第八話
七瀬に告白された次の日の昼休み。
僕は奏に、中庭で昼食を取ろうと誘った。
期末テストが終わってからというもの、天気は一気に夏へ向かっていて、昼の陽射しは少し眩しすぎるくらいだ。それでも、校舎の影が落ちる中庭の隅は風が通っていて、外でご飯を食べるにはちょうどいい。
あとは、教室にいると、どうしても周りの視線や声が耳に入ってしまう気がしたのだ。
奏をここまで連れ出したのは、七瀬に告白されたことを相談するためでもある。
ベンチに並んで腰掛け、弁当の蓋を開ける。
しばらくは他愛もない話をしていたけれど、箸を動かす手はどちらもどこか鈍い。
「……なぁ、奏」
僕が声をかけると奏は箸を止めて、ちらりとこちらを見る。
「昨日さ……七瀬に、告白された」
言った。行ってしまった。
奏はどんな反応をするだろうか。
「おー、やっと?」
その反応に、今度は僕のほうが驚いた。
「え!? 奏は知ってたの!?」
思わず、両肩を掴んで前のめりになる。
「知ってたも何も……明らかというか、明白というか……見てれば分かるというか…………」
奏は少し引いたように僕の手を外してから、苦笑した。
「わっかんなかった……」
自分でも情けないと思うくらい、弱々しい声が出る。
「お前、人の顔よく見てるくせに、そういうとこ鈍感なのな」
奏の言葉は責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ事実を並べているだけだ。でも、胸にじわりと染みて痛い。
「僕……本当に全然知らなくてさ、七瀬とは、普通に仲良いクラスメイトだと思ってた。旗作りも、ただ楽しくて一緒にやってただけで……」
七瀬の、想いのこもった真っ直ぐな目。
震えながらも、勇気を振り絞ってくれた声。
思い出すたびに嬉しくて、切なくて……。
「嫌ではなかった。大切な友達だし、すごく良い子だし……好きって言われたのも、嬉しかった」
僕は奏を見る。
奏も、ちらりと僕の方をみた。
「……でも、なのに、なんでこんなにモヤモヤするんだろ」
奏はすぐには答えなかった。
少し間が空く。奏が言葉を選んでくれている時間だ。
「でさ、お前はどうしたいの?」
静かな声で、奏は言った。
どうしたいか。
その問いの答えは、昨日の七瀬からの告白の後ずっと考えていることで、同時にずっと結論を出すことを避けてきた。
「分かんない……」
正直にそう答えると、奏は小さく息を吐いた。
「じゃあ、聞き方変えるわ。
…お前が他の誰よりも目で追ってたくて、そばにいたいのは誰?」
誰。
名前を思い浮かべるより先に、情景が浮かんだ。
夕焼けの商店街。
優しい顔。
冷たい目線。
ぶっきらぼうな言葉遣い。
……赤くなった顔と、涙が溢れそうな瞳。
「……えっと」
喉が詰まって、うまく言葉が出ない。
奏は急かさない。
ただ、僕の次の言葉を待っている。
「奏、僕……誰かを傷つけたいわけじゃない」
指先が震える。
奏は淡々と「知ってる」と答えた。
「でも、この場合、全員傷付けないでハッピーエンドは難しいよ」
「……うん」
「全員に曖昧な態度取って逃げ続けたら、結局、誰のそばにもいれなくなる可能性もある」
奏は少しだけ、言葉を選ぶように間を取った。
風が吹いて、奏のよく管理されたホワイトブランドがサラサラと靡く。
「お前はさ、もう自分がどこに走って行きたいか、分かってんじゃねぇの?」
あぁ、出会ってから3ヶ月ほどしか関わっていない隣の親友は、どこまで僕のことを見透かしているんだろう。
遠回しに少しずつ、僕の気持ちを確かめさせてくれる。それは見方を変えると、どんどん逃げ場を無くされているのと一緒なのだけれど。
「僕、本当に走るの怖いんだ。全力で走った方向が正解かも分からないし、その道を選んだことを後悔するかもしれないじゃん?」
「うん」
僕は空を見上げる。全体的に少し雲がかかっているけれど、合間から見える青空は爽やかだ。
