無自覚たらしは、自称S先輩を暴きたい

第五話②
 
「え……14歳!?まだ中学生……!?」

いつものようにバイト先に来てくれた心菜ちゃんと話していたとき、何気なく年齢について聞いてみると、14歳と返ってきて驚いてしまった。如月先輩の妹だから、17歳以下なのは知っていたけれど……。

「背も高いし、初対面のとき高校生に見えたから、如月先輩の妹さんって知った後も年子で高校生なのかなって思ってた!」
「え〜〜ほんとですか?」

僕がそう伝えると、心菜ちゃんは少し照れたように、はにかんだ。その時に細められた顔が、如月先輩の切長な目に似ていて、思わずドキッとしてしまう。

(……やっぱり、あの兄にしてこの妹、か)

なんて勝手なことを考えながら、僕はカウンターに戻った。



それから数日後のこと。

その日はシフトに入っていなかったけれど、前日にバイト先に定期を忘れてしまったことに気付き、放課後、いつも働いている時間帯にバイト先へ立ち寄った。

無事に定期を回収して、さて帰ろうかと思いながら店内を見渡すと、見覚えのある後ろ姿が目に入る。

「あ……」

カウンターから少し離れた席に、心菜ちゃんが座っていた。
声をかけようか……?でも今日はバイト中じゃないし……。と迷っていると、心菜ちゃんがぱっと顔を上げて、ぱちりと目が合った。

「ひなひな!」

名前を呼ばれたので近くへ行くと、心菜ちゃんは嬉しそうに僕に話しかけてきてくれる。

「今日はバイトじゃないの?」
「うん、忘れ物取りに来ただけで」
「じゃあさ、少しお話ししない?」

そう言われて少し驚いたけれど、このあと用事もないし、断る理由もなかったので、僕はドリンクを一つ注文してから、心菜ちゃんの正面に座った。
いつもは、席に座っている心菜ちゃんに仕事中の僕が話しかけているから、こうして座りながらほぼ同じ目線で向かい合って話すのは、なんだか新鮮だ。

とりあえず、頼んだカフェラテを一口飲んでいると、心菜ちゃんがぽつりと口を開いた。

「……ひなひな、お兄って、学校ではどんな感じ?」

その質問に、言葉が詰まる。

(どんな感じ……)

『2年の中では1軍で結構目立ってて、でも学業面は優秀で、顔が良いから無愛想だけどモテてて、恋愛面では誠実なお付き合いをしているみたい__』
なんて、心菜ちゃんには言えるわけがない。
返答に困っていると、心菜ちゃんは少し不安そうな表情で言葉を重ねた。

「……お兄、楽しそう?」

その質問には、すぐに回答できる。

「学年が違うから、ずっと見てるわけじゃないけど、すごく楽しそうだよ!」

そう言うと、心菜ちゃんはほっとしたように息を吐いた。

「そっか……」

しばらく視線を落としてから、心菜ちゃんは静かに続ける。

「お兄、家ではいつも『お兄ちゃん』の顔しか見せてくれないから、どんな高校生活送ってるのか分からなくて……。その……高校生活は、ちゃんと楽しめてるのかなって」
「高校生活……『は』?」

言い方が気になって、思わず聞き返す。
すると、心菜ちゃんは少し迷うように唇を噛んでから、ゆっくり話し始めてくれた。

「うち、親が中二のときに離婚してて、それを機にママは転勤が多いけどお給料が高いお仕事に転職して、今は離れて暮らしてるんです」

初めて聞く心菜ちゃん__如月先輩のお家の話に、僕は黙って耳を傾ける。

「だから、お兄が、私と心春……あ、心春は一番下の妹なんだけど、中学生の頃から、ずっと面倒を見てくれてて、三者面談も授業参観も、それ以外の学校行事も、親が来られない代わりに、全部お兄が来てくれてるの。もちろん、それが嫌とかじゃなくて……むしろ、すごく感謝してて」

一度、言葉を切ってから、息を軽く吸って吐いて、心菜ちゃんは言葉を続けた。

「幸せものだなって思う。でも……お兄、自身が、私たちのことばっかりになってないかなって」

俯いた横顔は、十四歳とは思えないほど大人びて見えた。
その寂しげな表情に、なんて声をかければいいのか分からない。
僕が言葉を探していると、突然、心菜ちゃんの表情がぱっと明るくなる。

