人と書いて、『抗う』と読む


 それは、えもいえぬほどに美しかった。
 女性の歩く姿は、ふわりと地面から浮かんでいるかのようだった。一歩近づくたび、空気が澄んでいく。夏のはずなのに、指先が氷に触れたように痺れてくる。
 艶やかな長い黒髪と胸元から裾まで柔らかく広がる白いワンピースは、まるで息を潜めてこちらを見つめるアンティークドールのように、静かに靡いていた。
 不思議と周囲の音が遠のいた気がした。車の音も、遠くで鳴る蝉の声も、すべてが彼女の存在を避けるかのように消えていく。私の心臓だけが、不自然なまでに早く打っていた。
 女性は振り返ることなく、静かに歩みを進め、私のすぐそばを通り過ぎていく。その目は見えない何かを追うように鋭く、しかし、どこか遠い場所を見つめていた。
 呼び止めたい。声をかけたい。
 しかし、体が硬直して、言葉は喉に引っかかったままだった。

 「成美、どうしたの?ぼーっとしちゃって」
 「…え?」

 私の腕を軽くつかみ、渚は少し困ったように笑った。いつの間にか横断歩道は変わっていた。

 「信号、もう青だよ。早く渡ろう?」

 渚の声に、私はハッと我に返った。周囲にはさっきの異質な空気が嘘だったみたいに、いつもの夏の光景が広がっている。

 「うん……ごめん、ぼーっとしてた」


 私は咄嗟に答えたが、胸の奥にはまだ、あの女性の姿が残っていた。ほんの一瞬だけ別の世界を覗き見たかのような、切なくて、胸が締め付けられる感覚。私の中に嵐が住み着いた瞬間だった。