「道を間違って後悔する以上に、離れるのが怖い人がいる」
「なら、答え出てんじゃん」
ハッキリとは言わない。
でも、その一言で十分だった。
「お前が走りたい道と思う道の先には、誰かが立ってるんだろ」
胸の奥で、何かが静かに定まった。
「……ありがと、奏」
「いや別に、ただの雑談じゃん?お礼言われるようなことしてねーよ」
そう言って、奏は立ち上がって伸びをする。
「ただまぁ、色んなもの気にしすぎて、本当の自分の気持ちから目ぇ逸らすなとは、伝えておく」
伸びを終えた親友の背中を見ながら、僕は弁当箱を閉じた。
体育祭は明日。
そこで、全ての決着を付けよう。
______________
迎えた体育祭当日。
体育祭の開催が室内であるのが勿体無いくらいの快晴だ。
僕らは、体育館から各教室のテレビへリアルタイムで生中継されている映像を見つつ、競技に出るために体育館へ向かう同じ組の人たちを激励したり、気になる競技があったら自分達も体育館へ移動したりと、競技に出ていなくても忙しい時間を過ごしていた。
僕が出る組対抗リレーは、体育祭の一番最後。
一番盛り上がる種目で、一番注目される。分かっていたことだけれど、意識すればするほど、今から胃がキリキリと痛む。
____でも、その前に。
僕には、どうしても決着をつけなければならないことがあった。
「……七瀬、ちょっと良い?」
声をかけると、七瀬は一瞬、ぴしりと動きを止めた。それから、ゆっくりとこちらを向く。
緊張したように見開かれた目で、それでも逃げずに、ちゃんと僕を見てくれた。
言わなくても、何の話かは分かったのだろう。
「おー、行ってきなー」
「夕飯までには帰るのよ〜」
「もー……はいはい、ママ達」
周囲の女子達は、テレビから目を離さないまま、軽い調子で声をかけてくる。
踏み込みすぎない、その距離感が今はありがたかった。
「ひなひな、行こっか」
「うん」
七瀬を連れて教室を出るが、どこへ向かおうかと迷ってしまう。廊下も中庭も、きっと人が溢れている事だろう。
「……旗、見に行かない?」
七瀬が明るい声で言う。
「確かに!良いね!!」
体育館は混んでいるだろうと思ったけれど、今はそれが逆にいい気がした。
人の多さに紛れれば、きっと、必要以上に目立たずに済む。
体育館の扉は開け放たれていて、中から割れんばかりの歓声が溢れてきた。
「人、多いね」
「本当だね。普段、みんなどこに隠れてるんだろ」
大きな声を出さないと会話もできないほどの熱気。なるほど、と腑に落ちる。
七瀬は、こうなることが分かっていて、ここを選んだのだ。
体育館に足を踏み入れた瞬間、全身が歓声に包まれる。
今は障害物競走の真っ最中で、走者が転ぶたびに、笑いと悲鳴が混ざる。
「あ!見て、あった!」
七瀬が指差した先。
体育館の壁一面に、全クラス分の旗がずらりと飾られている。
「こうして並ぶと、圧巻だね」
「うん。でも、私達のが一番良い」
「間違いない」
叫ぶように会話をしながら、顔を見合わせる。
2人とも、自然と笑顔になっていた。
同時に、今から自分がこの七瀬の笑顔を崩してしまうかもしれないと思うと、気を重くなった。
「あのさぁ」
七瀬が先に口を開いた。
僕より背が低い七瀬は、見上げる形で、まっすぐ僕を見る。
「私ね、振られるの、分かってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の音が一気に遠のいた気がした。
僕が何も言えずにいると、笑顔のままで七瀬は続ける。
「誰が見ても分かるくらい、ひなひなの目には他の人……たった1人しか映ってないから」
七瀬の眉毛が下がり、笑顔が苦笑に変わった。
「ひなひながね、好きを自覚する前に付き合っちゃえば良いのかなって、悪いこと思ったの」
だんだんと、七瀬の笑顔が悲しい表情に変わっていく。それが悲しくて、僕も泣きそうになる。
