放課後、図書室で君に出会った

「……帰らないのか」

 雨粒がコンクリートを叩く音が、辺りに大きく響いていた。

「……今日()も、帰りたくなくて」

 高瀬は小さくそう言って、濡れた前髪を指で押さえた。

 言葉の選び方が、妙に引っかかる。

「“も”か。最近? ずっとか」
「うん。図書室に行かない代わりに、ここで時間潰してるんだ」

 即答だった。
 考える間も、誤魔化す余地もない、あまりに正直な返事。

 胸の奥で、嫌な音がした。

「家、何かあったのか」
「……いつも通り、だよ。いつも通り、なんだ」

 そう言って、高瀬は視線を逸らす。
 濡れた地面を見つめる横顔は、どこか大人びて見えた。

 同時に、居場所を失った子どもみたいにも見える。
 俺はそれ以上問い詰められず、黙って鞄に手を伸ばした。

 中から取り出したタオルを、そのまま差し出す。

「……」

 一瞬きょとんとした顔をしてから、高瀬はゆっくり受け取った。

「……ありがとう」

 少し遅れて、噛み締めるように呟く。

「このままじゃ、風邪ひく」
「うん。でも……」

 言葉が続かない。
 帰る場所がない、と言っているように聞こえた。

 迷った。

 ほんの一瞬。

 けれど、その迷いは、思ったより短かった。

「俺んち、来い」
「……え」

「別に変な意味じゃない。母さんも妹もいるし、二人ともまたお前に会いたいって言ってる」
「……それでも」

「帰りたくないんだろ」

 言い切ると、高瀬は言葉を失った。
 雨音の中で、唇を噛む仕草だけが、やけに鮮明に見える。

「……一晩だけ、お世話になってもいい?」

「ああ。好きなだけいろ。俺は大歓迎だ」

 そう答えた自分に、少し驚いた。
 心の奥で思っていた言葉が、そのまま口に出ただけなのに。

◇◇◇

 家に着く頃には、雨は小降りになっていた。

「ただいまー」

「おかえりー……って、高瀬さん!?」

 玄関から顔を出した妹が、状況を察した瞬間、目を輝かせる。

「桜。雨でびしょ濡れだから、今日は泊める。母さんにも言っといてくれ」

「……了解! でもお兄ちゃんもとうとう、そういう時期が――」

「高瀬、行くぞ」

 余計な言葉を遮って、タオルを追加で押し付ける。

 母さんは桜から事情を聞くと、深くは何も聞かず、黙って風呂を沸かし、夕食まで用意してくれた。

 その気遣いが、逆に胸に刺さる。

 高瀬は終始、申し訳なさそうだった。

「本当に、ごめん」
「謝るな。誘ったのは俺だ」  

 風呂上がり。

 貸したジャージに身を包んだ高瀬は、昼間よりずっと幼く見えた。

 肩の力が抜けたせいか、年相応の輪郭がはっきりしている。

「……彰くんの家。やっぱり落ち着くね」
「そうか」

 何気ない一言なのに、胸の奥がじんわり熱くなる。
 夜は、思った以上に静かだった。

 ベッド下に客用の布団を敷き、電気を消す。

 暗闇の中で、すぐ隣に誰かがいる気配が、こんなにもはっきり伝わってくる。

「……今日は、ありがとう」
「もう寝ろ」

 そう言いながら、眠れる気はしなかった。

 人と一緒に寝るのなんて、いつぶりだろう。

 呼吸のリズム、布団がわずかに擦れる音――全部が、意識に引っかかる。

 しばらくして、高瀬がぽつりと呟いた。

「……ねえ、彰くん」
「なんだ」

「……やっぱり、帰らなくてよかった」

 その声は、かすかに震えていた。
 俺は何も答えず、天井を見つめる。
 胸の奥に、名前のつかない感情が静かに溜まっていく。

――この夜が、ただの「雨宿り」で終わらないことを。

 その時の俺は、まだはっきりとは理解していなかった。