放課後、図書室で君に出会った

──カタン。

 閉館前の図書室に、椅子を引く音が静かに響いた。

 俺はその音で目を覚ました。ぼんやりとした頭を上げると、向かいの席に――やたら整った横顔があった。

 薄い光の中でページをめくるその仕草が、やけに丁寧で。
 黒髪は少し長めで、光に透けると青みがかって見える。

 ……あれ? こいつ、同じクラスの、高瀬(たかせ)じゃん。

 運動神経よし、成績上位、女子人気も高い。
 正直、平凡な俺とは真逆のタイプの人間。

 なのに、なんでこいつ、俺の前に座って――。

「起きた?」

 顔を上げた高瀬が、柔らかく笑った。
 その笑顔が近くて、思わず息が詰まる。

 暖かい日差しが差し込む窓際の隅で、どうやら俺はいつの間にか眠っていたらしい。

「……え、なんでここに?」

「いや、たまたま。用があって。そしたら君、ずっと寝てたよ。教科書、顔の上に乗ってた」

「……うわ、最悪。誰にも見られてないよな?」

「僕が見てた」

「見てたんかい!」

 俺の焦った声に、高瀬は少し肩を震わせて笑う。

「ごめん。寝顔、可愛かったから、つい」

「……は?」

「観察してた。ちゃんと、まつげの長さとか、本数を数えてた」

「ちょ、何してんだよ⁉」

 冗談なのか、本気なのか分からない笑顔で、彼は言葉を続けた。

「いや、寝顔って、無防備でいいよね。普段の君、ちょっと警戒心強いからさ」

 ……俺、そんな風に見られてたのか。というか、普段から見られていたのか。なんでまたこんなイケメンが。

 寝ぼけ頭のまま、彼の瞳をまじまじと見つめる。
 真っ直ぐで、嘘のない目だった。

「……別に、警戒してるわけじゃ」

「うん、分かってる。でも――」

 彼はほんの少し声を落とした。

「その表情。今みたいなの、もっと見たいかも」

 胸がどくんと跳ねた。

 からかってるのか? 本気なのか?
 判断できないまま、耳の奥が熱くなる。

「……変なこと言うなよ」

「ごめん。でも、嘘じゃないよ」

 ページを閉じる音が、妙に静かに響いた。
 図書室の時計は、もう下校時刻を少し過ぎていた。

 高瀬は立ち上がり、鞄を肩にかける。

「じゃあ、また明日。……ちゃんと寝なよ、ベッドで」

「……うるさい」

 小さく言い返した声を残して、俺は机に突っ伏した。
 顔が、勝手に熱くなって仕方なかった。

 ──なんなんだ、あいつ。

 チャイムが鳴り、下校を促すアナウンスが流れる。

 図書室を出た瞬間、胸の鼓動がやたらとうるさく感じた。

 夕焼けの廊下に、窓から差し込む光がオレンジ色に揺れている。
 高瀬 颯真(たかせ そうま)。クラスの人気者で、俺とはほぼ別世界の人間。
 なのに、あんな距離で「寝顔、可愛かった」なんて言う?

 頭の中で何度もその言葉がリフレインして、もう顔の火照りが引く気配すらなかった。

「まさか、初めての胸キュン相手が男になるとは……」

 校門を出て、夕風に当たる。

 チャリのブレーキ音、帰宅部の笑い声、遠くで吠える犬の声。
 全部いつも通りなのに、今日だけは違って聞こえる。

 ……いや、違って聞こえるのは俺のせいか。

 鞄の中で、図書室から借りたままの文庫本が揺れた。
 ページの間に、さっきの高瀬の笑顔が焼き付いて離れない。
 まるで、頭のどこかを乗っ取られたみたいだった。

「こんな俺なんかをあの学校一の美青年がねぇ……」

 俺の名前は斎藤 彰(さいとうあきら)
 県立東ヶ丘高校の一年生。
 地味で真面目、どこにでもいる“空気みたいな男子”ってやつだ。

 勉強は中の下、部活は帰宅部。
 友達は少ないけど、別に寂しいと思ったことはない。
 昼休みは弁当を食べながら読書、放課後は図書室で宿題をやったり、読書の続きをしたり。
 静かな時間が好きだし、人と関わるのはちょっと疲れる。

 ──そう、“高瀬颯真”みたいな人間とは、できるだけ距離を置いてきた。

 成績優秀、運動神経抜群、顔面偏差値もトップクラス。
 夏休み前にあった体育祭でも常にクラスの中心。
 男女問わず人気があるのに、どこか一線を引いたような雰囲気がある。
 あいつ自身がその距離を作っているようにも見えたけど、少なくとも俺には、一生関わらないタイプの人間だと思ってた。

 ──なのに。

 今日、よりによって寝顔を見られて、“可愛い”なんて言葉まで貰って。おまけに、あの優しい声。なんだよあれ。ずるいっていうか、反則っていうか。

 誰かに褒められることに慣れてない俺は、正直どうリアクションしていいか分からなかった。

「ただいまー」

 自宅に帰ると、母さんが台所から顔を出した。

「おかえり、彰。今日は誰かと遊びにいってたの?」

「違うよ。図書室にいた」

「また? ほんと本好きねぇ」

「……まあね」

 俺たちの会話が聞こえたのか、まだ中学生の妹が顔を出す。

「お兄ちゃんお帰り。私のプリンは?」

「あ、忘れた」

 そういえば帰り道にメールがきていたが、返信するのをすっかり忘れてた。

「買ってきてって、言ったじゃん!! お兄ちゃんのばか!」

「ごめんて。代わりに、俺のアイス食べていいから」

「じゃあ許す!」

 何気ない会話。
 けど、どこか上の空だった。
 シャワーを浴びても、湯船に浸かっても、頭から離れない。
 高瀬が笑ってたときの目の色、声のトーン。
 あんな風に、人に向き合われたこと、今までなかった。

 髪を乾かして、机の上の教科書を開く。
 でも、数式を追っても内容が入ってこない。

『寝顔、可愛かったから』

『まつげの長さとか、本数を数えてた』

『もっと見たいかも』

 ……バカか、あいつ。

 思わず天井を仰ぐ。
 でも、唇が緩むのを止められなかった。
 胸の奥が、少しだけくすぐったい。

「あーあ、やめやめ。もう寝よう」

 参考書を閉じ、ベッドに潜る。夢の中に出て来ないことを願って俺は眠りについた。

 翌朝、登校途中の通学路でふと後ろを振り返る。
 別に誰もいないはずなのに、なぜか“誰かに見られてる”ような感覚がして、落ち着かない。

「……気のせい、だよな」

 そう自分に言い聞かせて、校門をくぐる。
 教室に入っても、なんだか視線を感じる気がした。