水平線の極際が、鋭利な剃刀で切り裂かれたように、鮮烈な朱色に染まった。
それは、夜の闇を無理やり引き剥がすような、暴力的なまでに力強い光の胎動だった。

朝倉健は、その光景を真っ正面から見つめていた。
五年前、ハルを失ったあの日から、一度も直視することができなかった「太陽」が、今、重い海の中からその巨大な体躯を現そうとしている。

「……あの日、ハルと一緒に見るはずだったのは、こんな色だったのかな」

朝倉が呟くと、隣に立つ織田が、静かにライカのシャッターを切った。
カシャリ、という小さな、しかし澄んだ音が、岬の静寂の中に吸い込まれていく。
織田の構えるレンズの先には、もう大河原の影も、血に塗れた汚職の証拠も存在しない。
ただ、光を浴びて立ち上がる、一人の男の背中があるだけだ。

「美しいな、朝倉さん。罪を背負い、言葉を捨て、それでもこうして生きている我々を、太陽は何の躊躇いもなく照らし出す」

織田の横顔は、夜明けの光の中で驚くほど穏やかだった。
彼の死期は近い。
おそらく、この太陽が西に沈む頃には、彼の命の灯火もまた、静かに消え入る準備を始めるのだろう。
だが、今の織田には、かつて「影」として生きた男の悲哀は見当たらなかった。

「私はここで、もう少しこの光を浴びていく。あんたは行きなさい。あんたの場所へ。……あんたには、まだ叩かなければならない鉄があり、書かなければならない明日がある」

朝倉は深く頷き、織田に背を向けた。
足元を照らすのは、もう自販機の青白いLEDではなく、世界を黄金色に塗り替えていく本物の陽光だった。

年が明けた。

岬の麓で朝倉を監視していた黒いセダンは、あの夜を境に、二度とその姿を現すことはなかった。
朝倉が寺島にだけ送信した、あの魂を削り出した手記。
それは、大河原を破滅させるための弾丸にはならなかったが、寺島という男の「最後の良心」を完全に撃ち抜いた。

後に朝倉が風の噂で聞いたところによれば、寺島は大河原に辞表を叩きつけたという。
息子を守るために差し出した、かつての愛弟子の「言葉」を読み、彼は自分がどれほど残酷なインクを撒き散らしていたかを思い知ったのだ。
寺島は、大河原の不祥事に関する内部告発という形ではなく、自らの罪を認め、業界から静かに身を引く道を選んだ。

大河原という巨大な巨像は、依然として政治の中枢で笑っているかもしれない。
だが、その足元を支えていた「沈黙の共犯者」たちは、朝倉が放った「自分自身のための言葉」によって、一人、また一人とその手を離し始めていた。
言葉は武器としてではなく、呪縛を解くための鍵として、確かに機能したのだ。

プレス工場の仕事始め。 朝は相変わらず重苦しい鉄の匂いと、耳を劈くような機械音で始まった。 「ドォン」「ドォン」という重低音が、建物の床を、そして朝倉の鼓動を揺らす。

「朝倉さん、お疲れ! 今年もよろしくな。休み明け早々、悪いね。今日はラインが立て込んでてさ」 同僚の佐藤が、油塗れのタオルで額を拭いながら声をかけてくる。

「……いえ。大丈夫です」

朝倉はそう答えた。

いつものように三〇〇トンのプレス機の前に立った。
だが、その目は違っていた。
ただ「刑期」をこなすように、死んだ魚のような目でレバーを引いていた以前の彼ではない。
彼は今、鉄の塊を叩き潰すその一撃一撃に、自らの命の重みを乗せていた。
形のない感情に形を与え、硬い鉄板を「意味のある部品」へと変えていくその作業は、かつて原稿用紙に文字を刻んでいたあの頃の情熱と、どこか深い場所で繋がっていることに、彼は気づいていた。

昼休み。
工場の裏手にある、錆びついたベンチ。
朝倉は、そこで一人、コンビニのパンを頬張りながら、胸ポケットから一冊のノートを取り出した。

それは、岬へ向かう途中で買った、真っ白な、何の変哲もない手帳だった。
五年前、取材手帳を捨てて以来、彼が初めて手にする「言葉の器」だ。

朝倉は、油で汚れ、タコで硬くなった指で、安物のボールペンを握った。
ペン先を紙に落とす。
かつてのように、誰かを断罪するための言葉ではない。
大河原を失脚させるためでも、寺島を呪うための言葉でもない。

[一月四日。今日の太陽は、少しだけ温かかった。]

ただ、それだけの一行。
けれどそれは、朝倉が「記者」という肩書きを捨て、一人の「人間」として、自分の足で大地を踏みしめて紡ぎ出した、最初の一歩だった。

社会は、何一つ変わっていないように見える。
しかし、朝倉の胸には、かつてないほどの静謐な誇りが宿っていた。
彼はもう、暗闇(くら)の中にいない。
ハルが手のひらに遺した、あの三文字。
「あさ」 それは、誰にも汚されることのない、彼自身の再生の儀式だった。

朝倉は手帳を閉じ、再びプレス工場の喧騒の中へと戻っていった。
工場の高い天窓から差し込む一筋の光が、彼の作業着に染み込んだ油を、まるで銀細工のように美しく輝かせている。

彼の人生は、ここから始まる。
ペンを武器としてではなく、自らの魂を耕すための道具として、もう一度握り直すために。

空はどこまでも高く、澄み渡っている。
そこにはもう、凍てつく雪の予感など、どこにもなかった。

Sunrise, sunrise,
Looks like morning in your eyes

(了)

※本作の結末における一節は、Norah Jonesの楽曲「Sunrise」(作詞・作曲: Lee Alexander / Norah Jones)より引用しています。