「……でも!!学校でのお兄が楽しそうなら大丈夫!」

その笑顔は、心とは切り離されて無理矢理作り替えたものだと分かったけれど、一度笑顔になった心菜ちゃんにもう一度寂しげな表情をさせたくなくて、僕はこの日、それ以上、踏み込んで聞くことが出来なかった。

それを、後悔する事になるとは知らずに。

______________

昼休みの教室は、いつも通りざわざわしている。今日は、いかにも梅雨らしいジメジメとした天気で、昼休みの時間を使って睡眠を取っている人もしばしば見受けられる。

僕も、なんとなく教室から出る気になれず、奏と他愛のない話をして時間を潰していた。

「そいや、さっきの数学の小テストどうだった?」
「うーん、多分きっと恐らく、再試にはならないはず?」
「めちゃくちゃ保険かけるじゃん」

奏が、呆れたように笑う。

「そういや、バイトはどう?慣れた?」
「だいぶ!最近、常連さんも出来てさ」
「まぁお前、接客業向いてそうだもんな」
「奏も来てよ!今度新作発売するし!」

そんな他愛もないやり取りをしていると__

「ひなひな、あの……」
「ん?なにー?」
不意に、肩を叩かれた。
振り返ると、そこには、なぜか緊張した面持ちのクラスメイトが。

「え?なにどしたの?」
「……呼ばれてる」
「呼ばれてる?」

意味が分からず首を傾げると、クラスメイトは何も言わず、廊下の方を指差したので、そちらを向く。

「……え?」

一拍、思考が止まった。

「え!?!? 如月先輩!!!!」

クラスメイトが指差した先には、如月先輩が立っていた。 
夜の商店街でたまたま遭遇した時以来のその姿に、一瞬で心臓が跳ね上がる。
僕は、椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がり、如月先輩の方へ向かった。

「どうしたんですか!如月先輩から来てくれるなん、て…………?」

まさか接触禁止令の廃止を直々に伝えに来てくれたのかな!?
そんなことを考えながら先輩の元へ向かうが、近くに行けば行くほど、その空気に違和感を覚える。

先輩は息を切らしている上に、いつもに増して怖い顔をしていた。
先輩に会えたことで高なっていた胸が、今度は悪い意味で激しく鼓動し始める。

「……場所変える」

先輩はそれだけ言うと、僕の返事を待たずに黙って歩き始めた。僕は慌ててその後を追う。
廊下を進み、階段を上り、辿り着いたのは、何度か訪れたことのある二年フロアの端だった。人の気配が少ないその場所で、先輩はようやく足を止めた。

「先輩、どうかしたんですか?」

そう問いかけても、先輩はすぐには答えてくれない。少し俯いたまま、何かを言おうとして__結局、言葉を飲み込む。

でも、これは冗談でも、軽い用事でもない。
息の切れ方も、表情の強張り方も、全部がいつもとは様子が違っていた。

(……なにがあったんだろう)

静かなこの場所では、さっきまでの教室の賑やかさが、遠い昔のことのように感じられる。

しばらく、重たい沈黙が落ちた。

如月先輩は視線を床に落としたまま、何かを考えるように口を閉ざしている。その横顔を見ているだけで、胸の奥が嫌にざわめいた。

やがて、先輩は小さく息を吐き、決心したように顔を上げる。

「……上の妹と今朝、家を出る前に喧嘩した」

低くて感情の乗っていない淡々とした口調だった。けれど、その一言だけで、事の重さが伝わってくる。

「1時間目が終わったくらいに、心菜が通ってる中学から連絡が来た。心菜が登校してないって」
「……え」

思わず声が漏れる。

「家は玄関の開閉で通知が来るようになってるけど、最後に出掛けた俺の以降、通知はない。LINEも既読が付かないし、電話も繋がらない」
「……」
「近くの母方の実家にも連絡したけど、今日は顔を出してないらしい」

一つ一つ、事実を並べるように話す先輩。
淡々とした口調だが、そうすることで自分を落ち着かせているようにも思えた。

「それと、さっき__」
先輩は一瞬、言葉を切る。
「小学校からも連絡が来た。心春が体調を崩したって」
「心春ちゃんが……」
「迎えに来いって言われてる。だから、心春に付き添わなきゃいけない」