でも次の瞬間、七瀬は、ぐっと唇を噛んでからまた笑った。
「リレー頑張ってね!応援してる!」
嘘のない応援の言葉だけれど、表情は悲しい気持ちを押し殺して、上から重ねてくれている笑顔だと分かった。
でも、そこに触れてしまうとせっかくの七瀬の気遣いを無碍にしてしまう気がして、あえて触れなかった。
「……入学してから今まで、1番仲良い女子は七瀬だし、これからも友達として仲良くしたいと思ってる。……よろしくね?」
まっすぐ七瀬の目を見て、言葉を選びながら伝えると、七瀬の大きな目がさらに見開かれた。そして、みるみる涙の膜が張って行き、焦ってしまう。
「あ、ご、ごめ……」
「謝らないで!!」
七瀬は強い声で、僕の言葉を遮った。
「ちょっとゴミが……、なんか虫とか。大きいの入ったから、保健室行くから!先帰ってて!!」
「う、うん。分かった。お大事に……!!」
顔を伏せたまま、七瀬は人混みを掻き分けて、一瞬で僕の目が届かない人混みに消えてしまった。
泣かせてしまった罪悪感で胸がじくじく痛むけれど、同時に、伝えたい事をしっかりと伝える事ができて清々しい気持ちだ。
僕は、最後、組対抗リレーでの決着に向けて、両手で自分の頬を叩いて気合を入れた。
______________
リレーの直前。
体育館の床に立った瞬間、天井の照明がやけに遠く、やけに白く感じた。反射する光が視界を刺して、瞬きをするたびに世界がちらつく。
観客席からの視線が、一斉にこちらへ向いているのが分かる。
期待、好奇心、評価。
それらが混ざった無数の視線が、皮膚の上にまとわりつくようで無意識に背中が強張った。
足先に力を入れると、わずかに震えているのが分かる。靴底越しに伝わる体育館の床の硬さが、現実を突きつけてくる。
——大丈夫、大丈夫。
いつも先輩を追いかけてるように、いつも通りに……。
胸の奥で、自分に言い聞かせていると、足に伝わる振動が大きくなってきた。後ろを見ると、同じ組の人が走ってきていたので、助走を始める。
すると、程なくしてバトンが渡された。
手のひらに触れたプラスチックの冷たさが、一気に体温を奪っていく。
最初の数mは良かった。
でも、それはすぐに裏切られる。
(あ……抜かれちゃった)
風を切る音と一緒に、視界の端を相手の背中がすり抜けていった。
足が、思うように前へ出ない。
「ひなひなー……!!」
「ひなひな、頑張れー……!」
ヤケにはっきりと聞こえる歓声は、応援の形をしているけれど、落胆を隠しきれていない、
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
ああ、やっぱり。ほら、見ろ。
やっぱり、足を引っ張ってる。
また、みんなをガッカリさせてしまう。
視界が狭くなり、音が遠のく。
心臓の音が、やけに大きく響き始めた時だった。
「陽向ぁ!!ラスト!!」
名前を呼ばれた。
如月先輩の声だった。
顔を上げると、まだ遠いけれど、如月先輩の姿が見えた。
それだけで、不思議と世界が戻ってくる。
色がはっきりして、音が形を取り戻して、息が肺の奥まで入ってくる。
__先輩の背中を、追いかけるんだ。
商店街で。
学校で。
眺めていた先輩の背中を、ただひたすら追いかけた、あの感覚。
足に力が入り、自然と走るスピードが速くなったのを感じた。
やがて、視界に先ほど僕を抜かした人が入ってくる。
間に合うか、間に合わないか。
そんな計算をする前に、バトンゾーンに入った。
目の前に、背中越しに伸びた如月先輩の腕を捉えると、僕は迷うことなく、先輩の手のひらにバトンを押し込む。
確かな手応え。
____繋いだ。
先輩は振り返らない。
一瞬で背中が遠くなり、小さくなった。
その背中を見送りながら、胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
