異世界で銭湯を建てたら、幸せな場所になりました 〜スキル【癒やしの湯】で届ける、ぬくもりの時間〜

 学校が休みの日、俺は実家の銭湯にこもっていた。
誰もいない昼下がりの『松の湯』。高校二年生の俺、伊集院颯太は、使い古したデッキブラシを両手で握り込み、全身の体重を乗せて男湯の床を磨き上げていた。狙うのは、タイルの隙間にあるわずかな汚れだ。
汚れていた場所が自分の手で真っ白になっていくのを見ると、心の中まで洗われていくような気がした。 職人気質の親父に「掃除こそが銭湯の命だ」と教わってから、俺にとってこれは欠かせない日課になっていた。
「よし、完璧だ」
掃除を終えて顔を上げると、そこには見違えるような景色が広がっていた。高い窓から差し込む太陽の光が、磨き上げたばかりのタイルに反射してキラキラと輝いている。先ほどまでの湿った熱気は消え、浴室には掃除をやり遂げた後の、清々しい空気が満ちていた。
俺は洗い場にあるお馴染みの黄色いプラスチック椅子を引き寄せ、腰を下ろした。  足の裏に触れるタイルのひんやりした感覚が、最高に心地いい。浴室にはまだ、微かに温かい湯気の名残が漂っている。この独特の湿度と、掃除を終えた後の心地よい疲れ。それらが混ざり合って、急に強烈な眠気が襲ってきた。
「開店まで、少しだけ、休憩……」
俺はゆっくりとまぶたを閉じ、そのまま深い、深い眠りの中へと吸い込まれていった。

それからどれぐらい眠っていたかはわからないが、ふと目が覚めたとき俺の頬をなでたのはカサカサに乾いた冷たい風だった。
「おや、大丈夫? こんなところで寝ていると、風邪を引いてしまうよ」
 頭の上から聞こえてきたのは、穏やかで温かい声だった。 俺は重いまぶたをゆっくりと開けた。 銭湯の天井に描かれた富士山を探したけれど、そこにあったのは、見たこともないほどに真っ青で、どこまでも高い空だった。
「え?」
呆然とする俺の視界を、大きな影がさえぎった。 そこに立っていたのは、一言で言えば、熊のような大男だった。 はち切れんばかりの筋肉を丈夫な革の作業着に包み、顔の下半分には濃い無精髭をたくわえている。
けれど、その奥にある瞳は驚くほど優しそうだ。 男の肩には、巨大な木槌が担がれている。けれど、彼はそれを重いとも思わずに、ひょいと持ち直して笑った。
「すごく大きな体……」
「ははは。驚かせてしまったね。この体のせいで、よく怖がられてしまうんだよ。自分でも困ったものだと思っているんだけどね」
この人には威圧感なんてまったくない。近所に住んでいる、力持ちの優しいおじさんという感じだ。
俺はあわてて周りを見渡した。 そこは実家の銭湯どころか、見慣れた日本の街並みですらなかった。 石造りの古い建物が並び、遠くにはファンタジーアニメで見るような時計塔が立っている。 道を行く人たちの服も中世の物語のようで、どう考えても、俺の知っている東京じゃない。
「あの……ここ、どこですか?」
「ここはグラキリス王都の広場だけど? こんなところでぐっすり眠るなんて、よほど疲れていたんだね」
男の口から出たその名前に、俺の思考はピタリと止まった。
「グラ……キリス……?」
聞いたことがない。日本の地名じゃないのは確かだ。それどころか、世界のどこかの国だとしても、そんな名前は一度も耳にしたことがなかった。
「えっと、それって、何県ですか?それとも、ヨーロッパの方ですか……?」
俺の問いかけに、男は不思議そうに大きな首をかしげた。
「ケン?ヨーロッパ?よくわからないが、ここはグラキリス王国の中心、王都だよ。この国で一番大きくて、一番賑やかな街だ。もしかして君、自分がどこにいるかもわからずに寝ていたのかい?」
「王国」その言葉が、映画やゲームの中のセリフみたいに、現実味なく耳を通り過ぎていく。
俺はもう一度、必死になって周囲を見渡した。電柱がない。自動販売機がない。コンビニの派手な看板も、車が走る音も、スマホを見ながら歩く人の姿も、どこにもない。
(嘘だろ……。これ、本当に……日本じゃないのか?)