つまり。
心春ちゃんのところに行かなきゃいけなくて、心菜ちゃんを探しに行くことができない。

「……最近、心菜がよく家でお前の話をしてる」
先輩の視線が、まっすぐ僕を射抜く。

「心菜の居場所、何か心当たりはないか」

胸が、きゅっと締め付けられた。

(心菜ちゃんの、居場所……)

頭の中で、心菜ちゃんの姿を必死に思い浮かべる。家、学校、母方の実家、どこにもいない。
それなら……。

「……カフェは、行きましたか?」
「カフェ?」
先輩が軽く首を傾げる。
「僕のバイト先です。心菜ちゃん、よく来てくれるんですよ」
「……そうだったのか」

先輩の眉が、わずかに動いた。

「放課後だけじゃなくて、休日は昼過ぎに来ることもあって……」
「……知らなかった。アイツ、カフェ行ってたのか……」

昼休みがもうすぐ終わることを告げる鐘が鳴った。先輩の表情は、相変わらず暗い。

(僕に、何ができること……)

「先輩、これから心春ちゃんのところに行かなきゃですよね」
「……ああ」
「だったら、僕がカフェを見てきます」

顔を上げて、はっきりとした声で言う。

「は?でもお前、授業__」
「入学からここまで、割と真面目に授業には出てきたので、一日くらい大丈夫です!」

胸を張ってみせた。
実際に、午後の授業をすっぽかしたからといって何が重大なペナルティを課されることはない。

「それに今は……心菜ちゃんのことも、心春ちゃんのことも……」
一拍、息を吸う。
「先輩のことも、心配なので」

その瞬間。
如月先輩がほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をしたように見えた。
けれど、それも束の間で、すぐにいつもの鋭い表情に戻る。

「……悪い。今、お前以外に頼れるやつがいない」

胸の奥が、じんと熱くなった。

「任せてください!もしカフェにいなかったら、商店街の周辺も探してみます!」

そう言って、踵を返した瞬間。

「待て」

背後から、先輩に呼び止められる。

「スマホ出せ。心菜が見つかったら、すぐ連絡してほしい」
「確かに……繋がってた方がいいですね」

連絡先を交換する間、先輩の手が少し震えているのが見えて、胸が痛んだ。

「……悪い。よろしく頼む」
「はい」

短く返事をして、今度こそ1年フロアへ向かう。
授業が始まる前に抜け出さなくてはといそいそ教室へ戻ると、七瀬が心配そうな顔で声をかけてきた。

「ひなひな、如月先輩に呼び出されたって聞いたけど……大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

そう答えると、七瀬は少し安心したように微笑んでくれた。
次に奏の方を見る。

「ごめん、僕、ちょっと早退するから……色々頼んでいい?」
「おー。達者でな」

深くは聞かず軽く手を振ってくれる奏。
その気遣いが、今はありがたかった。

昼休みの校舎を抜け、校門へ向かう。
先生に見つかったらどうしよう、なんて一瞬よぎったけど幸い誰にも止められなかった。

校門を出た瞬間、僕は全力で走り出す。

(心菜ちゃん……カフェに、いて)

祈るような気持ちで駅へ向かい、
ちょうどホームに滑り込んできた電車に、飛び乗った。

_____


バイト先の最寄り駅に着く頃には、空からしとしとと雨が落ち始めていた。
一応、鞄の中には折り畳み傘が入っているけれど、今は傘を刺す時間も惜しい。

(急がなきゃ)

駅を飛び出し、濡れるのも構わずに商店街を駆け抜ける。
やがて、見慣れたカフェの看板が見えてきて、僕はそのまま店内へ滑り込んだ。

「いらっしゃ__……って、朝比奈くん!?」
昼間のシフトに入っている主婦の店員さんが、目を丸くする。
「え、学校は!?」

「あ、はは……ちょっと野暮用で。すみません」

僕は、曖昧に笑って誤魔化しながら、視線を店内に走らせる。
1階には、それらしい姿はない。

(……やっぱり2階、だよね)

階段を上がり、2階へ。

窓際の、いつもの席。
外をぼんやりと眺めている女の子の後ろ姿が目に入った。

(……いた)

