それは緋色の花びらに見えた。
ゆらり、ゆらりと舞い落ちては消える音のない世界。
この風景は覚えてる……。
璃夜は気付いた。
あのときのことを夢に見ているのだと。
だとしたらあれは花びらではなく火の粉だ。
何もかも燃えてしまったあの夜の出来事。
本当は怖かったのに。
この炎に包まれたら、楽になれるのではないかと、そう思ってもいた。
このまま炎に包まれてしまっても、きっと悲しむひとは誰もいない。
ひとりぼっちで生きるのは寂しくて辛い。
だからもういいや。
ぜんぶ手放して終わりに………。
炎が迫る中で、璃夜は心を手放そうとしていた。
けれど誰かの声が、璃夜の心を呼び戻した。
「どうしてそう思うんだい?まだ出逢ってないだけなのに」
(………だれ?)
知らないひとの声がして、そのひとは動けなかった璃夜を炎の中から救い出して言ったのだ。
「君は生きてていいんだ。生きていてほしい」
それはまるで、優しい光のような声と言葉だった。
【第一話】
今朝の玉子焼きはいつもの味にならなかった。
鮭を焼く香ばしい匂いの立つ台所で、璃夜はため息をついた。
形も色艶も良いのに、味見をするといつもの玉子焼きと違う。
あれはまだ戦前、璃夜が小さくて幼く、信州の田舎町で祖父母と暮らしていた頃。
初めて祖母に玉子焼きの作り方を教わってから、もう何度も作っていたはずなのに。
この家の台所にまだ慣れていないせいだろうかと思ったりもするが。
それでも玉子焼きには自信があった。
不味くはないが、甘さが少なかったのかもと思ったけれど。甘さが足りないなんて、贅沢なことだ。
終戦から五年が経ち、食糧不足が改善されてきているという話は聞くが、依然として闇市も配給制度も無くなってはおらず、必要としている国民は多い。
それなのに、このお屋敷には甘味料だけでなく、塩や醤油、味噌はもちろん、璃夜が知らない異国の珍しい調味料もあり、米や野菜などの食材も足りている。
このお屋敷〈傅雲邸〉に来て二ヶ月が経ち、台所をひとりで任せられてからは一ヶ月になる。
まだまだ驚くことも落ち込むことも多い日々だ。
この玉子焼きは食べ慣れた味に作れなかっただけで、決して失敗作ではないのだが。
昨夜に見た夢のせいもあって余計に気が滅入る。
だがいつまでも気にしているわけにもいかず、璃夜は気を取り直し、残りの献立を作り終えた。
今日の朝ご飯は焼鮭と玉子焼き。それから作り置きしてあった〈ほうれん草の胡麻和え〉と〈胡瓜の浅漬け〉を小鉢に用意する。
お味噌汁は小松菜、大根、人参と具沢山だ。
白米も羽釜の中で艶よく炊けている。
急須と湯呑みも戸棚から出し、家主が食後に好むお茶も用意する。
家主の名は傅雲 蒼玥。
蒼玥は璃夜の夫ではあるが、ワケあって契約上の『旦那さま』だ。
璃夜の旧姓は望月。生まれは信州の田舎町だった。
幼い頃に亡くなった両親の代わりに、父方の祖父母がたくさんの愛情を注いで育ててくれた。
質素な暮らしではあったが、優しい祖父母と過ごす毎日は幸せだった。
けれど終戦を迎えてから三年後、璃夜が十五歳のとき高齢だった祖父母が相次いで亡くなった。
そして疎遠だった叔母の君江が突然やって来て保護者を名乗り、璃夜は東京へ連れて行かれた。東京に来た当初は気遣いのあった君江だったが、月日が経つにつれ様子は変わり、君江は夫と暮らす邸で璃夜を使用人として扱うようになった。
それから二年、璃夜は十七歳になった。
屋敷での辛い仕事や、冷酷な伯母から受ける嫌がらせにも璃夜は耐えてきたが、屋敷で何より恐ろしかったことがある。
それは佐久間 泰造という名の君江の夫が人間ではなかったことだ。
人外、妖怪、魑魅魍魎。
璃夜は幼い頃から、そういった類いの生き物を見ることができた。
けれど「そういう力は隠して生きるんだよ」と祖父母に言われて育った。
泰造は人間の姿に化けているようだが、璃夜に見えていたのは人間とは程遠い姿だった。
赤黒い塊が人の輪郭を作り、そこには目も鼻も口もないという異質な存在。
君江とは内縁関係だった泰造が屋敷に来るのは週に一、二回程度で、来訪時はいつも君江が自ら献身的に泰造の世話をしていたので使用人たちを呼ぶことは少なく、璃夜もその姿を遠目に見るだけで済んでいた。
けれどあの日。
今から三ヶ月ほど前の三月の末。異変が起きた。
真夜中に屋敷が炎に包まれたのだ。
あの晩のことを、璃夜はあまり思い出せずにいる。
記憶障害は火災による精神的ショックで一時的なものと診断されていた。
璃夜はしばらく入院していたが、怪我もなかったので退院後は通院も薬の必要もないという診断が出た。
璃夜のほかに屋敷で働いていた使用人たちは皆、火災の犠牲になり君江も泰造も亡くなったと聞いている。
ただ、君江と泰造の遺体だけは見つかっていないという話だった。
(……私だけが助かった)
助けられたのだ。
璃夜を助けてくれたのが傅雲 蒼玥だった。
禍々しく燃え盛る緋色の炎の中に、突然差し込んだ銀色の眩しい光と風。
次に現れたのは神主のような白装束姿をした人の姿だったが『人』ではないと璃夜は感じた。
璃夜を見つめる瞳は濃い藍色で。
肩にかかるくらい長さのある髪は白銀色に輝いていたのだ。
しかも頭にはふっくらとした獣の耳。
そして腰の後ろからふっさりと伸びて揺れる、もふもふした尻尾まであったのだから。
そのときはまだ名前すら知らなかったけれど。
その後、入院中に分かったことが幾つかある。
蒼玥は『妖類 怪異 追捕部隊』に属していると言った。
それは怪異の原因究明と事件などに関わっているとされる妖の存在を追って捕獲、又は祓うことを仕事とする国の組織だという。
