クラスのぼっちギャルを更生させて自分を大切にすることを教え込んでやった話。

 北海道の春の太陽は、決して芯から熱く感じることはない。
 カーテンの隙間から差し込む光は、細く、どこか青白い。 俺は瞬きを繰り返し、この半年間で見慣れたはずの天井をじっと見つめた。

 だが、今朝は何かが違っていた。

 独身男のむさ苦しいアパートには似つかわしくない、微かな香りが漂っていた。安っぽい洗剤や古本の埃の匂いじゃない。それはもっと……柔らかい、花のようでもあり、俺が普段使っているものより高価なシャンプーのような香りだった。

 そこで、昨夜の出来事が一気に脳裏に蘇る。

 雨。公園。ずぶ濡れの金髪の少女。そして、彼女を居候させるという俺の狂った決断。

「……本当に、やっちまったんだな」俺は独り言を漏らした。

 すぐに起き上がり、ベッドを整える。躊躇いがちな足取りで自室のドアを開け、キッチンと繋がった小さなリビングへと向かった。
 そこでは、ソファの上で五木アイがまだ眠っていた。 昨夜貸した予備の毛布に包まり、小さく丸まっている。厚化粧のギャルメイクもカラーコンタクトもない彼女は……昨日とは、全く別人のように見えた。

 眠っている顔はとても穏やかだが、目尻には消しきれない疲労の影が残っている。長い睫毛が微かに震えた。
 彼女は、ただのどこにでもいる女子高生に見えた。学校で噂されているような「悪い女」でも、「安い」女でもない。ただ、帰る場所を求めていた一人の女の子だ。
 覗き魔だと思われないうちに視線を逸らし、俺は簡単な朝食の準備を始めた。トーストとインスタントの味噌汁。この寒い朝に腹を温めるには、それで十分だろう。

 チン!

 トースターの跳ね上がる音がして、アイが飛び起きた。

「あ……っ!」

 彼女は直立不動のように座り直し、警戒心を露わにして目を見開いた。毛布が床に滑り落ちる。

「おはよう」俺は努めて冷静に言い、小さな食卓に二つの皿を並べた。

 アイは何度も瞬きを繰り返し、困惑した様子で部屋を見渡してから、ようやく俺に視線を止めた。彼女の顔が、耳の先までじわじわと赤くなっていく。

「あ、荒木さん……っ! ごめん! こんな昼まで寝ちゃって!」
「まだ朝の七時だ、アイさん。急ぐ必要はない」俺は答えた。
「顔を洗って、朝飯を食え。そろそろ学校へ行く時間だ」

 彼女は固く頷くと、ひどくぎこちない足取りで洗面所へと駆け込んでいった。

 ***

 学校への道のりは、いつもより長く感じられた。

 俺たちは並んで歩くことはしなかった。アイは俺の三メートルほど前を歩き、顔をマフラーに埋めるようにして俯いている。
 もし他の生徒に一緒に登校しているところを見られれば、彼女の噂はさらに加速し、俺まで巻き込んでしまうことを恐れているのだ。

(自分の人生がボロボロなのに、まだ俺のことを気にかけてるのか……)

 教室に着くと、いつも通りの喧騒が広がっていた。窓際の一番後ろ、自分の席に座るなり、二人の人物が俺を襲撃した。

「おい荒木! お前が遅刻ギリギリなんて珍しいじゃねえか」威勢のいい声が響く。

 信悟しん さとるだ。中学からの親友で、そのエネルギーとテンションは、見ているだけで疲れることもある。

「きっとまた夜更かしして小説でも読んでたんでしょ、悟。邪魔しちゃダメよ」隣に立つ少女が、薄く微笑みながら口を添えた。

 千夏明日香ちなつ あすか。悟の彼女だ。中学時代から付き合っている二人は、時に嫉妬を覚えるほど安定した関係を築いている。
 明日香は冷静で大人びたタイプで、お祭り騒ぎの悟とは対照的だ。

「何でもない、ただ少し寝坊しただけだ」俺は短く返した。

 悟が目を細め、身を乗り出して小声で囁いてきた。「なあ、荒木……さっき五木さんが教室に入ってきたんだけどさ。あいつ、今日なんか雰囲気が違った気がするんだ。髪もいつもより整ってたし」

 俺は黙り込んだ。当然だ。彼女は俺の家でシャワーを浴び、今朝ちゃんと髪を梳かしていたのだから。

「気のせいだろ」俺は教科書を開きながら受け流した。
「へえ……冷たいねえ」悟が茶化す。
 だが、明日香の視線は俺から離れなかった。彼女は鋭い女の勘を持っている。
「荒木くん、何か悩み事があるなら相談してね? 私たち、長い付き合いなんだから」

 俺は明日香を見つめ、それから前列に座るアイに目をやった。彼女はギャル仲間に囲まれ、どこか無理をしているようなトーンで笑っている。

(まさか、彼女が俺の家に住んでいるなんて言っても信じないだろうな)

「ありがとう、明日香。でも大丈夫だ」

 授業が始まったが、思考は上の空だった。俺は昨夜の自分の言葉を反芻していた。『もっと自分を大切にすると約束しろ』。 他人の自尊心を修復するのは、簡単なことじゃない。壊れた物を直すのとはわけが違う。根気のいる、長いプロセスだ。
 窓の外に目をやる。北海道の空はまだ灰色だが、少なくとも雨は止んでいた。

 一年。卒業までに、彼女が自分の足でしっかりと立てるように。あの痛々しい『ギャル』の仮面に隠れなくて済むように。
 だが、俺はまだ気づいていなかった。この学校には、俺たちの不自然な関わりに気づき始めた「別の目」があることに。