バタフライエフェクト

 閉館まで、二十分を切っていた。
 市立図書館のカウンターに立つと、時間は目に見えない圧として背中に乗ってくる。時計を見るほどでもない。返却口に本が落ちる音、コピー機の低い駆動音、児童書コーナーから聞こえるページをめくる乾いた響き。それらが、残り時間を等分に刻んでいる。
 壁には注意書きが貼られている。
 飲食や料理、入浴をしながら図書や雑誌を読まないでください。
 図書や雑誌を開いたまま伏せないでください。
 ペットのいる場所に図書や雑誌を放置しないでください。
 毎日見ているせいで、もう文字としては認識していない。壁の模様の一部になっている。
 比嘉は、返却された本を一冊ずつ処理していた。
 表紙の擦れ、背の色、ページの反り。特別な意味はない。ただ、触れていれば、扱い方の差は分かる。
 一冊、手が止まった。
 文庫本を返却処理台に乗せたとき、間に挟まっていた薄い紙が、滑り出た。
 レシートより少し厚い。メモ帳を破ったものだろう。
 比嘉は畳まれた紙を引き抜き、横に置いた。きちんとは読まなかった。視界を横切っただけだ。
 業務メモか、誰かがしおり代わりに挟んだのだろう。よくあることだ。図書館では、一日に何度も見かける。
 比嘉は、ふと北側席に視線を向けた。
 新聞コーナーの横。照明が少し暗い一帯。
 そこに、女性が座っている。
 背筋が伸び、控えめだが整った身なり。橋本さんだ。職員なら名前が出る程度には、よく来る利用者だった。
 橋本さんは腕時計を見て、静かに立ち上がった。
 椅子の脚が、床を短く擦る。
 数歩歩いて止まり、バッグを探る。
 小さく息を吐き、席へ戻る。
 忘れ物に気づいたのだろう。
 比嘉は、半分に折れたままの紙に、あらためて目を落とした。
――3/12
――17:40
――ジョセイ
――ワスレモノ
 偶然だ。
 そう思い、メモをカウンターの下に置いた。
 直後、館内放送の準備音が鳴った。
 司書の小西が、ブックトラックを戻し、マイクの前に立つ。
「閉館のお時間が近づいております。ご利用中の方は――」
 比嘉は、無意識にカウンターの下からメモを取り上げた。
 今度は、折り目を開く。
――3/12
――17:50
――ヘイカンアナウンス
 重なっている。
 だが、それだけだ。時間帯も行動も、図書館では毎日繰り返されている。
 比嘉は、返却処理に戻った。
 延長を申し出る利用者。
 貸出カードを忘れたと言う高齢の男性。
 児童書を落とす子どもと、慌てて拾う母親。
 橋本さんがカウンターに来る。
「……延長、お願いします」
 比嘉は応じながら、いつもより一拍、指の動きが遅れていることに気づいた。
 そして返却箱の前で、水戸さんが立ち止まる。
 幼い子どもの手を取り、ゆっくりと指を動かす。子どもが真似をする。言葉は交わされないが、意思は伝わっている。
 水戸さんは鼻歌を口ずさむ。
 驚くほど正確で、やさしい。館内に溶け込み、誰の邪魔にもならない。
 比嘉は作業の手を止めなかったが、返却処理のリズムは微かに乱れていた。
 残り四分。
 その感覚が、背中の奥で静かに疼き続ける。
 比嘉は、再び紙を手に取った。
 今度は、完全に開いた。
――18:00
――ヘンキャクショリ
――エンチョウ シナイ
 書かれているのは、それだけだった。
 比嘉は、紙を見つめた。
 そこには、名前はない。だが、本には記録がある。貸出票を見る。
 最終貸出者の名前が、頭に残った。
 本上まなみ。
 利用履歴は一年前で止まっている。
 それ以降、この図書館を使っていない。
 比嘉は、文庫本を棚に戻さず、カウンターの内側に置いた。
 返却処理は、まだ終わっていない。
 延長処理をすれば、この本はここに留まる。
 だが、比嘉はキーを押さなかった。
 その背後で、水戸さんの鼻歌が途切れ、足音に変わる。
 子どもが振り返り、もう一度だけ手話を作る。水戸さんは、笑って応えた。
 橋本さんは、出口で一度だけ立ち止まり、館内を見渡した。
 何かを確かめるように。
 そして、何も言わずに出ていった。
 小西が照明を落とし始める。
「閉館です。延長される方はいませんね」
 比嘉は、返却処理を確定した。
 スタンプの音が、いつもより乾いて響く。
 本は返却箱に入り、ブックトラックに乗せられる。
 それだけだ。
 閉館。
 比嘉はカウンターを拭き、電源を落とす。
 メモは、処分箱には入れなかった。
 本と一緒に、返却箱へ戻した。