「……続いて、年末年始の天気予報です。今夜から元日にかけて、日本海側を中心に強い寒気が流れ込むでしょう」
「なお、太平洋側の沿岸部では概ね晴天に恵まれ、各地で絶好の『初日の出』が期待できる見込みです」

工場の隅、埃を被った棚の上に置かれた古いラジオが、誰に宛てたわけでもない無機質な声を響かせていた。

朝倉健は鼻先で短く息を吐き、手元のレバーを引いた。三〇〇トンのプレス機が空気を切り裂き、「ドォン」という重低音とともに鋼鉄の板を叩き潰す。
飛び散る火花と、肺を重くさせる機械油の霧。
耳栓を貫通してくるその暴力的な振動だけが、今の朝倉にとって唯一信頼できる現実だった。

「期待、か」

朝倉は、誰に聞かせるでもなく吐き捨てるように呟いた。
期待という言葉は、持たざる者にとっては劇薬でしかない。
かつての朝倉なら、その予報を聞いて即座に明日の紙面の構成を練り上げただろう。

「初日の出を待つ人々」という、ありふれているが温かな、読者の体温を一度上げるような記事を書くために。

かつての彼は、ペン一本で世界を正せると信じていた。
新聞記者という職業は、彼にとって単なる仕事ではなく、己の正義を証明するための「聖域」だったのだ。
だが、今の彼にとって太陽が昇るか否かなど、明日のシフトが休みか否か以上の意味を持たなかった。

午後五時。

終業を告げるブザーが、静まり返った工場に響き渡る。

「朝倉さん、お疲れさま!今年も世話になったね」

同僚の佐藤が、油のついた顔をほころばせて近寄ってきた。

彼はもう、正月に食べる餅の話や、孫にやるお年玉の算段で頭がいっぱいなのだろう。

「……お疲れさまです」

「朝倉さんも、今夜くらいは美味いもん食いなよ。じゃあ、良いお年を!」

良いお年を。
その言葉が投げかけられるたび、朝倉の胸の奥で、砂を噛んだような嫌な感触が広がった。
この工場の連中は、朝倉のことを「元新聞記者」だとは誰も知らない。

ただの寡黙で、どんな過酷な夜勤も文句ひとつ言わずに引き受ける、便利な「穴開け屋」だと思っている。

それでよかった——————

言葉を捨て、思考を捨て、ただ鉄を叩く機械の一部になること。
それが、朝倉が自分に課した無期限の「刑期」だった。

誰もいなくなった工場で、朝倉は最後の一人になるまで残った。
床に散らばった鉄のバリ(切り屑)を丁寧に掃き集め、プレス機のスライド部分に新しいグリスを差す。

ふと自分の手を見た。
指先は機械油が深く染み込み、安石鹸でいくら擦っても落ちない黒い層ができている。
かつて万年筆を握り、真実を暴くためにキーボードを叩いた指は、今や硬いタコに覆われ、紙の肌触りさえ判別できないほど繊細な感覚を失っていた。

「言葉」を捨てたのには、逃れられない理由がある。

五年前。

地方紙の記者だった彼は、県政の大物・大河原という政治家の汚職を執拗に追った。
あと一歩で決定的な証拠を掴めるというその時、巨大な「影」が彼を襲った。
記事は上層部の圧力で握りつぶされ、朝倉自身に身に覚えのない収賄スキャンダルを捏造された。
一晩にして彼は「正義の記者」から「汚れた嘘つき」へと突き落とされたのだ。

だが、本当の地獄はその先にあった。
自宅にまで押し寄せる報道陣。
深夜に鳴り止まない誹謗中傷の電話。
その渦中で、唯一の家族であった妹のハルが壊れていった。
元々体が弱かった彼女は、激しい嫌がらせによるストレスで持病を悪化させ、パニック障害を併発した。

あの日、真っ暗な部屋の中で、ハルは誰に助けを求めることもできず、静かに息を引き取った。
彼女が死んだのは、僕が言葉を武器にしたからだ。僕が真実なんてものを追いかけたからだ。

以来、朝倉は文字を読むことも、書くこともやめた。

アパートに戻り、暖房もつけずに作業着を脱いだ。
六畳一間の冷え切った部屋。
机の上には、マフラーを巻いて笑うハルの写真。

「……ハル。今年も、あの場所へ行ってくるよ」

朝倉は押し入れの奥から、五年間一度も手入れをしていないボストンバッグを取り出した。
中には、プレス工場の油の匂いとは無縁な、インクの匂いのする古い取材手帳が入っている。
朝倉は数枚の千円札と、半分だけ残った安ウイスキーのポケット瓶をカバンに詰め、家を出た。

目的地は、海沿いにある寂れた岬。
かつてハルが、最後に「お兄ちゃんと、誰にも邪魔されない 日の出が見たい」と言い遺した場所。

夜九時。

駅前のロータリーには、岬行きの臨時夜行バスが停まっていた。
エンジンが低く唸りを上げ、バスがゆっくりと動き出す。車窓に流れる街の灯りは、幸福な人々の体温を閉じ込めているようで、朝倉 にはひどく眩しすぎた。

バスが市街地を抜け、漆黒の闇が支配する海岸線を走り始める。
朝倉はポケットからウイスキーを取り出し、キャップを開けた。
喉を焼くアルコールの感覚が、暴れ出す記憶を少しだけ鎮めてくれる。

ハル。お前が死ぬ間際、震える指で僕の手のひらに書いた「あさ」という文字。あれは一体、何を伝えたかったんだろう。

その答えを知るために、彼は今日、このバスに乗っている。
五年間、一度も顔を上げることができなかった「日の出」を、もう一度だけ、その目に焼き付けるために。

「……終点、岬公園前です」

運転手のやる気のない声が響き、朝倉は闇の中へと一歩を踏み出した。

潮風が頬を刺す。
錆びついたベンチに、一人の老人が座っていた。
老人は不釣り合いなほど上質なカシミヤのコートを着て、身じろぎもせず、暗い海の向こう側をじっと見つめていた。
その首からは、鈍い光を放つ古いライカがぶら下がっていた。