認めたくなかったけれど、目に映るすべての景色が、ここが俺の知っている場所ではないことを冷酷に告げていた。  
「嘘だ……俺、さっきまで東京の、実家の銭湯にいたはずなんだぞ……」
震える声でそう呟いていると男は、ただ困ったように眉を下げて、大きな手で俺の肩をポンと叩きこう言った。
「どうだい、もし行く当てがないのなら、一度うちに来ないかな?」
「遠慮はいらないよ。困っている君を放っておくほど、俺の心は狭くないつもりだ。さあ、立てるかな?」
男は、大きくて温かそうな手を俺に差し出してくれた。 不安でいっぱいだった俺にとって、その手はまるで救いのように見えた。
俺はその手をしっかりと握り、立ち上がった。男の広い背中を追いかけながら、見たこともない異世界へと歩き出した。
救ってくれた大男の背中は、近くで見るとより一層大きく、頼もしく見えた。
「あの、助けていただいてありがとうございます。俺、伊集院颯太といいます」
緊張しながら名乗ると、男は歩みを止めずに、愉快そうに肩を揺らした。
「颯太か、いい響きの名前だ。俺はゼフ。この街で建築の仕事をしている」  
ゼフはそう言って、太い指先で自分の鼻先をかいた。
「それで颯太、君はどこから来たんだい? その服も、見慣れない素材だが」
「俺……日本という国から来ました。東京の、下町にある銭湯の息子なんです」
「ニホン? トウキョウ? すまないが、聞いたこともない名前だ。このグラキリス王国からは、相当遠い場所のようだね」
遠いなんてレベルじゃない。おそらく世界そのものが違う。
俺はゼフの広い背中を見つめながら、自分が不思議な場所にいることを、あらためて突きつけられたような気がした。
ゼフの家は、王都の路地裏にある、石造りの建物だった。中に入ると、木の香りと古い工具の匂いが混ざり合った、職人の家らしい空気が漂っている。
椅子に座るよう促されたが、俺の体には異変が起きていた。ここの空気は、驚くほど乾燥している。冷たい風が、俺の肌から容赦なく水分を奪っていく。慣れない異世界への緊張も重なり、肌はカサカサに乾き、心まで凍えていた。
「ゼフさん。あの、体を洗いたいんですが、お風呂を借りてもいいですか?」  
俺の問いに、ゼフはきょとんとした顔をした。
「オフロ? ああ、体を綺麗にしたいのか。それならあそこにある水桶と布を使うといい」
「もしかして拭くだけですか? お湯に、肩までどっぷり浸かったりは?」
「お湯に浸かる? 」
その言葉を聞いた瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。この世界には、「お湯に浸かる」という習慣そのものがないのだ。
(嘘だろ……汚れは落ちても、これじゃあ心の疲れが落ちない)
湯船に入っている、あの至福のひとときが、今は何よりも恋しい。 芯から冷え切り、カサついたこの体を、温かなお湯で包み込みたい。俺の魂が、悲鳴を上げるようにお湯を求めていた。
「湯船に浸かりたい。お湯に包まれて、全部忘れたい…… 」
俺はふらふらとした足取りで、部屋の隅にあった古い木桶に近づいた 。
俺は膝をつき、実家の『松の湯』にある深い浴槽を思い浮かべながら、その木桶の縁にそっと両手を置いた 。
(ああ……あのお湯の温かさが、今、ここにあればいいのに…… )
 その瞬間だった。俺の両手から、視界を真っ白に染め上げるほどのお湯が溢れ出した 。
「これって、よく漫画や小説にある『スキル』ってやつか?」
俺の頭に、異世界ものの物語でお決まりの展開が浮かんだ。特別な力に目覚め、未開の地で無双する主人公たち。俺に宿ったのは、剣の才能でも強大な攻撃魔法でもない。けれど、実家の銭湯を誰よりも愛してきた俺にとっては、これ以上ないほどに最高で、誇らしい力だ。
「な、なんだ!? 何が起きた! 」  
背後でゼフの驚愕する声が聞こえる。
木桶の中に力強い水音が響き、みるみるうちに、桶から信じられないほど豊かな、真っ白な湯気が立ち上る。溢れ出してきたのは、見たこともないほど澄み渡り、ダイヤモンドの粉を散りばめたようにキラキラと輝くお湯だった。