僕からバトンを受け取った先輩が、隣に並んで走っていた人を大きく引き離した後、如月先輩は陸上部の精鋭でメンバーを固めていた他の組のアンカーの背中に迫ったが、惜しくも抜かすことは出来ず、僕らの組は2位だった。
でも、僕の胸の中には、悔しさよりも安堵の割合の方が大きかった。
——逃げなかった。
まずそれだけで、胸を張れた。
______________
後夜祭。
校舎の外は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、空はすっかり夕闇に染まっていた。
風が少し冷たくて、汗の残った肌を撫でる。
2年の1軍集団を見つけて話しかけると、如月先輩はジャンケンに負けて飲み物の買い出しに行ったと教えてくれたのだ。
校舎内の喧騒から抜け出したところにある自販機へ向かうと、そこには、持参したのであろうビニール袋いっぱいに飲み物を入れている如月先輩がいた。
「……先輩」
声をかけると、先輩はゆっくり振り返る。
照明に照らされた横顔は、昼間よりも影が深くて、感情が読み取りづらい。
でも、目が合った瞬間。
____ああ、今、伝えたい。
そう思った。
「僕」
一度、息を吸う。喉がひりつく。
先輩は、何も言わなかった。
「先輩のもっと色んな表情を、ずっと隣で見ていたいです」
僕の言葉を聞いて、先輩が顔を顰めた。
「んな、告白みたいな……」
「告白です」
先輩が目を丸くしてこちらを見る。
「他の誰かじゃない。色んな表情を持つ如月先輩のことが、好きです」
如月先輩は、小さく息を吐いて、視線を逸らす。それから、困ったように、でもどこか諦めたように笑った。
「……じゃあ、このジュース運ぶの、彼氏クンの初仕事な」
声は柔らかい声。
胸の奥で、何かが静かに、確かに、ほどけていった。
七瀬に告白された次の日の昼休み。
僕は奏に、中庭で昼食を取ろうと誘った。
期末テストが終わってからというもの、天気は一気に夏へ向かっていて、昼の陽射しは少し眩しすぎるくらいだ。それでも、校舎の影が落ちる中庭の隅は風が通っていて、外でご飯を食べるにはちょうどいい。
あとは、教室にいると、どうしても周りの視線や声が耳に入ってしまう気がしたのだ。
奏をここまで連れ出したのは、七瀬に告白されたことを相談するためでもある。
ベンチに並んで腰掛け、弁当の蓋を開ける。
しばらくは他愛もない話をしていたけれど、箸を動かす手はどちらもどこか鈍い。
「……なぁ、奏」
僕が声をかけると奏は箸を止めて、ちらりとこちらを見る。
「昨日さ……七瀬に、告白された」
言った。行ってしまった。
奏はどんな反応をするだろうか。
「おー、やっと?」
その反応に、今度は僕のほうが驚いた。
「え!? 奏は知ってたの!?」
思わず、両肩を掴んで前のめりになる。
「知ってたも何も……明らかというか、明白というか……見てれば分かるというか…………」
奏は少し引いたように僕の手を外してから、苦笑した。
「わっかんなかった……」
自分でも情けないと思うくらい、弱々しい声が出る。
「お前、人の顔よく見てるくせに、そういうとこ鈍感なのな」
奏の言葉は責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ事実を並べているだけだ。でも、胸にじわりと染みて痛い。
「僕……本当に全然知らなくてさ、七瀬とは、普通に仲良いクラスメイトだと思ってた。旗作りも、ただ楽しくて一緒にやってただけで……」
七瀬の、想いのこもった真っ直ぐな目。
震えながらも、勇気を振り絞ってくれた声。
思い出すたびに嬉しくて、切なくて……。
「嫌ではなかった。大切な友達だし、すごく良い子だし……好きって言われたのも、嬉しかった」
僕は奏を見る。
奏も、ちらりと僕の方をみた。
「……でも、なのに、なんでこんなにモヤモヤするんだろ」
