たちがもっとも警戒していた頃の目と、少しも変わっていない」
老人は膝の上のライカをそっと持ち上げ、ファインダーを覗いた。
目の前には、ただの漆黒の海が広がっているだけだ。
星さえも厚い雲に覆われ、露出計も動かないはずの暗闇。
「何も写りませんよ。フラッシュもなしに、こんな闇を撮っても」
「写る、写らないは、大した問題ではありません。大事なのは、レンズを向けておくことです。光が差し込むその瞬間に、準備ができているかどうか」
「人生のほとんどは、その準備のためにあるようなものですから。……朝倉健さん。あんたの書いていた記事、私は嫌いではありませんでしたよ。むしろ、今のこの国に最も必要な、真実の響きがしていた」
朝倉の脳裏に、かつての光景がフラッシュバックする。
政治家・大河原進の汚職を裏付ける、あの「決定的な一枚」を撮影した時のこと。闇の中で政治家と業者が固い握手を交わし、黒い封筒が受け渡された瞬間。
あの時、朝倉は息を殺し、レンズを向けた。
その一枚が、ハルの人生まで壊す引き金になるとも知らずに、自分は世界を変えられると信じていたのだ。
「あんた……一体、何者だ。大河原の、差し金か」
朝倉の声が、わずかに震えた。
老人はカメラを下ろすと、ゆっくりと立ち上がった。
上質なコートが風にたなびき、彼の背負ってきた長い「影」が地面に伸びる。
「名前を名乗るほどの大層な人間ではありません。ただ、かつては大きな主人の背中を守る『影』の一部でした」
「……忘れるはずがない。あの時、私たちが一番神経を尖らせていたのは、あんたのペンだった。……だが、あの結末は私の本意ではなかった。特に、お妹さんのことは、今でも私の胸を締め付ける」
潮風が、一気に氷のような冷たさを帯びた。
朝倉はベンチから立ち上がり、老人の胸ぐらを掴もうと一歩踏み出した。
だが、老人の瞳にある、底なしの深い哀しみを見て、その手は空中で止まった。
それは憎しみではなく、共有できないほど巨大な罪悪感を湛えた男の目だった。
「お前……大河原の、金庫番の織田……織田秘書か」
「今はただの死に損ないです。織田と呼んでください」
織田。
朝倉が五年前、死に物狂いで追っていた大河原進の最側近。
あらゆる裏工作を指揮し、マスコミに圧力をかけ、朝倉の社会的地位を根底から破壊した張本人。
自分の人生を、そしてハルの笑顔を、紙切れのようにシュレッダーにかけた男が、今、目の前に立っている。
遠くの街から、除夜の鐘の音がかすかに聞こえてきた。
一発、二発―――
一年の終わりを告げる音が、二人の間に漂う殺意と哀愁を切り裂いていく。
「私を殺してもいい。海に突き落としてもいい。あんたにはその権利がある」
「……だが、その前に一つだけ、私と一緒に『日の出』を待ってくれないか。あんたの妹が、最期まで信じていた光を。私は、それをあんたに届けるために、この五年間を生きてきたのだから」
織田は再びファインダーを覗き込み、一ミリも動かずに水平線を見つめた。
朝倉は握りしめた拳を、震えながら下ろした。
憎しみで血管が破裂しそうだったが、それ以上に「妹が信じていた光」という言葉が、彼の心を強く縛りつけた。
世界が新しくなる瞬間に、最も会いたくない男と、最も向き合いたくない過去が、岬の闇の中で鮮明に浮かび上がろうとしていた。