けれど政府はその部隊の存在を公にしていない。
怪異や妖の存在が国民に恐怖と混乱を与えかねないから、というのが理由だとか。
「部隊って言っても隊員は少ないんだ。隠密に動くことも多いからね」
入院中ほぼ毎日、璃夜のいる病室へ顔を出していた蒼玥の話では、佐久間邸の火事は怪異扱いとなり、火災は妖が起こした事件とされ、未だ調査中であるという。
「あの妖は逃げているんですか?」
「……そう。まだ行方不明なんだ、佐久間泰造は。それで君は泰造が妖だと思うのかい?」
蒼玥の言葉に璃夜はハッとした。
あの妖、なんて言ってしまった。
それは妖が見えることを自ら露呈したようなものだ。
「それじゃあ僕に関しても、もしかして見えてるモノがあるのかな?」
蒼玥のさらりとした言い方に驚いた。
妖が見えるという奇異な娘を前にしても動じるところがない。
そのうえ浮かべている表情も柔らかな笑みで。不思議とこちらに警戒心が起こらない雰囲気があった。
璃夜は躊躇いながらも正直に答えた。
「私が見えるのは、あなたの髪の色が違うことと、狐のような耳と大きな尻尾があることです」
あの火災の中、璃夜の前に現れたときの蒼玥の髪色は闇夜に輝くお月様のように綺麗な色だった。
けれど今、目の前にいる蒼玥の髪は真っ黒だ。
それでもじっと集中して彼を見ていると銀髪が見えてくる。そして狐のようなふっさりとした耳も、モフりとした尻尾も、ぼんやりと見える。
瞳はあのときと同じ濃い藍色のままだったが。
「当たりだ」
蒼玥はなぜかにこにこしながら答えた。
彼は確かに燃え盛る炎の中から自分を救ってくれた。
あのときは神職が着るような白装束だったけれど、見舞いに来るときはいつも洋装で背広姿だった。
よく見れば顔立ちも整っていて上背もあり、しっかりとした体つきなので、洋装も和装もどちらも似合いそうだと璃夜は思った。
「それじゃあ決まり」
「え?」
病室のベッドの上で首を傾げる璃夜に向かって蒼玥は言った。
「傅雲家で君を保護しよう。それから僕のお嫁さんになってほしいな。とりあえず契約婚ね」
何言ってるんだろう、このひと………じゃなくて、半妖?
でもなんでお嫁さん?
それから契約婚?
あろうことか病室で、出逢って間もない彼の突然すぎる申し出は、その後の璃夜の生活を一変させる出来事となった。
♢
振り子時計に目をやると、もうすぐ七時。
西洋風の炊事場は床となる板間が広く続いている作りになっていて、壁などの間仕切りもないため、大きな窓のある奥の一室までよく見通せる。
蒼玥はいつも七時くらいにここへ来ることが多い。
ときどきはもう少し早起きをして、奥の一室の窓際にあるテーブルの席に着き、朝刊に目を通していることもある。
朝食の支度が済んだ璃夜は奥の間へ進み、窓から外を眺めた。
和洋折衷という言葉があるが、日本風と西洋風の様式を取り入れた傅雲の屋敷は庭も広い。
月に一度は庭師が来て、樹木の剪定や草花の手入れをしていると聞いた。
教えてくれたのは屋敷の使用人で多眞という名の老女だ。
現在、傅雲の屋敷には家主の蒼玥と、契約婚で嫁になった璃夜、そして使用人の多眞が暮らしている。
多眞は璃夜が屋敷に来てから、ここでの暮らしに慣れるようにといろいろ教えてくれたのだが。
普段あまり多眞の姿を見ることがない。
用があるときは名を呼ぶ。するとどこからか現れる。そんな多眞さんも人ではなさそうだと璃夜は思う。なぜなら灰色をした猫の耳と二本の尻尾が璃夜には見えるからだ。
けれど恐ろしさや邪悪な気配は感じられず、親しみやすさがある多眞はとても親切だった。
火災で私物を失った璃夜のために、新しい衣服を用意してくれたのも多眞だった。
叔母から使用人の扱いを受けていたときは、着古したものを繕いながら使っていたが、ここで用意された衣服はどれも普段着にするには勿体無いような衣服ばかりだった。
エプロンや割烹着なども素敵な布地で仕立てられ、和装にも洋装にも合うデザインになっていて璃夜を驚かせた。
ちなみに今日は黄色みがかった灰白色のブラウスに薄青色のスカート。そして白い『フリルエプロン』を選んだ。
しばらくは洋服選びにも慣れない毎日だったが、最近はどれを着ようか楽しめるようにもなってきた。
ありがたいことだと璃夜は思う。
もしかしたら自分は、あの大火事で命を落としていたかもしれないのだ。
入院中だった病室で契約婚を申し出た蒼玥は璃夜に言った。
「僕は君の見ている通り、狐の耳と尻尾がある。この事を知るのは限られた少人数で、話せば長くなるから今は簡単に言うけど。僕は『半妖』と言って、人と妖の血を半分ずつ継いでるんだ。血と言っても〈妖の血〉は人間の血とは違って『霊力』とも言うけどね。僕のご先祖様は神使の眷族、白狐なんだ」
璃夜は驚きで言葉も出ずに蒼玥の話を聞き続けた。
「君の見る妖の中には僕のような眷属もいれば、人間との〈混ざり〉がない妖もいる。見るからに恐ろしい姿の妖怪や、そうでもない妖とかも。見たことはない?」
「……それは恐ろしさが感じられない妖ですか?よくわからないモノが見えても、恐ろしさを感じないときもあります」
蒼玥は頷いた。
「人に対して悪意や敵意、邪気を向けてない妖だね。妖の中には人に害を為すやつもいれば、そうでない妖だっている。君はそういう気配を感じる力があるんだ」
───そういえば。
祖父母と暮らしていた頃に見た妖は、驚くことはあっても、恐ろしいと感じることはなかった。
それはいつもおばあちゃんが………。
いつも?