奏はすぐには答えなかった。
少し間が空く。奏が言葉を選んでくれている時間だ。
「でさ、お前はどうしたいの?」
静かな声で、奏は言った。
どうしたいか。
その問いの答えは、昨日の七瀬からの告白の後ずっと考えていることで、同時にずっと結論を出すことを避けてきた。
「分かんない……」
正直にそう答えると、奏は小さく息を吐いた。
「じゃあ、聞き方変えるわ。
…お前が他の誰よりも目で追ってたくて、そばにいたいのは誰?」
誰。
名前を思い浮かべるより先に、情景が浮かんだ。
夕焼けの商店街。
優しい顔。
冷たい目線。
ぶっきらぼうな言葉遣い。
……赤くなった顔と、涙が溢れそうな瞳。
「……えっと」
喉が詰まって、うまく言葉が出ない。
奏は急かさない。
ただ、僕の次の言葉を待っている。
「奏、僕……誰かを傷つけたいわけじゃない」
指先が震える。
奏は淡々と「知ってる」と答えた。
「でも、この場合、全員傷付けないでハッピーエンドは難しいよ」
「……うん」
「全員に曖昧な態度取って逃げ続けたら、結局、誰のそばにもいれなくなる可能性もある」
奏は少しだけ、言葉を選ぶように間を取った。
風が吹いて、奏のよく管理されたホワイトブランドがサラサラと靡く。
「お前はさ、もう自分がどこに走って行きたいか、分かってんじゃねぇの?」
あぁ、出会ってから3ヶ月ほどしか関わっていない隣の親友は、どこまで僕のことを見透かしているんだろう。
遠回しに少しずつ、僕の気持ちを確かめさせてくれる。それは見方を変えると、どんどん逃げ場を無くされているのと一緒なのだけれど。
「僕、本当に走るの怖いんだ。全力で走った方向が正解かも分からないし、その道を選んだことを後悔するかもしれないじゃん?」
「うん」
僕は空を見上げる。全体的に少し雲がかかっているけれど、合間から見える青空は爽やかだ。
「道を間違って後悔する以上に、離れるのが怖い人がいる」
「なら、答え出てんじゃん」
ハッキリとは言わない。
でも、その一言で十分だった。
「お前が走りたい道と思う道の先には、誰かが立ってるんだろ」
胸の奥で、何かが静かに定まった。
「……ありがと、奏」
「いや別に、ただの雑談じゃん?お礼言われるようなことしてねーよ」
そう言って、奏は立ち上がって伸びをする。
「ただまぁ、色んなもの気にしすぎて、本当の自分の気持ちから目ぇ逸らすなとは、伝えておく」
伸びを終えた親友の背中を見ながら、僕は弁当箱を閉じた。
体育祭は明日。
そこで、全ての決着を付けよう。
______________
迎えた体育祭当日。
体育祭の開催が室内であるのが勿体無いくらいの快晴だ。
僕らは、体育館から各教室のテレビへリアルタイムで生中継されている映像を見つつ、競技に出るために体育館へ向かう同じ組の人たちを激励したり、気になる競技があったら自分達も体育館へ移動したりと、競技に出ていなくても忙しい時間を過ごしていた。
僕が出る組対抗リレーは、体育祭の一番最後。
一番盛り上がる種目で、一番注目される。分かっていたことだけれど、意識すればするほど、今から胃がキリキリと痛む。
____でも、その前に。
僕には、どうしても決着をつけなければならないことがあった。
「……七瀬、ちょっと良い?」
声をかけると、七瀬は一瞬、ぴしりと動きを止めた。それから、ゆっくりとこちらを向く。
緊張したように見開かれた目で、それでも逃げずに、ちゃんと僕を見てくれた。
言わなくても、何の話かは分かったのだろう。
「おー、行ってきなー」
「夕飯までには帰るのよ〜」
「もー……はいはい、ママ達」
周囲の女子達は、テレビから目を離さないまま、軽い調子で声をかけてくる。
踏み込みすぎない、その距離感が今はありがたかった。
「ひなひな、行こっか」
「うん」
七瀬を連れて教室を出るが、どこへ向かおうかと迷ってしまう。廊下も中庭も、きっと人が溢れている事だろう。