心菜ちゃんだ。

とりあえず如月先輩に連絡をしよう。そう思ってスマホの通話ボタンを押した、その時。

「ん!?!ひなひな!?」
窓の外から店内へと視線を戻した心菜ちゃんと目が合った。
「え、え、学校は?」

「んー、抜け出してきちゃった」
そう言いながら、ゆっくり近づく。
「向かい、座っていい?」

少し迷ったあと、心菜ちゃんは小さく頷いてくれた。椅子を引いて腰を下ろす。

勢いで来てしまったけれど、いざ向かい合うと、何から話せばいいのか分からない。喧嘩の理由を、無理に聞くのも違うよね……。

そんな僕の迷いを察したのか、心菜ちゃんは口を開いた。

「……そっか。学校、休んだこと、お兄に連絡いっちゃったんだ」

俯いたまま、ぽつりと。

「お兄に、このカフェによく来てること教えてないんだよね。だから……ひなひな、なんだ」

「あ……」
僕が説明しなくても、もう心菜ちゃんの頭の中では全てが繋がっている。
如月先輩に似て、心菜ちゃんは賢いんだ。

「でも……お兄は?」
「今は小学校に行ってる。心春ちゃんが体調崩したって」
「心春が……!?」

驚き、バッと顔を上げた心菜ちゃん。でも、すぐにその表情は萎んで、悲しそうなものに変わる。

「……今日の朝ね」
少し間を置いて、心菜ちゃんは話し始めてくれた。
「私、いつも19時くらいまでこのカフェにいるでしょ?」
「うん」
「それで『最近、帰り遅いけど、どこで何してるんだ』って言われて……」

心菜ちゃんが小さく息を吸う。

「それが、すごく子ども扱いされた気がして」
「……」
「『子ども扱いしないで』って言いながら、家、出てきちゃった」

そうだったんだ、と胸の奥で呟く。

「学校も行く気になれなくて……今日くらい、いいかなって思ってサボっちゃった」
「……うん」

「それで、また結局、お兄に迷惑かけちゃった」
視線を落としたまま、続ける。
「学校を休んだら保護者に連絡がいくし、今飲んでるこの飲み物代だって、自分で稼いだお金じゃないし」
言葉が途切れ、心菜ちゃんは一度、息を詰めた。

「自分が、どこまでも子どもで……嫌になる」

ぽつり、と呟かれた言葉。
少し間を空けてから震える声で、また話し始める。

「私、知ってるの」
「……うん」
「お兄、中学の時は陸上やってたの。すごく足が速くて、高校からスカウト来るくらいだったみたい。でも、親と離れて暮らすことになって、私たちの面倒を見るために中三に上がる直前で部活、辞めたことも」

胸が、ずしんと重くなる。
僕がまた何も言えないでいると、心菜ちゃんは言葉を続けた。

「生活を少しでも楽にするために、行きたかった高校じゃなくて、学費免除の制度がある高校に、進路変えたことも……知ってる」

俯いた心菜ちゃんの目が、もう氷が溶け切ったオレンジジュースに向く。

「その時、私たちまだ小学生だったから、大変な思いしてるお兄にいっぱいワガママ言ってた。でも、全部笑って聞いてくれてた

……今もずっと、『優しいお兄ちゃん』してくれてる」

「……うん。優しいお兄さんだよね」

僕が相槌を打つと、心菜ちゃんは涙交じりの声で「そうなの」と頷いた。

「私、中二になって、進路とか将来とか考えなきゃいけなくて、頭パンクしそうなんだけど、こんな時期に、お兄は、私たちのために、いろんなこと諦める選択してくれたんだなって」

とうとう、心菜ちゃんの目に涙の膜が張り始める。僕が紙ナプキンを渡すと、心菜ちゃんはそれで目をギュッと抑えた。

「お兄、何も弱音吐かないの。それが……私なんて、頼りにならないって言われてるみたいで、悲しい。

……私だって、妹だけどお姉ちゃんなのに。

私、お兄のこと、何も知らない。何が好きで、何が嫌いで……何をして楽しいのかも」

とうとう涙を流し始めた心菜ちゃん。僕が手を伸ばして心菜ちゃんの肩を撫でようとした、その時だった。

『……心菜』

突然、僕のスマホから声が響いた。

「え!?」
「……あ、通話!?」

慌てて画面を見ると、そこにははっきりと表示されている。

『如月先輩 通話中』

(……あ)

如月先輩に連絡しようとして、通話ボタン押して、そのまま切らずに話し始めたんだ。

(やらかした……!!)