家全体を一瞬で包み込むような、圧倒的に心地よい熱気。それは無限に湧き出し、古い木桶を満たして、ついには縁から溢れ出した。
「あたたかい……」
俺は、そのお湯にそっと手を浸した。
「おい、ちょっと待て! 颯太、その光る水は一体!?」
ゼフが驚きを隠せない様子で駆け寄ってきた。彼はその不思議な現象を確かめようとして、吸い寄せられるようにお湯に手を差し入れた。
その瞬間、ゼフの動きが止まった。
「これは……」
ゼフの太い腕には、長年の建築仕事でついた無数の古傷や痛々しいあざがあったが傷跡が、お湯に触れた場所から、まるで傷がなかったようにみるみるうちに消えていくのだ。
「長年の傷が消えていく。それとなんだ、この気持ちは……」
「心が、驚くほど穏やかになっていく。毎日、仕事の締め切りや建材のやりくりに追われて、余裕なんてこれっぽっちもなかったのに……。まるで、心の奥底に溜まっていた重たい泥が、温かいお湯に溶けて流されていくみたいだ。こんなに清々しくて、優しい気持ちになれるなんて……」
俺とゼフは、立ち上る湯気の中で確信した。これこそが、この世界を救うものなのだということを。
「俺には、お湯を湧き出させる力が宿ったみたいです。ただのお湯じゃありません。傷を治すだけでなく疲れきった心までも癒す、いわば『癒しの湯』ですね」
そして俺はゼフの目を見つめ、力強く宣言した。
「ゼフさん。俺は……ここじゃない別の世界からやってきたんです」
ゼフの目を見つめ、静かに語り始めた。
「俺がいたのは日本という、こことは全く違う世界です。そこには銭湯っていう、誰もが大きなお湯に浸かって、疲れを癒やす場所があるんです」
「セントー?」
「はい。それで俺の家は、その日本で代々『松の湯』という銭湯を営んでいる家なんです。そこではただ体を洗うだけじゃなくて、見ず知らずの他人が同じお湯に浸かって、心まで温め合う場所なんです」
自分の想いを込めるように言葉を続けた。
「それで、この世界に銭湯を作ってみたいんです。この『癒しの湯』の力を使って、みんなを癒す場所を作りたい!ゼフさん、俺に力を貸してください!」
熱意を受け止めるように、ゼフは深く、長く息を吐き出した。やがて、その大な手で自分の無精髭をガシガシと掻くと、不敵な笑みを浮かべた。
「ハハハ! 違う世界から来た銭湯の家の人か……気に入ったぞ、若いの。建築魔法使いとしての俺の魂が、今、猛烈に騒いでやがる。お前の最高の銭湯を建ててやるぞ!」
ゼフはそう言うと、俺を路地裏の奥にある広々とした空き地へと連れて行った。彼が巨大な杖を掲げると、周囲の空気がビリビリと震え始める。
「見ていろ。これが俺の魔法だ!」
ゼフの建築魔法により、地面の石材が生き物のようにうねり、浮き上がり、次々と組み合わさっていった……

その日から、俺とゼフの挑戦が始まった。魔法を使えば一瞬で完成するなんてことはなく、甘いものではなかった。俺がずっと頭の中で描き続けてきた、理想の銭湯を形にするため、俺たちは何日間も試行錯誤を繰り返した。
最初の数日間は、基礎工事と全体の空間作りに費やされた。ゼフが巨大な杖を掲げると、空き地の地面が地響きを立ててうねり、土台となる石材が組み合わされていく。俺はその横で、身振り手振りを交えながら理想の構造を伝えた。
「ゼフさん、天井はもっと高く! 湯気がゆったりと回って、空へ抜けていくような、圧倒的に開放的な空間にしたいんです」
 それから数か月過ぎた頃、工事は内装へと移った。浴室は、どっしりとした木の浴槽が据え付けられた。ゼフが厳選してきた香りの良い木材が、魔法によって精密に、狂いなく組み合わされていく。
石造りの街並みの中に、温かな木の温もりを感じさせる不思議な建物が、ついにその姿を現した。高い窓からは柔らかな陽光が差し込み、完成したばかりの浴室には、かつて俺が磨き上げてきたあの場所と同じ、清々しい空気が満ちていた 。