祖母がどうしていたっけ。
璃夜は何か忘れていることがあると感じた。
大切な何かを。
「僕の結婚相手はね、普通の女性じゃダメなんだ。君みたいに異能をもってないと。それも特別な力をね」
「とくべつ? でも私、あやかしとか見えるだけですよ?」
「見えて感じるでしょ?敵意とか、邪悪さとか。悪い妖か、そうでないかを判断できる。そして君にはまだ秘めた霊力があると思う。半妖の僕には目の前の相手が異能者かそうでないかが判る。そして特別な力は君が忘れているだけなんだ」
「……あなたは知ってるんですか?私が持ってるその『とくべつな力』というのを。なんで……どうして?」
蒼玥は少しだけ困ったような笑みを浮かべて言った。
「僕が話せることは限られてる。君の記憶は君のものだから。少しずつでも君が思い出していく方がいいんだ。僕だって全部を知ってるわけじゃないし、予想でしかない。だから安易に言いたくない。……ごめんね。不安にさせたら謝るよ」
蒼玥の頭の上で狐耳がぺこりと垂れた。
しょんぼりとした雰囲気で、困らせてごめんなさいと言っているみたいに。
「……私、思い出したいです。でもどうしたらいいのか……」
「うん。霊的な場所や空間でのんびり過ごせば、きっと思い出せるようになる。だから僕の家で君を保護したいんだ。僕の屋敷は穴場だからね」
「あなば?」
「君にとって居心地の良い場所という意味だよ。僕が衣食住を提供するから」
璃夜は改めて気付いた。自分は火災で全てを失い、帰る場所のないことを。
祖父母と暮らしていた信州の家は、君江が勝手に売却していたのだ。
「あの……私、あなたのお屋敷で働きます」
嫁でなくても使用人でいいのではないだろうか。
「お掃除やお炊事でも。なんでもやりますから。だから……」
だから契約婚などしなくても。
「なんでもやってくれるなら、お嫁さんでもいいはずだよね?」
「ぇっ……。そういう意味で言ったわけではなくて………」
「それに使用人ではのんびりもしてられないでしょ。お嫁さんなら三食昼寝付きだよ」
こちらに向ける蒼玥の眼差しが、細められた目が、なんだか少し意地悪に思えた。
「なぁんて。実はね、僕の周りがうるさくて。二十六才にもなるとさ、早く嫁をもらえとか、見合いしろとかうるさいんだ。君みたいな若い乙女を保護することになって、そのうえ住み込みの家政婦として屋敷で扱うなんてことになれば、益々騒ぎになる。どうせなら表向きだけの『お嫁さん』にすれば連中もおとなしくしてくれると思うから」
それって、つまり縁談避け?
「傅雲さんは結婚するのが嫌なんですか?」
「え? あぁ、いや。結婚が嫌とかそういうわけではなくてね。さっきも言ったけど、結婚相手が普通の人間女性じゃダメってやつ。それは半妖が持つ〈妖気〉がね、あ、妖気は霊力に含まれる内在的なエネルギーのひとつなんだけど。その妖気が人間に悪い影響を与えることが多いんだ。長く一緒にいると相手が病気になったり、寿命を縮めたり。でも異能とか霊力がある人間であれば影響がないんだ」
(だから私? 妖を見る異能を持つ私は普通ではないから?)
心の中で思っても、璃夜には口に出す勇気がなかった。
「妖の中にはね、人間の血肉を喰らうものもいれば、気魄を糧にするものもいる。気魄というのは人間の精神で、その精神を乗っ取ったり、取り憑く、とも言うかな。結局は糧にして喰らう目的で人を殺める妖怪もいる。半妖も……半分人間でもね、そういう習性があるんだ」
「傅雲さんも?」
頷いた蒼玥の表情はどこか辛そうに見えた。
「でもそんなことは絶対にしたくないから、自分の妖気や霊力を抑えたり自分で封じたり。……でもそうしていると、今度は飢えてしまう」
「飢える?」
「力の抑制が緊張状態となって飢えが起こるんだ。飢えると邪気が増えて『人』である部分も蝕まれてしまう。……そうなるともう、半妖ではなく邪悪に染まった妖怪だ。そして暴走が始まり人を襲うようにもなる」
淡々と話してはいるが、璃夜は蒼玥から苦しみや怒りの感情が伝わってくるのを感じていた。
「でもそうならないためにできることがあってね。人間を糧にせず、妖気や霊力を抑えても飢えが起きないようにするには、常日頃『良質な霊力』を摂取すればいいんだ。幸いなことに君の霊力は良質だ。妖が見えるという異能があって霊感を持つ君なら、僕の妖気で体調が悪くなることもないし、必要なときに君の気魄を分けてもらうこともできるしね」
それってつまり、自分は『出来のいい食材』扱い?
奇怪な話に動揺しながらも璃夜は思った。
「それに君のような良質者が作る食事には、霊力も宿るんだ。耳や尻尾を隠し続けるにも力を結構使うから。そのせいで僕はいつも霊力に飢えてる。だから君の手料理が食べられたらとても助かる」
私が作る料理が彼の飢えを満たす……?
とても信じ難い話に困惑するが、蒼玥の話はまだ続いた。
「それに〈人間の気魄〉だけでなく〈良質な霊力〉を欲しがる野蛮な妖怪もいる。君を保護するということは、そういう妖から護る意味もあるから。だから安心して屋敷に来て欲しい」
蒼玥は真っ直ぐに璃夜を見つめて言った。
真剣な眼差しに恐ろしさは感じられない。藍色の瞳はこちらを優しく包むような眼差しで。
璃夜の心を温かくさせる不思議な力があった。
この先、どう生きていけばいいのかという不安は大きい。
傅雲さんは、半妖だけどきっと悪い妖ではない。
璃夜は自分の直感を信じることにした。
「……わかりました。あなたと契約婚をします。───どうぞ、よろしくお願いします」
病院のベッドの上で、璃夜は姿勢を正し頭を下げた。
「こちらこそよろしく! ……璃夜って呼んでもいいかい?」
璃夜は頷いた。
「嬉しいなぁ!」
蒼玥は狐耳をぴこぴこ動かし、ふさふさの尻尾をぱたつかせ、とても喜んでいる様子だった。
◇
(旦那さまの尻尾、ちょっと触ってみたいなぁ)
蒼玥が来るのを待ちながら過去を振り返り、璃夜は思った。
(白銀の髪もサラサラで羨ましい)
肩上までの長さがある璃夜の髪は柔らかいが、まとまりにくい焦茶色で。真っ直ぐでサラサラな髪質には憧れがあった。
蒼玥は髪を首の後ろで束ねていることが多いのだが、その結び方はいつも粗雑だ。
(自分で結んでいるのかな。お手伝いとかできたら……。でもそこまでは必要ないのかも)
自分は『縁談避け』で、霊力の宿る食事を作り、それを蒼玥に提供することが契約条件で。
婚姻は表向き。璃夜に与えられた〈妻〉や〈嫁〉という立場は偽物なのだ。
璃夜は余計なことを考えてしまったと思いながら庭に目を向けた。
外には純白の百合が咲き、梅雨が明けて暑い季節を迎えようとしていることがわかる。