「え、『如月先輩』ってお兄!?通話って……!」
心菜ちゃんは一瞬固まったあと、顔を真っ赤にする。
「もう!ひなひなぁーー!!」

立ち上がった心菜ちゃんに、スマホをひったくられ、通話は即終了。
そのまま、ぽかぽかと肩を叩かれる。

「いっ……」
「恥ずかしいんだけど……!色々ベラベラ喋っちゃったし……!」
「ご、ごめん……!本当にごめん……!」

全面的に僕が悪いので、ただただ耐える。
いつの間にか心菜ちゃんの涙は止まっていた。

やがて、心菜ちゃんのスマホが、ぴろん、と音を立てた。画面を確認し、少し表情が緩む。

「……心春、おばあちゃんが面倒見てくれることになったって」
「よかった……」
「今から、ここに来るって。場所、送っとくね」

その言葉に、心から安堵する。
心菜ちゃんも、深く息を吸って吐いて、少し落ち着いた様子だった。

そういえば、と店内に入ってから僕は注文していなかったことを思い出し、ついでに、空になっていた心菜ちゃんのカップを手に取りながらカウンターで2つ飲み物を注文した。
席に戻り、2つのカップを机に置く。

「カフェラテとココア、どっちがいい?」
「……ココア」

新しいカップを差し出すと、心菜ちゃんは小さく肩をすくめながら、一口飲んだ。

「まぁ、ああいう形でもないとさ、私も、直接お兄に本音言えなかったかもだから……結果オーライ、なんだけど、でも……」

心菜ちゃんが頭を抱えて机に突っ伏す。

「お兄に、どんな顔すればいいのか分かんない……!」

その様子に、罪悪感を感じつつも――
あまりにも心菜ちゃんらしくて、思わず、ふふっと笑ってしまった。

「ひなひなのせいだよ!笑わないで!!」

腕を伸ばした心菜ちゃんに、また肩をポカポカ叩かれてしまう。

「いて、いてて、ごめん。ふふ…」
「もーー!…………あ」


心菜ちゃんの目線が、カフェの1階と2階を繋ぐ階段に向いた。そして、そのまま動きがピタリと固まった。

「心菜」
「お、お兄……」

心菜ちゃんのことを見つけた瞬間、如月先輩の表情が遠くからでも分かるほど安堵に溢れた。張り詰めていた何かが、ふっとほどけたような表情。

「……悪いな、お前にも迷惑かけた」

階段を登りきり、席に近付いてくる如月先輩にそう謝られる。
「いえ!僕は全然……」

反射的に答えたけれど、正直、場の空気にどう立ち回ればいいのか分からない。
これは……僕、離れた方がいいやつだよね?
兄妹水入らずで話したいよね、絶対。

「じゃあ、僕はここで……」

そう言って腰を浮かせかけた瞬間。

「まだ飲み物頼んだばっかじゃん」
心菜ちゃんが、僕を呼び止めた。
「ひなひなも、いてよぉ」

その目は、はっきりと『帰らないで』訴えかけけくる。

「まだ飲み物頼んだばっかじゃん。ひなひなもいてよぉ」
「……わ、分かった」

逆らえるはずもなく、空いていた隣のテーブルをくっつけて、如月先輩の席を作る。
僕も大人しく座り直した。
如月先輩が、僕の隣に腰を下ろす。
その時、その時、如月先輩が飲み物を買ってきていないことに気付いた。