俺は、洗い場の定位置にそっと腰を下ろした。足の裏に触れるタイルのひんやりした感覚が、最高に心地よい。これだ、俺がずっと作りたかった、理想の銭湯がここにある。
「完璧です……。ゼフさん、本当にありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いぞ。ここにお前のお湯が満ちて、初めて完成なんだろう?」
ゼフの言葉に、俺は深く頷いた。
ゆっくりと浴槽に近づき、自身の全てを込めるように、その木の浴槽に両手をかざすと『癒しの湯』が満たされた。浴室には木の芳醇な香りと、俺の力で生み出された清らかな湯気が立ち込めている。ゼフと共に作り上げた理想の銭湯。その完成を静かに噛みしめていると、ふと、脱衣所の方からトテトテという小さな足音が聞こえてきた。
不思議に思い、湯気の向こう側にある脱衣所を覗き込んだ。すると、そこには一匹の小さな生き物が座っていた。白、茶、黒の三色の毛並みに、ピンと立った耳。姿かたちは俺の知っている三毛猫そのものだ。けれど、その尻尾の先は二股に分かれている。
「猫? じゃないよな」
 どう見ても猫なのだが、この世界にそんな動物はいないはずだ。俺が呆然としていると、ゼフが、その生き物を見て目を見開いた。
「おいおい、颯太! こいつは『ミュー・ケット』じゃないか!幸運を呼び込むと言われている生き物だぞ」
そのミュー・ケットは、金色の瞳でじっとこちらを見つめると、迷いのない足取りで近づいてきた。そして、足元に柔らかい体をすり寄せ、「ミュー」という声で鳴く。
「お前も、ここが気に入ったのか?」
問いかけると、ミュー・ケットは満足そうに目を細めた。そして、まるで最初から居場所が決まっていたかのように、番台の横にある棚の上へとひょいと飛び乗った。
異世界で出会った、不思議で愛くるしい相棒。 こうして、この銭湯には最高のお湯と、最高に可愛い看板のミュー・ケットが揃ったのだった。

数日後、石造りの街並みに場違いなほど真っ白な暖簾が揺れていた。表には、ゼフが魔法で刻んでくれた『銭湯』という文字。その下には、どこからか拾ってきた板に俺が書き殴った『本日開店』の文字が躍っていた。
「本当にお客さん、来るのかな」
番台で丸くなっているミュー・ケットの頭を撫でながら、俺はつぶやいた。異世界の人々にとって、お湯を張った湯船に浸かるのは未知の領域。そう簡単に足を踏み入れてくれるとは思えない、そう諦めかけた時だった。
ガシャン、と重苦しい金属音が暖簾の向こうで響いた。現れたのは、一人の女性だった。銀色の鎧はあちこちがへこみ、引きずった長剣は刃こぼれし、結い上げた金髪も乱れ放題だ。
「なんだ、この建物は。妙に心が落ち着く香りがするが」
彼女はふらふらとしながら建物の中に入ってきた。戦場から生き延びたばかりなのか、その肩は激しく上下し、指先は微かに震えている。
「あ、いらっしゃいませ。ここは疲れを癒す場所、銭湯です。よければ、お湯に浸かっていきませんか?」
俺の声に、女騎士は警戒したように目を鋭くした。
「疲れを癒やすだと?この奥で一体何を企んでいる。向こうから、得体の知れない熱気と、奇妙に湿った空気が漏れ出してきているぞ……」
彼女にとって、体験したことのない湿気を帯びた熱い空気は、何か不吉な罠のように感じられるらしい。一触即発の空気が流れたその時、奥から聞き慣れた快活な声が響いた。
「おや、エリスじゃないか。そんなボロボロの姿でどうしたんだい?」
現れたのはゼフだった。彼が自分の知り合いだと気づいた瞬間、女騎士のエリスの肩から、目に見えて力が抜けていく。
「ゼフ殿……なぜここに。この怪しげな建物は、もしや貴殿が?」
「ははは、驚いたかい? 俺の建築魔法の最高傑作だよ。安心しな、エリス。この颯太が生み出す『癒しの湯』は、あんたのその傷ついた心身を救ってくれる唯一の魔法さ」
 ゼフの頼もしい言葉に、エリスは戸惑いながらも俺を見つめた。 その瞳には、極限の疲れと「何をされるのか」という不安が混ざっている。俺は番台から、彼女を安心させるようにゆっくりと語りかけた。