璃夜はまだこの広い庭の全容を知らない。
屋敷の中でさえ、まだ立ち入ったことのない部屋がいくつもある。
蒼玥は「屋敷の中も庭も、探検していいよ」と言っていたが、あまり気が乗らなかった。
(でもあれはとても気になる)
璃夜は視線を上げた。
樹木の名前には詳しくないが、庭は奥へ行くほど高さのある木が立ち並び、まるで杜のような雰囲気だった。
そして今、璃夜が窓越しに見上げる先、少しだけ遠くに、大きくて黒いものが木々の隙間から見え隠れしている。
───黒い鳥居だ。
黒くてあんなに大きな鳥居を見るのは初めてだった。
けれどあの大きさであれば屋敷の正面玄関からもその姿が見えていいはずなのだが。
璃夜が毎朝、朝刊を郵便箱から取り出すために外に出ても、この黒鳥居が見えることはない。
だがこうして屋敷の中からは見える。
不思議なことにあれは『窓から庭が見える部屋』であれば必ず、黒鳥居の一部分が見えるのだ。
よく通る廊下や、多眞の指示で決められた日に掃除を行う部屋、応接室や客間。
そして璃夜が使うようにと与えられた部屋の窓からも黒い鳥居が少しだけ見える。
どうしてなのかはわからないが、あれはきっと限られた場所でしか見えないのかもしれない。
庭の奥に神社でもあるのだろうか。
ぼんやりと考えながら黒鳥居が見え隠れする空を眺めていると、突然、白く丸みを帯びた何かが鳥居の近くを横切った。
それは風に流されるように、ふわりと舞うような動きだった。
けれどそのまま上空へ舞い上がらなかった。ならば鳥居の下の方へ降りたのだろうか。
璃夜は気になってつま先立ちになったり、無理だとわかっていてもぴょんぴょん跳ねてみるのだが。
白くて丸い何かはもう見えない。
なんだったのだろう。
───璃夜が思案していると、背後でクスクスと笑う声が聞こえた。
驚いて振り向くと、白いワイシャツに紺のスラックスという服装姿の蒼玥が、少し離れたところに立っていた。
「おはよう、璃夜。朝から変わった体操だね」
「あ……おはようございます。え……体操?」
「来てみたら君がウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてるから」
蒼玥は思い出したようにまた笑った。
「いえ……あの。体操してたわけではなくて……。旦那さま、そんなに笑わなくても。そんなに可笑しかったのですか?」
「うん、可愛いくてニヤけてしまった。僕の奥さんはなんでぴょんぴょん跳ねてるのだろうと思って。どうした?何か見えたのかい?」
こちらに歩いてくる蒼玥に尋ねられても。
可愛くて、という慣れてない言葉を言われて。
なんだかとても恥ずかしい気持ちでいっぱいになる璃夜だった。
「あの。さっき、不思議なものが見えて……」
璃夜は蒼玥に説明した。
「一瞬だったけど、もっとよく見えないかと思って。それで私……」
「そうか、それでぴょんぴょん跳ねてたんだね。庭は広範囲に結界も張ってあるから、危険なものではないと思うよ」
「そうですか。結界、というのはあの黒い鳥居ですか?」
「あの鳥居は少し違うんだ。結界の役割も多少はしているけど、別の役割もしていてね。でもその白くて丸いやつに璃夜が一瞬でも恐怖を感じなかったなら、気にしなくて大丈夫だよ」
「そうですね、わかりました」
「安心できたならご飯にしてくれる?お腹が鳴りそうだ」
「はい。すぐ用意しますね」
黒鳥居についてはまだ詳しく聞いてみたい気もしたが。
(お休みの日とか、もっと時間のあるときにしよう)
璃夜は朝食を運ぶため炊事場へと向かった。
食事が始まって数分。
玉子焼きを食べる蒼玥を、璃夜はじっと見つめてしまう。
「どうしたの?僕の顔に何か付いてる?」
「いえ……あの。今朝の玉子焼きの味なんですけど」
璃夜は甘味が足りないのではときいてみた。
「そうだなぁ。好みとしてはわりと甘めの玉子焼きが好きだけど。今朝の玉子焼きも美味しいよ。料理には璃夜の霊力が込められてるから、余計に味わい深いよ」
「そうですか。お口に合うのならよかったです」
霊力入りの料理が味わい深いなんて。
半妖の味覚はどうなっているのだろう。
不思議で疑問に思うが、蒼玥がとても美味しそうに食べるので不安は解消された。
「あの、旦那さま」
「なんだい?」
蒼玥は今朝も黒髪を首の後ろで一つに束ねているのだが。その結い方は大雑把で、結び紐から外れた髪がとても気になる。
直して差し上げたい!
「……あの、お髪《ぐし》が上手く結べてないようなので気になって。よろしければ後で私が梳かして結び直してもいいでしょうか」
あえて意図的に残した後れ毛などが、本人を艶っぽく見せることもある。そんな雰囲気も蒼玥には似合うだろうけれど。
出勤前の身支度は、きちっとまとめて結んだ方がいいと思うのだ。
「あ、すみません。私、よけいなコトを……」
蒼玥からの返答がすぐにないことで、璃夜は勝手な判断だったと慌てて俯く。
自己嫌悪に陥りながら、そっと顔を上げると、蒼玥はなんだか驚いた表情でじっと璃夜を見つめながら言った。
「ほんとにいいの?」
「え?」
「璃夜が僕の髪を梳かして、そのうえ髪を結んでくれるの?」
「はい、ご迷惑でなければ」
「迷惑なものか!とっっても嬉しいよ!」
璃夜にだけ見えている蒼玥のふさふさした尻尾がピンと立ってから大きく揺れた。
「じゃあ早くご飯を食べてしまわないとッ」
尻尾を揺らしながら蒼玥は大急ぎで食べ始める。
「───ぁあのッ、旦那さま。そんなに慌てなくても。ちゃんとよく噛んで食べてください」
璃夜の言葉に蒼玥は照れくさそうに頷いて笑った。
蒼玥は自分よりも年上なのに、ときどき子供のように無邪気に笑う。
そんな様子を見ていると、とても優しい気持ちになるから不思議だ。
契約上の妻としてこの屋敷へ来てから、慣れないこともまだ多いけれど。久しく忘れていた穏やかな暮らしや楽しさを感じている自分に驚く反面、嬉しくも思う璃夜だった。
ゆらり、ゆらりと舞い落ちては消える音のない世界。
この風景は覚えてる……。
璃夜は気付いた。
あのときのことを夢に見ているのだと。
だとしたらあれは花びらではなく火の粉だ。
何もかも燃えてしまったあの夜の出来事。
本当は怖かったのに。
この炎に包まれたら、楽になれるのではないかと、そう思ってもいた。
このまま炎に包まれてしまっても、きっと悲しむひとは誰もいない。
ひとりぼっちで生きるのは寂しくて辛い。
だからもういいや。
ぜんぶ手放して終わりに………。
炎が迫る中で、璃夜は心を手放そうとしていた。
けれど誰かの声が、璃夜の心を呼び戻した。
「どうしてそう思うんだい?まだ出逢ってないだけなのに」
(………だれ?)