「……旗、見に行かない?」
七瀬が明るい声で言う。
「確かに!良いね!!」
体育館は混んでいるだろうと思ったけれど、今はそれが逆にいい気がした。
人の多さに紛れれば、きっと、必要以上に目立たずに済む。
体育館の扉は開け放たれていて、中から割れんばかりの歓声が溢れてきた。
「人、多いね」
「本当だね。普段、みんなどこに隠れてるんだろ」
大きな声を出さないと会話もできないほどの熱気。なるほど、と腑に落ちる。
七瀬は、こうなることが分かっていて、ここを選んだのだ。
体育館に足を踏み入れた瞬間、全身が歓声に包まれる。
今は障害物競走の真っ最中で、走者が転ぶたびに、笑いと悲鳴が混ざる。
「あ!見て、あった!」
七瀬が指差した先。
体育館の壁一面に、全クラス分の旗がずらりと飾られている。
「こうして並ぶと、圧巻だね」
「うん。でも、私達のが一番良い」
「間違いない」
叫ぶように会話をしながら、顔を見合わせる。
2人とも、自然と笑顔になっていた。
同時に、今から自分がこの七瀬の笑顔を崩してしまうかもしれないと思うと、気を重くなった。
「あのさぁ」
七瀬が先に口を開いた。
僕より背が低い七瀬は、見上げる形で、まっすぐ僕を見る。
「私ね、振られるの、分かってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の音が一気に遠のいた気がした。
僕が何も言えずにいると、笑顔のままで七瀬は続ける。
「誰が見ても分かるくらい、ひなひなの目には他の人……たった1人しか映ってないから」
七瀬の眉毛が下がり、笑顔が苦笑に変わった。
「ひなひながね、好きを自覚する前に付き合っちゃえば良いのかなって、悪いこと思ったの」
だんだんと、七瀬の笑顔が悲しい表情に変わっていく。それが悲しくて、僕も泣きそうになる。
でも次の瞬間、七瀬は、ぐっと唇を噛んでからまた笑った。
「リレー頑張ってね!応援してる!」
嘘のない応援の言葉だけれど、表情は悲しい気持ちを押し殺して、上から重ねてくれている笑顔だと分かった。
でも、そこに触れてしまうとせっかくの七瀬の気遣いを無碍にしてしまう気がして、あえて触れなかった。
「……入学してから今まで、1番仲良い女子は七瀬だし、これからも友達として仲良くしたいと思ってる。……よろしくね?」
まっすぐ七瀬の目を見て、言葉を選びながら伝えると、七瀬の大きな目がさらに見開かれた。そして、みるみる涙の膜が張って行き、焦ってしまう。
「あ、ご、ごめ……」
「謝らないで!!」
七瀬は強い声で、僕の言葉を遮った。
「ちょっとゴミが……、なんか虫とか。大きいの入ったから、保健室行くから!先帰ってて!!」
「う、うん。分かった。お大事に……!!」
顔を伏せたまま、七瀬は人混みを掻き分けて、一瞬で僕の目が届かない人混みに消えてしまった。
泣かせてしまった罪悪感で胸がじくじく痛むけれど、同時に、伝えたい事をしっかりと伝える事ができて清々しい気持ちだ。
僕は、最後、組対抗リレーでの決着に向けて、両手で自分の頬を叩いて気合を入れた。
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リレーの直前。
体育館の床に立った瞬間、天井の照明がやけに遠く、やけに白く感じた。反射する光が視界を刺して、瞬きをするたびに世界がちらつく。
観客席からの視線が、一斉にこちらへ向いているのが分かる。
期待、好奇心、評価。
それらが混ざった無数の視線が、皮膚の上にまとわりつくようで無意識に背中が強張った。
足先に力を入れると、わずかに震えているのが分かる。靴底越しに伝わる体育館の床の硬さが、現実を突きつけてくる。
——大丈夫、大丈夫。
いつも先輩を追いかけてるように、いつも通りに……。