「エリスさん。ここは銭湯という場所です。ここでは、身に着けている鎧も、服も、すべて脱ぎ捨てていただき、裸になっていただくんです」
その言葉に、エリスは頬を赤くして絶句した。
「な、何を……!? 破廉恥な! 騎士を辱めるつもりか!」
「違います! もちろん男と女が入る場所は分かれています。それに服をすべて脱ぐのは、この『癒しの湯』の力を、全身で受け止めるためなんです。重い鎧をつけたままじゃ、癒しの力は届きませんから」

 俺はさらに、彼女にとって未知の体験である「入浴」について説明を続けた。
「裸になったら、まずはお湯を体に浴びて、汚れを綺麗に洗い流してください。いきなり湯船に入るんじゃなくて、まずは外で体を清める。それがこの場所の流儀です」
「そうして体を温める準備ができてから、大きな木の浴槽に溜まったお湯の中に、肩までどっぷりと浸かってほしいんです。ただそれだけで身も心も癒されるのです」
エリスは信じられないといった様子で、浴室の方へと続く扉を見つめた。
俺の言葉を、エリスは噛みしめるように聞いていた。やがて、番台で丸くなっているミュー・ケットに視線を移すと、観念したように息を吐いた。
「ゼフ殿が信じた男だ。その妙な自信、少しだけ信じてみよう」
俺は番台から女湯の方を指さした。
「あちらの扉の先が、女性専用の場所です。まずはその重い鎧を脱いでみてください。今のエリスさんに一番必要なのは、戦うための強さじゃなくて、ただの休息ですから」
そしてエリスは女湯の仕切りの向こうへと足を踏み入れた。
脱衣所に行くと木の香りが清々しく漂う静かな空間だった。磨き上げられた木の床が、裸足になったエリスの足裏を優しく迎える。血と泥に汚れた重い銀鎧を一つずつ外していったが、重苦しい音が響くたびに彼女を縛り付けていた戦いの重圧が、剥がれ落ちていくようだった 。
最後に肌着を脱ぎ捨て、鏡に映る傷だらけの自分を見つめる。
「身軽だな」
かつてない解放感に戸惑いながら、彼女は浴室の扉を押し開けた 。
「信じられん。こんな光景初めて見たぞ」
エリスはその光景に圧倒されながらも、颯太に教わった通り、まずは桶でお湯を汲み、丁寧に体を洗い流した。 汚れと共に、肌にこびりついていた戦いの緊張が少しずつ剥がれ落ちていく。そして、恐る恐る、熱を孕んだ水面へと足を踏み入れた。
「ひゃっ!? 熱い。だが、なんだ……全身が熱に喰われるような、不思議な感覚……」
しばらくしてエリスはゆっくりと湯船の中に身を沈めていく。
「あぁ……」
それは、騎士として張り詰めていた心が、一気に解けていくような深いため息だった。
「これは体が、羽根のように軽い。鎧の重さも、戦いの恐怖も、すべてがお湯に溶けて消えていく」
そして今のエリスには先ほどまでの刺々しさが消え、癒しの湯の効果で身も心も満たされたため穏やか表情をしていた。

 女湯の暖簾が静かに揺れ、エリスがロビーへと戻ってきた。そこにいたのは、先ほどまでの痛々しい騎士ではない。頬は林檎のように赤らみ、濡れた金髪からは清々しい湯気が立ち上っている。磨き上げられた肌は白く輝き、その表情からは、刺々しい殺気が綺麗に消え去っていた。
「颯太殿」
エリスは番台に座るこちらを、どこか決まり悪そうに見上げた。その足取りは驚くほど軽く、先ほどまで引きずっていた重い長剣さえも、今は腰で静かに収まっている。
「体が、まるで作り替えられたかのようだ。重い鎧を脱いだだけでは、決してこうはならぬ。魂の汚れまで、あの温かな水に溶け出したような心地だ」
感心した声を漏らす彼女の前に、あらかじめ用意しておいた瓶を差し出した。
「お疲れ様でした。エリスさん、これ、湯上がりにどうぞ」
「これは……? 」
不思議そうに瓶を手に取る彼女に、中身の説明をする。
「ボヴィアの乳です。すごく濃厚なんですよ」
この世界に牛という動物はいない。そこで、ゼフに教えてもらった牛によく似た大型の草食獣のボヴィアから採れる濃厚な乳なのだ。
「俺の故郷では、お湯から上がった後はこういうものを飲むのが定番なんです。腰に手を当てて、一気にいくのがコツですよ」