知らないひとの声がして、そのひとは動けなかった璃夜を炎の中から救い出して言ったのだ。
「君は生きてていいんだ。生きていてほしい」
それはまるで、優しい光のような声と言葉だった。
【第一話】
今朝の玉子焼きはいつもの味にならなかった。
鮭を焼く香ばしい匂いの立つ台所で、璃夜はため息をついた。
形も色艶も良いのに、味見をするといつもの玉子焼きと違う。
あれはまだ戦前、璃夜が小さくて幼く、信州の田舎町で祖父母と暮らしていた頃。
初めて祖母に玉子焼きの作り方を教わってから、もう何度も作っていたはずなのに。
この家の台所にまだ慣れていないせいだろうかと思ったりもするが。
それでも玉子焼きには自信があった。
不味くはないが、甘さが少なかったのかもと思ったけれど。甘さが足りないなんて、贅沢なことだ。
終戦から五年が経ち、食糧不足が改善されてきているという話は聞くが、依然として闇市も配給制度も無くなってはおらず、必要としている国民は多い。
それなのに、このお屋敷には甘味料だけでなく、塩や醤油、味噌はもちろん、璃夜が知らない異国の珍しい調味料もあり、米や野菜などの食材も足りている。
このお屋敷〈傅雲邸〉に来て二ヶ月が経ち、台所をひとりで任せられてからは一ヶ月になる。
まだまだ驚くことも落ち込むことも多い日々だ。
この玉子焼きは食べ慣れた味に作れなかっただけで、決して失敗作ではないのだが。
昨夜に見た夢のせいもあって余計に気が滅入る。
だがいつまでも気にしているわけにもいかず、璃夜は気を取り直し、残りの献立を作り終えた。
今日の朝ご飯は焼鮭と玉子焼き。それから作り置きしてあった〈ほうれん草の胡麻和え〉と〈胡瓜の浅漬け〉を小鉢に用意する。
お味噌汁は小松菜、大根、人参と具沢山だ。
白米も羽釜の中で艶よく炊けている。
急須と湯呑みも戸棚から出し、家主が食後に好むお茶も用意する。
家主の名は傅雲 蒼玥。
蒼玥は璃夜の夫ではあるが、ワケあって契約上の『旦那さま』だ。
璃夜の旧姓は望月。生まれは信州の田舎町だった。
幼い頃に亡くなった両親の代わりに、父方の祖父母がたくさんの愛情を注いで育ててくれた。
質素な暮らしではあったが、優しい祖父母と過ごす毎日は幸せだった。
けれど終戦を迎えてから三年後、璃夜が十五歳のとき高齢だった祖父母が相次いで亡くなった。
そして疎遠だった叔母の君江が突然やって来て保護者を名乗り、璃夜は東京へ連れて行かれた。東京に来た当初は気遣いのあった君江だったが、月日が経つにつれ様子は変わり、君江は夫と暮らす邸で璃夜を使用人として扱うようになった。
それから二年、璃夜は十七歳になった。
屋敷での辛い仕事や、冷酷な伯母から受ける嫌がらせにも璃夜は耐えてきたが、屋敷で何より恐ろしかったことがある。
それは佐久間 泰造という名の君江の夫が人間ではなかったことだ。
人外、妖怪、魑魅魍魎。
璃夜は幼い頃から、そういった類いの生き物を見ることができた。
けれど「そういう力は隠して生きるんだよ」と祖父母に言われて育った。
泰造は人間の姿に化けているようだが、璃夜に見えていたのは人間とは程遠い姿だった。
赤黒い塊が人の輪郭を作り、そこには目も鼻も口もないという異質な存在。
君江とは内縁関係だった泰造が屋敷に来るのは週に一、二回程度で、来訪時はいつも君江が自ら献身的に泰造の世話をしていたので使用人たちを呼ぶことは少なく、璃夜もその姿を遠目に見るだけで済んでいた。
けれどあの日。
今から三ヶ月ほど前の三月の末。異変が起きた。
真夜中に屋敷が炎に包まれたのだ。
あの晩のことを、璃夜はあまり思い出せずにいる。
記憶障害は火災による精神的ショックで一時的なものと診断されていた。
璃夜はしばらく入院していたが、怪我もなかったので退院後は通院も薬の必要もないという診断が出た。
璃夜のほかに屋敷で働いていた使用人たちは皆、火災の犠牲になり君江も泰造も亡くなったと聞いている。
ただ、君江と泰造の遺体だけは見つかっていないという話だった。
(……私だけが助かった)
助けられたのだ。
璃夜を助けてくれたのが傅雲 蒼玥だった。
禍々しく燃え盛る緋色の炎の中に、突然差し込んだ銀色の眩しい光と風。
次に現れたのは神主のような白装束姿をした人の姿だったが『人』ではないと璃夜は感じた。
璃夜を見つめる瞳は濃い藍色で。
肩にかかるくらい長さのある髪は白銀色に輝いていたのだ。
しかも頭にはふっくらとした獣の耳。
そして腰の後ろからふっさりと伸びて揺れる、もふもふした尻尾まであったのだから。
そのときはまだ名前すら知らなかったけれど。
その後、入院中に分かったことが幾つかある。
蒼玥は『妖類 怪異 追捕部隊』に属していると言った。
それは怪異の原因究明と事件などに関わっているとされる妖の存在を追って捕獲、又は祓うことを仕事とする国の組織だという。
けれど政府はその部隊の存在を公にしていない。
怪異や妖の存在が国民に恐怖と混乱を与えかねないから、というのが理由だとか。
「部隊って言っても隊員は少ないんだ。隠密に動くことも多いからね」
入院中ほぼ毎日、璃夜のいる病室へ顔を出していた蒼玥の話では、佐久間邸の火事は怪異扱いとなり、火災は妖が起こした事件とされ、未だ調査中であるという。