胸の奥で、自分に言い聞かせていると、足に伝わる振動が大きくなってきた。後ろを見ると、同じ組の人が走ってきていたので、助走を始める。
すると、程なくしてバトンが渡された。
手のひらに触れたプラスチックの冷たさが、一気に体温を奪っていく。
最初の数mは良かった。
でも、それはすぐに裏切られる。
(あ……抜かれちゃった)
風を切る音と一緒に、視界の端を相手の背中がすり抜けていった。
足が、思うように前へ出ない。
「ひなひなー……!!」
「ひなひな、頑張れー……!」
ヤケにはっきりと聞こえる歓声は、応援の形をしているけれど、落胆を隠しきれていない、
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
ああ、やっぱり。ほら、見ろ。
やっぱり、足を引っ張ってる。
また、みんなをガッカリさせてしまう。
視界が狭くなり、音が遠のく。
心臓の音が、やけに大きく響き始めた時だった。
「陽向ぁ!!ラスト!!」
名前を呼ばれた。
如月先輩の声だった。
顔を上げると、まだ遠いけれど、如月先輩の姿が見えた。
それだけで、不思議と世界が戻ってくる。
色がはっきりして、音が形を取り戻して、息が肺の奥まで入ってくる。
__先輩の背中を、追いかけるんだ。
商店街で。
学校で。
眺めていた先輩の背中を、ただひたすら追いかけた、あの感覚。
足に力が入り、自然と走るスピードが速くなったのを感じた。
やがて、視界に先ほど僕を抜かした人が入ってくる。
間に合うか、間に合わないか。
そんな計算をする前に、バトンゾーンに入った。
目の前に、背中越しに伸びた如月先輩の腕を捉えると、僕は迷うことなく、先輩の手のひらにバトンを押し込む。
確かな手応え。
____繋いだ。
先輩は振り返らない。
一瞬で背中が遠くなり、小さくなった。
その背中を見送りながら、胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
僕からバトンを受け取った先輩が、隣に並んで走っていた人を大きく引き離した後、如月先輩は陸上部の精鋭でメンバーを固めていた他の組のアンカーの背中に迫ったが、惜しくも抜かすことは出来ず、僕らの組は2位だった。
でも、僕の胸の中には、悔しさよりも安堵の割合の方が大きかった。
——逃げなかった。
まずそれだけで、胸を張れた。
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後夜祭。
校舎の外は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、空はすっかり夕闇に染まっていた。
風が少し冷たくて、汗の残った肌を撫でる。
2年の1軍集団を見つけて話しかけると、如月先輩はジャンケンに負けて飲み物の買い出しに行ったと教えてくれたのだ。
校舎内の喧騒から抜け出したところにある自販機へ向かうと、そこには、持参したのであろうビニール袋いっぱいに飲み物を入れている如月先輩がいた。
「……先輩」
声をかけると、先輩はゆっくり振り返る。
照明に照らされた横顔は、昼間よりも影が深くて、感情が読み取りづらい。
でも、目が合った瞬間。
____ああ、今、伝えたい。
そう思った。
「僕」
一度、息を吸う。喉がひりつく。
先輩は、何も言わなかった。
「先輩のもっと色んな表情を、ずっと隣で見ていたいです」
僕の言葉を聞いて、先輩が顔を顰めた。
「んな、告白みたいな……」
「告白です」
先輩が目を丸くしてこちらを見る。
「他の誰かじゃない。色んな表情を持つ如月先輩のことが、好きです」
如月先輩は、小さく息を吐いて、視線を逸らす。それから、困ったように、でもどこか諦めたように笑った。
「……じゃあ、このジュース運ぶの、彼氏クンの初仕事な」
声は柔らかい声。
胸の奥で、何かが静かに、確かに、ほどけていった。