 エリスは戸惑いながらも、教えられた通りに腰に手を添え、瓶を勢いよく傾けた。飲み終えた瞬間、彼女の口から「プハッ!」という、晴れやかな吐息が漏れた。
「こんな至福を味わったのは、生まれて初めてだ」
空になった瓶をじっと見つめるエリス。その瞳には、先ほどまでの絶望の影はもうどこにもなかった。隣で見守っていたゼフが、豪快に笑いながら彼女の肩を叩く。」「ははは! 言っただろう、エリス。こいつの作るお湯と、その後の楽しみは格別だってな」
「ああ、ゼフ殿。……颯太殿、感謝する。私は戦いが終わり、今日この街に帰ってきたがこのまま野垂れ死にそうだった。だがこの場所で、勇気を貰った気がする」
そしてエリスはふと思い出したように、腰に下げた革袋に手を伸ばした。
「そうだ、あまりの心地よさに失念していた。颯太殿、お代はいかほどだろうか?」
俺は笑って首を横に振った。
「いいえ、お代はいりません。」
「なっ……無料だと?これほどの設備とお湯を維持しながら、金を取らぬというのか。それでは商売にならんだろう」
驚く彼女に、俺は番台越しに穏やかに語りかけた。
「お金を儲けるためにやっているわけじゃないんです。俺はこの『癒やしの湯』の力を使って、戦いや仕事で疲れた人たちが、また頑張ろうって思える場所を作りたいだけですから。皆さんの笑顔が、俺にとっての報酬ですよ」
「そうなのか。颯太殿は、他人を思いやる気持ちがすごくあるのが伝わったよ」
そう言うとエリスは深く頭を下げ、背筋を真っ直ぐに伸ばして出口へと向かった。
異世界で初めてのお客さん。一人の騎士の心を救い、再び剣を握る活力を与えた。

それから初めてエリスがこの場所を訪れてから一か月が経った 。
王都の路地裏で揺れる暖簾は、今やこの街の新しい名物となっていた 。
暖簾をくぐったエリスは、ロビーに溢れる人々の熱気に思わず目を見張った。
「今日もすごい賑わいだな」
「あ、エリスさん! いらっしゃいませ」
番台でテキパキとお客さんを対応していた颯太が、顔を上げて笑顔を見せた 。その横では、番台の主のように鎮座したミュー・ケットが、誇らしげに喉を鳴らしている 。
「エリス、また来たのか。すっかりここの常連さんじゃないか!」
ロビーの隅で、新しく設置したイスの具合を確かめていたゼフが、豪快な笑い声を上げた 。
「ゼフ殿、颯太殿。これほどまでの盛況ぶり、正直驚いた。最初はお湯に浸かることを拒んでいた街の者たちが、今では皆、晴れやかな顔でここを後にしている」
エリスの言葉通り、湯上がりのお客さんたちは皆、身も心も軽やかになった様子で、互いに「いい湯だった」と言い合いながら帰路についている。
「嬉しいですね。でも、俺が作りたかったのは、単にお湯に浸かるだけの場所じゃないんです」
俺は、浴室の方から聞こえてくる笑い声に耳を澄ませながら、穏やかな声で続けた。
「銭湯の良さは、『人とのつながり』を感じられることにあると思っています 。何度も通っているうちに自然と顔見知りができて、いつの間にか仲間ができる、そういう場所なんです」
ゼフとエリスは、颯太の言葉を一言も漏らさぬよう静かに聞き入った。
「一人で寂しさを抱えている時もあるかもしれない。でも、この暖簾をくぐれば、誰かがいて、温かいお湯がある。ここは、体だけじゃなく、心までぽかぽかにして、また明日から頑張ろうって思える場所なんです。俺はここでも、そんな場所を作りたかった」
 颯太の想いに応えるように、ミュー・ケットが「ミュ~」と優しく鳴いた 。
エリスは自身の腰に差した剣をそっと撫で、それから深く頷いた。
「確かに、その通りだな。私もあの日、ここで救われた一人だ。颯太殿、貴殿の作ったこの場所は、今やこの王都の灯火となっている」
外では暮れなずむ王都の空に、一番星が輝き始めていた。『癒しの湯』から立ち上る真っ白な湯気は、今日も人々の疲れと孤独を優しく包み込み、夜の空へと溶かしていく。
異世界に現れた一軒の銭湯。そこには今日も、最高のお湯と、人々の温かな笑顔が溢れている……