「あの妖は逃げているんですか?」
「……そう。まだ行方不明なんだ、佐久間泰造は。それで君は泰造が妖だと思うのかい?」
蒼玥の言葉に璃夜はハッとした。
あの妖、なんて言ってしまった。
それは妖が見えることを自ら露呈したようなものだ。
「それじゃあ僕に関しても、もしかして見えてるモノがあるのかな?」
蒼玥のさらりとした言い方に驚いた。
妖が見えるという奇異な娘を前にしても動じるところがない。
そのうえ浮かべている表情も柔らかな笑みで。不思議とこちらに警戒心が起こらない雰囲気があった。
璃夜は躊躇いながらも正直に答えた。
「私が見えるのは、あなたの髪の色が違うことと、狐のような耳と大きな尻尾があることです」
あの火災の中、璃夜の前に現れたときの蒼玥の髪色は闇夜に輝くお月様のように綺麗な色だった。
けれど今、目の前にいる蒼玥の髪は真っ黒だ。
それでもじっと集中して彼を見ていると銀髪が見えてくる。そして狐のようなふっさりとした耳も、モフりとした尻尾も、ぼんやりと見える。
瞳はあのときと同じ濃い藍色のままだったが。
「当たりだ」
蒼玥はなぜかにこにこしながら答えた。
彼は確かに燃え盛る炎の中から自分を救ってくれた。
あのときは神職が着るような白装束だったけれど、見舞いに来るときはいつも洋装で背広姿だった。
よく見れば顔立ちも整っていて上背もあり、しっかりとした体つきなので、洋装も和装もどちらも似合いそうだと璃夜は思った。
「それじゃあ決まり」
「え?」
病室のベッドの上で首を傾げる璃夜に向かって蒼玥は言った。
「傅雲家で君を保護しよう。それから僕のお嫁さんになってほしいな。とりあえず契約婚ね」
何言ってるんだろう、このひと………じゃなくて、半妖?
でもなんでお嫁さん?
それから契約婚?
あろうことか病室で、出逢って間もない彼の突然すぎる申し出は、その後の璃夜の生活を一変させる出来事となった。
♢
振り子時計に目をやると、もうすぐ七時。
西洋風の炊事場は床となる板間が広く続いている作りになっていて、壁などの間仕切りもないため、大きな窓のある奥の一室までよく見通せる。
蒼玥はいつも七時くらいにここへ来ることが多い。
ときどきはもう少し早起きをして、奥の一室の窓際にあるテーブルの席に着き、朝刊に目を通していることもある。
朝食の支度が済んだ璃夜は奥の間へ進み、窓から外を眺めた。
和洋折衷という言葉があるが、日本風と西洋風の様式を取り入れた傅雲の屋敷は庭も広い。
月に一度は庭師が来て、樹木の剪定や草花の手入れをしていると聞いた。
教えてくれたのは屋敷の使用人で多眞という名の老女だ。
現在、傅雲の屋敷には家主の蒼玥と、契約婚で嫁になった璃夜、そして使用人の多眞が暮らしている。
多眞は璃夜が屋敷に来てから、ここでの暮らしに慣れるようにといろいろ教えてくれたのだが。
普段あまり多眞の姿を見ることがない。
用があるときは名を呼ぶ。するとどこからか現れる。そんな多眞さんも人ではなさそうだと璃夜は思う。なぜなら灰色をした猫の耳と二本の尻尾が璃夜には見えるからだ。
けれど恐ろしさや邪悪な気配は感じられず、親しみやすさがある多眞はとても親切だった。
火災で私物を失った璃夜のために、新しい衣服を用意してくれたのも多眞だった。
叔母から使用人の扱いを受けていたときは、着古したものを繕いながら使っていたが、ここで用意された衣服はどれも普段着にするには勿体無いような衣服ばかりだった。
エプロンや割烹着なども素敵な布地で仕立てられ、和装にも洋装にも合うデザインになっていて璃夜を驚かせた。
ちなみに今日は黄色みがかった灰白色のブラウスに薄青色のスカート。そして白い『フリルエプロン』を選んだ。
しばらくは洋服選びにも慣れない毎日だったが、最近はどれを着ようか楽しめるようにもなってきた。
ありがたいことだと璃夜は思う。
もしかしたら自分は、あの大火事で命を落としていたかもしれないのだ。
入院中だった病室で契約婚を申し出た蒼玥は璃夜に言った。
「僕は君の見ている通り、狐の耳と尻尾がある。この事を知るのは限られた少人数で、話せば長くなるから今は簡単に言うけど。僕は『半妖』と言って、人と妖の血を半分ずつ継いでるんだ。血と言っても〈妖の血〉は人間の血とは違って『霊力』とも言うけどね。僕のご先祖様は神使の眷族、白狐なんだ」
璃夜は驚きで言葉も出ずに蒼玥の話を聞き続けた。
「君の見る妖の中には僕のような眷属もいれば、人間との〈混ざり〉がない妖もいる。見るからに恐ろしい姿の妖怪や、そうでもない妖とかも。見たことはない?」
「……それは恐ろしさが感じられない妖ですか?よくわからないモノが見えても、恐ろしさを感じないときもあります」
蒼玥は頷いた。
「人に対して悪意や敵意、邪気を向けてない妖だね。妖の中には人に害を為すやつもいれば、そうでない妖だっている。君はそういう気配を感じる力があるんだ」
───そういえば。
祖父母と暮らしていた頃に見た妖は、驚くことはあっても、恐ろしいと感じることはなかった。
それはいつもおばあちゃんが………。
いつも?