「僕、飲み物買ってきますよ」
「自分で行く」
「いえいえいえ!まずはご兄妹でごゆっくりと!!何が良いですか!!」

如月先輩は一瞬だけ面食らった顔をしてから、
「……抹茶系、ある?」と聞いてきた。

「あります!」
「じゃあそれで」
「はい喜んで!!」

初手はやっぱり2人の方が良いよね!
そう自分に言い聞かせて、席を立つ。
階段を降りながら、心菜ちゃんと如月先輩が再会できた事を実感して、遅れて胸が軽くなった。

まだ学校が終わっていない時間なので、店内は静かだった。コーヒーの香りと、穏やかな空気。さっきまでの緊張が嘘みたいだ。

出来上がった抹茶オレを受け取り、二階へ戻る。

「お、お待たせしました……」

席に戻ると、心菜ちゃんと如月先輩の間には、まだ沈黙が流れていた。

「さんきゅ、後でQRで金返す」

先輩はそう言って抹茶オレを受け取り、そして、また、沈黙。
僕が限界を迎えそうになった、その時、心菜ちゃんが口を開いた。

「さっき、電話越しで全部聞いてたんだよね」

心菜ちゃんの言葉に、僕の肩と如月先輩の方は同時にぴくっと震えた。

「……聞いてた」
心菜ちゃんはまっすぐ先輩を見る。
「アレ、今の私の本心の全部」

少し間を置いて。

「どう思った?」

また、しばしの沈黙。
如月先輩は、言葉を選んでいるようだった。

「母さんから、妹達をよろしくって言われた時から、心春も心菜も、俺が守るって決めてる」

長い時間をかけて如月先輩から出てきたのは、とてもまっすぐな言葉だった。今まで、先輩の口からここまで交じりっ気のない言葉は聞いたことがなかった気がする。

「今までも、これからもお前らは妹で、俺からしたら守るべき存在だけど」

ふわふわと宙を漂っていた心菜ちゃんの視線が、ゆっくり如月先輩を捉える。
二人の目が、しっかりと交わった。

「心春からしたらお前も姉だから、気にかけてやって欲しい」

「お兄……」

心菜ちゃんが、噛みしめるように声を漏らす。
あまりにも温かい光景で、僕は思わず目頭が熱くなる。
そして、しばらくの沈黙の後、突然心菜ちゃんが、ふっと口角を上げた。

「お兄、言語化下手だね?」
「え?」
「は?」

出てきた言葉に驚いた。
感動的な空気が一気に崩れる。

「要するに、細かいことは後で決めるにしても、これからは心春の面倒は私にも1部任せてくれるってことでしょ?」
「お、おう」
「そう言えば良いのに、なんか遠回し〜〜。ね、ひなひな」
「え、う、う〜〜ん?」
心菜ちゃんに同意を求められ困ってしまう。

「てか、お兄、抹茶飲むんだ、好きなの?」

話題が変わった。相変わらず心菜ちゃんは如月先輩に向けてはマイペースだ。

「甘すぎなくて良いからよく飲む」
「ふ〜ん、初めて知った。お兄のそういうの、もっとたくさん知りたい」

心菜ちゃんは、少し楽しそうに目を細めて、それから、少しだけ真面目な表情になる。

「私たち兄妹だからさ。どうしても、家の外のことって分かりにくいけど、それぞれ、家以外の世界も、ちゃんとあるじゃん?」

にっと笑ったその笑顔は、年相応で、まぶしかった。

「だから、お兄のそういうの、知りたい!!」

さっきの如月先輩の言葉よりも、ずっと素直で、一直線な想いだ。
僕は一人っ子だから、兄妹がいる感覚は分からない。異性ならなおさら想像がつかないけど、如月先輩と心菜ちゃんは、こうやって一つ一つ話し合って、これから大変なことも一緒に乗り越えていくのだろう。

「……じゃあまずは私からね!」
心菜ちゃんが、胸を張って、明るく宣言する。

「私、実は、彼氏がいます!」

あまりにも軽やかで、あまりにも迷いのない言い切り。一瞬、頭が追いつかなかった。

か、彼氏?

隣の如月先輩の周囲の空気が、確かに数度下がったのを感じる。

「中1の時から付き合ってて……」
「こ、心菜ちゃん!!!」

慌てて声を上げてしまう。
これ以上この話を掘り下げるのは、あまりにも危険だ。

恐る恐る、隣を窺う。

しかし、

思っていたよりも、如月先輩の表情は穏やかだった。いや、それどころか、うっすらと笑みさえ浮かべている。

(……あれ?意外とこの手の話題は大丈夫なのかな?)

そして、如月先輩は静かに口を開いた。

「一回連れてこい、シメる」

僕は、まだ見ぬ心菜ちゃんの彼氏さんの無事を、心の底から祈らずにはいられなかった。