祖母がどうしていたっけ。
璃夜は何か忘れていることがあると感じた。
大切な何かを。
「僕の結婚相手はね、普通の女性じゃダメなんだ。君みたいに異能をもってないと。それも特別な力をね」
「とくべつ? でも私、あやかしとか見えるだけですよ?」
「見えて感じるでしょ?敵意とか、邪悪さとか。悪い妖か、そうでないかを判断できる。そして君にはまだ秘めた霊力があると思う。半妖の僕には目の前の相手が異能者かそうでないかが判る。そして特別な力は君が忘れているだけなんだ」
「……あなたは知ってるんですか?私が持ってるその『とくべつな力』というのを。なんで……どうして?」
蒼玥は少しだけ困ったような笑みを浮かべて言った。
「僕が話せることは限られてる。君の記憶は君のものだから。少しずつでも君が思い出していく方がいいんだ。僕だって全部を知ってるわけじゃないし、予想でしかない。だから安易に言いたくない。……ごめんね。不安にさせたら謝るよ」
蒼玥の頭の上で狐耳がぺこりと垂れた。
しょんぼりとした雰囲気で、困らせてごめんなさいと言っているみたいに。
「……私、思い出したいです。でもどうしたらいいのか……」
「うん。霊的な場所や空間でのんびり過ごせば、きっと思い出せるようになる。だから僕の家で君を保護したいんだ。僕の屋敷は穴場だからね」
「あなば?」
「君にとって居心地の良い場所という意味だよ。僕が衣食住を提供するから」
璃夜は改めて気付いた。自分は火災で全てを失い、帰る場所のないことを。
祖父母と暮らしていた信州の家は、君江が勝手に売却していたのだ。
「あの……私、あなたのお屋敷で働きます」
嫁でなくても使用人でいいのではないだろうか。
「お掃除やお炊事でも。なんでもやりますから。だから……」
だから契約婚などしなくても。
「なんでもやってくれるなら、お嫁さんでもいいはずだよね?」
「ぇっ……。そういう意味で言ったわけではなくて………」
「それに使用人ではのんびりもしてられないでしょ。お嫁さんなら三食昼寝付きだよ」
こちらに向ける蒼玥の眼差しが、細められた目が、なんだか少し意地悪に思えた。
「なぁんて。実はね、僕の周りがうるさくて。二十六才にもなるとさ、早く嫁をもらえとか、見合いしろとかうるさいんだ。君みたいな若い乙女を保護することになって、そのうえ住み込みの家政婦として屋敷で扱うなんてことになれば、益々騒ぎになる。どうせなら表向きだけの『お嫁さん』にすれば連中もおとなしくしてくれると思うから」
それって、つまり縁談避け?
「傅雲さんは結婚するのが嫌なんですか?」
「え? あぁ、いや。結婚が嫌とかそういうわけではなくてね。さっきも言ったけど、結婚相手が普通の人間女性じゃダメってやつ。それは半妖が持つ〈妖気〉がね、あ、妖気は霊力に含まれる内在的なエネルギーのひとつなんだけど。その妖気が人間に悪い影響を与えることが多いんだ。長く一緒にいると相手が病気になったり、寿命を縮めたり。でも異能とか霊力がある人間であれば影響がないんだ」
(だから私? 妖を見る異能を持つ私は普通ではないから?)
心の中で思っても、璃夜には口に出す勇気がなかった。
「妖の中にはね、人間の血肉を喰らうものもいれば、気魄を糧にするものもいる。気魄というのは人間の精神で、その精神を乗っ取ったり、取り憑く、とも言うかな。結局は糧にして喰らう目的で人を殺める妖怪もいる。半妖も……半分人間でもね、そういう習性があるんだ」
「傅雲さんも?」
頷いた蒼玥の表情はどこか辛そうに見えた。
「でもそんなことは絶対にしたくないから、自分の妖気や霊力を抑えたり自分で封じたり。……でもそうしていると、今度は飢えてしまう」
「飢える?」
「力の抑制が緊張状態となって飢えが起こるんだ。飢えると邪気が増えて『人』である部分も蝕まれてしまう。……そうなるともう、半妖ではなく邪悪に染まった妖怪だ。そして暴走が始まり人を襲うようにもなる」
淡々と話してはいるが、璃夜は蒼玥から苦しみや怒りの感情が伝わってくるのを感じていた。
「でもそうならないためにできることがあってね。人間を糧にせず、妖気や霊力を抑えても飢えが起きないようにするには、常日頃『良質な霊力』を摂取すればいいんだ。幸いなことに君の霊力は良質だ。妖が見えるという異能があって霊感を持つ君なら、僕の妖気で体調が悪くなることもないし、必要なときに君の気魄を分けてもらうこともできるしね」
それってつまり、自分は『出来のいい食材』扱い?
奇怪な話に動揺しながらも璃夜は思った。
「それに君のような良質者が作る食事には、霊力も宿るんだ。耳や尻尾を隠し続けるにも力を結構使うから。そのせいで僕はいつも霊力に飢えてる。だから君の手料理が食べられたらとても助かる」
私が作る料理が彼の飢えを満たす……?
とても信じ難い話に困惑するが、蒼玥の話はまだ続いた。
「それに〈人間の気魄〉だけでなく〈良質な霊力〉を欲しがる野蛮な妖怪もいる。君を保護するということは、そういう妖から護る意味もあるから。だから安心して屋敷に来て欲しい」
蒼玥は真っ直ぐに璃夜を見つめて言った。
真剣な眼差しに恐ろしさは感じられない。藍色の瞳はこちらを優しく包むような眼差しで。
璃夜の心を温かくさせる不思議な力があった。
この先、どう生きていけばいいのかという不安は大きい。
傅雲さんは、半妖だけどきっと悪い妖ではない。
璃夜は自分の直感を信じることにした。
「……わかりました。あなたと契約婚をします。───どうぞ、よろしくお願いします」
病院のベッドの上で、璃夜は姿勢を正し頭を下げた。
「こちらこそよろしく! ……璃夜って呼んでもいいかい?」
璃夜は頷いた。
「嬉しいなぁ!」
蒼玥は狐耳をぴこぴこ動かし、ふさふさの尻尾をぱたつかせ、とても喜んでいる様子だった。
◇
(旦那さまの尻尾、ちょっと触ってみたいなぁ)
蒼玥が来るのを待ちながら過去を振り返り、璃夜は思った。
(白銀の髪もサラサラで羨ましい)
肩上までの長さがある璃夜の髪は柔らかいが、まとまりにくい焦茶色で。真っ直ぐでサラサラな髪質には憧れがあった。
蒼玥は髪を首の後ろで束ねていることが多いのだが、その結び方はいつも粗雑だ。
(自分で結んでいるのかな。お手伝いとかできたら……。でもそこまでは必要ないのかも)
自分は『縁談避け』で、霊力の宿る食事を作り、それを蒼玥に提供することが契約条件で。
婚姻は表向き。璃夜に与えられた〈妻〉や〈嫁〉という立場は偽物なのだ。
璃夜は余計なことを考えてしまったと思いながら庭に目を向けた。
外には純白の百合が咲き、梅雨が明けて暑い季節を迎えようとしていることがわかる。
璃夜はまだこの広い庭の全容を知らない。
屋敷の中でさえ、まだ立ち入ったことのない部屋がいくつもある。
蒼玥は「屋敷の中も庭も、探検していいよ」と言っていたが、あまり気が乗らなかった。
(でもあれはとても気になる)
璃夜は視線を上げた。
樹木の名前には詳しくないが、庭は奥へ行くほど高さのある木が立ち並び、まるで杜のような雰囲気だった。
そして今、璃夜が窓越しに見上げる先、少しだけ遠くに、大きくて黒いものが木々の隙間から見え隠れしている。
───黒い鳥居だ。
黒くてあんなに大きな鳥居を見るのは初めてだった。
けれどあの大きさであれば屋敷の正面玄関からもその姿が見えていいはずなのだが。
璃夜が毎朝、朝刊を郵便箱から取り出すために外に出ても、この黒鳥居が見えることはない。
だがこうして屋敷の中からは見える。
不思議なことにあれは『窓から庭が見える部屋』であれば必ず、黒鳥居の一部分が見えるのだ。
よく通る廊下や、多眞の指示で決められた日に掃除を行う部屋、応接室や客間。
そして璃夜が使うようにと与えられた部屋の窓からも黒い鳥居が少しだけ見える。
どうしてなのかはわからないが、あれはきっと限られた場所でしか見えないのかもしれない。
庭の奥に神社でもあるのだろうか。
ぼんやりと考えながら黒鳥居が見え隠れする空を眺めていると、突然、白く丸みを帯びた何かが鳥居の近くを横切った。
それは風に流されるように、ふわりと舞うような動きだった。
けれどそのまま上空へ舞い上がらなかった。ならば鳥居の下の方へ降りたのだろうか。
璃夜は気になってつま先立ちになったり、無理だとわかっていてもぴょんぴょん跳ねてみるのだが。
白くて丸い何かはもう見えない。
なんだったのだろう。
───璃夜が思案していると、背後でクスクスと笑う声が聞こえた。
驚いて振り向くと、白いワイシャツに紺のスラックスという服装姿の蒼玥が、少し離れたところに立っていた。
「おはよう、璃夜。朝から変わった体操だね」
「あ……おはようございます。え……体操?」
「来てみたら君がウサギみたいにぴょんぴょん跳ねてるから」
蒼玥は思い出したようにまた笑った。
「いえ……あの。体操してたわけではなくて……。旦那さま、そんなに笑わなくても。そんなに可笑しかったのですか?」
「うん、可愛いくてニヤけてしまった。僕の奥さんはなんでぴょんぴょん跳ねてるのだろうと思って。どうした?何か見えたのかい?」
こちらに歩いてくる蒼玥に尋ねられても。
可愛くて、という慣れてない言葉を言われて。
なんだかとても恥ずかしい気持ちでいっぱいになる璃夜だった。
「あの。さっき、不思議なものが見えて……」
璃夜は蒼玥に説明した。
「一瞬だったけど、もっとよく見えないかと思って。それで私……」
「そうか、それでぴょんぴょん跳ねてたんだね。庭は広範囲に結界も張ってあるから、危険なものではないと思うよ」
「そうですか。結界、というのはあの黒い鳥居ですか?」
「あの鳥居は少し違うんだ。結界の役割も多少はしているけど、別の役割もしていてね。でもその白くて丸いやつに璃夜が一瞬でも恐怖を感じなかったなら、気にしなくて大丈夫だよ」
「そうですね、わかりました」
「安心できたならご飯にしてくれる?お腹が鳴りそうだ」
「はい。すぐ用意しますね」
黒鳥居についてはまだ詳しく聞いてみたい気もしたが。
(お休みの日とか、もっと時間のあるときにしよう)
璃夜は朝食を運ぶため炊事場へと向かった。
食事が始まって数分。
玉子焼きを食べる蒼玥を、璃夜はじっと見つめてしまう。
「どうしたの?僕の顔に何か付いてる?」
「いえ……あの。今朝の玉子焼きの味なんですけど」
璃夜は甘味が足りないのではときいてみた。
「そうだなぁ。好みとしてはわりと甘めの玉子焼きが好きだけど。今朝の玉子焼きも美味しいよ。料理には璃夜の霊力が込められてるから、余計に味わい深いよ」
「そうですか。お口に合うのならよかったです」
霊力入りの料理が味わい深いなんて。
半妖の味覚はどうなっているのだろう。
不思議で疑問に思うが、蒼玥がとても美味しそうに食べるので不安は解消された。
「あの、旦那さま」
「なんだい?」
蒼玥は今朝も黒髪を首の後ろで一つに束ねているのだが。その結い方は大雑把で、結び紐から外れた髪がとても気になる。
直して差し上げたい!
「……あの、お髪《ぐし》が上手く結べてないようなので気になって。よろしければ後で私が梳かして結び直してもいいでしょうか」
あえて意図的に残した後れ毛などが、本人を艶っぽく見せることもある。そんな雰囲気も蒼玥には似合うだろうけれど。
出勤前の身支度は、きちっとまとめて結んだ方がいいと思うのだ。
「あ、すみません。私、よけいなコトを……」
蒼玥からの返答がすぐにないことで、璃夜は勝手な判断だったと慌てて俯く。
自己嫌悪に陥りながら、そっと顔を上げると、蒼玥はなんだか驚いた表情でじっと璃夜を見つめながら言った。
「ほんとにいいの?」
「え?」
「璃夜が僕の髪を梳かして、そのうえ髪を結んでくれるの?」
「はい、ご迷惑でなければ」
「迷惑なものか!とっっても嬉しいよ!」
璃夜にだけ見えている蒼玥のふさふさした尻尾がピンと立ってから大きく揺れた。
「じゃあ早くご飯を食べてしまわないとッ」
尻尾を揺らしながら蒼玥は大急ぎで食べ始める。
「───ぁあのッ、旦那さま。そんなに慌てなくても。ちゃんとよく噛んで食べてください」
璃夜の言葉に蒼玥は照れくさそうに頷いて笑った。
蒼玥は自分よりも年上なのに、ときどき子供のように無邪気に笑う。
そんな様子を見ていると、とても優しい気持ちになるから不思議だ。
契約上の妻としてこの屋敷へ来てから、慣れないこともまだ多いけれど。久しく忘れていた穏やかな暮らしや楽しさを感じている自分に驚く反面、嬉しくも思う璃夜だった。
