夜行バスは大宮を出て、浦和を経由し、山形へ向かう便である。途中乗車はなく、乗客は全員、発車前から席に着いていた。
向井は中央よりやや後方、窓側の席に座っている。指定された番号が、たまたまそこだっただけだ。
通路を挟んだ前の席で、倉科が荷物棚にバッグを押し込み、短く舌打ちをした。
「狭いわね」
独り言のような声だった。それでも後部座席寄りに座る竹野内が、一瞬だけ顔を上げた。五十代前半の男で、無口で目立たない。顔色は車内灯の下では判然とせず、健康そうとも言い切れなかった。視線はすぐに窓の外へ戻る。
前方では藤岡が腕時計を見ている。四十代の男で、背筋が妙に正しい。スマートフォンと時計を交互に確かめた。その近くに江口が座っている。六十歳前後。体格がよく、姿勢が崩れない。膝の上には小さなメモ帳が載っていた。全体を一度だけ見渡す視線は、癖のようだった。
後方では松岡が落ち着かない様子でバッグをいじっている。ときどき竹野内の方を見るが、視線が合いそうになると逸らす。最後部近く、通路側には寺島がいた。五十代前半。静かで、ほとんど動かない。膝の上に置いた手は、わずかに強張っている。
バスは定刻どおりに出発した。運転手は淡々としている。車内に音楽はなく、エンジン音だけが続く。
走り始めて三十分ほど経ったころ、竹野内の咳が一定の間隔で続き始めた。乾いた音で、深く息を吸い込めていないようにも聞こえる。倉科が声を上げる。
「ちょっと。さっきから、咳、うるさくないですか?」
視線の先は竹野内だった。確かに、小さな咳が断続的に聞こえる。向井も気づいてはいたが、眠気の中で聞くには問題にするほどではないと思っていた。
「夜行バスなんだから、気を遣ってもらえます?」
竹野内は答えない。前を向いたまま、胸元を押さえるように腕を組み、咳を抑えようとはしなかった。江口が穏やかな声で言う。
「体調が悪いのかもしれません。少し様子を見ましょう」
倉科は何か言いかけてやめた。それで話は終わった。
サービスエリアに入り、十五分の休憩が入る。降りたのは倉科と江口だけだった。江口は喫煙所の方へ早足で向かい、落ち着かない様子で一本吸い終えると、灰皿の前で立ち止まり、また歩き出した。
向井は席に残った。外の照明が車内に差し込み、竹野内の顔を照らす。目は閉じている。眠っているようにも見えるが、呼吸は浅く、胸の上下が不規則だった。
そのとき、黒っぽい格好をした細身の人物が運転席に近づいた。何かを差し出し、運転手が一度うなずく。会話は聞こえなかった。
江口が戻ると、運転手は紙切れを渡した。江口はそれを一瞥し、反射的にメモ帳に挟み込む。理由は分からない。向井は、それ以上気に留めなかった。
再び走り出してしばらくしたあと、倉科が小さく声を出した。
「……動いてない。……なん……」
苛立ちではない。不安だった。
「さっきから、ずっとでしょ。なんで」
何が起こったのか分からず、声にならない声が漏れる。皆が同時に喋り出した。
江口が立ち上がり、周囲を落ち着かせるように言う。
「皆さん、少し落ち着きましょう」
そう言いながらも、竹野内の肩に触れようとして、途中で手を引っ込めた。触れていいのか、誰にも判断がつかなかった。その迷いが、かえって車内の緊張を浮き彫りにする。
「死んでるの?」
松岡が立ち上がりかけ、また座る。
「……私、寝てると思って……」
江口は皆に向かって両手を広げ、落ち着けというジェスチャーをしながら前へ進み、運転手に伝える。次のインターで降りることになった。
車内アナウンスで運転手が言う。
「運転中ですが、緊急時なので、携帯電話を使わせていただきます」
しばらくして、
「救急には、意識がない可能性があると伝えました。席についたままでお願いいたします」
という内容のアナウンスが入った。
松岡が、
「おじさん、おじさん」
と、震えた小さな声で竹野内に呼びかける。江口は何かを必死に書いている。藤岡が時計を見る。
「通報から、六分経過」
誰も頼んでいない報告だった。だが、時間を意識しないと、この状況に耐えられないのも事実だった。
倉科が耐えきれずに言う。
「……誰か、声、かけました?」
沈黙が落ちる。誰も肯定も否定もしない。寺島は竹野内を一度だけ見た。それ以上、視線を戻さなかった。
藤岡が言う。
「あと、九分」
数字だけが、空気を動かす。向井は思う。この時間は、助けるためというより、自分がどうしていたかを説明するための時間になっている。
やがてバスはインターを降りて停車し、救急車が到着した。処置は静かに行われ、竹野内は担架に乗せられた。全員がインター入り口の事務所で待機となる。
運転手が走って皆のもとに駆けつけた。
「急性の体調悪化です。命に別状はありません」
その一言で、張りつめていたものがほどけた。江口はその場で、挟んでいた紙切れを見つめる。時々、バスの皆の行動を書き留めていたのだった。
寺島は、介護疲れで足が動かなかったことを思い出す。何もかもが面倒になっていた。胸の奥で重く固まっていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じる。
松岡は、知り合いのイケオジに竹野内が似ていたと言っている。
再びバスは走り出す。誰も人数を数えない。誰も振り返らない。向井は窓の外を見ながら思った。早計な判断。それは、誰か一人の失敗ではない。分かった気になって、急いでしまうこと。
夜行バスは、何事もなかったかのように、終点の酒田に向かって、静かに夜の道を進んでいった。
向井は中央よりやや後方、窓側の席に座っている。指定された番号が、たまたまそこだっただけだ。
通路を挟んだ前の席で、倉科が荷物棚にバッグを押し込み、短く舌打ちをした。
「狭いわね」
独り言のような声だった。それでも後部座席寄りに座る竹野内が、一瞬だけ顔を上げた。五十代前半の男で、無口で目立たない。顔色は車内灯の下では判然とせず、健康そうとも言い切れなかった。視線はすぐに窓の外へ戻る。
前方では藤岡が腕時計を見ている。四十代の男で、背筋が妙に正しい。スマートフォンと時計を交互に確かめた。その近くに江口が座っている。六十歳前後。体格がよく、姿勢が崩れない。膝の上には小さなメモ帳が載っていた。全体を一度だけ見渡す視線は、癖のようだった。
後方では松岡が落ち着かない様子でバッグをいじっている。ときどき竹野内の方を見るが、視線が合いそうになると逸らす。最後部近く、通路側には寺島がいた。五十代前半。静かで、ほとんど動かない。膝の上に置いた手は、わずかに強張っている。
バスは定刻どおりに出発した。運転手は淡々としている。車内に音楽はなく、エンジン音だけが続く。
走り始めて三十分ほど経ったころ、竹野内の咳が一定の間隔で続き始めた。乾いた音で、深く息を吸い込めていないようにも聞こえる。倉科が声を上げる。
「ちょっと。さっきから、咳、うるさくないですか?」
視線の先は竹野内だった。確かに、小さな咳が断続的に聞こえる。向井も気づいてはいたが、眠気の中で聞くには問題にするほどではないと思っていた。
「夜行バスなんだから、気を遣ってもらえます?」
竹野内は答えない。前を向いたまま、胸元を押さえるように腕を組み、咳を抑えようとはしなかった。江口が穏やかな声で言う。
「体調が悪いのかもしれません。少し様子を見ましょう」
倉科は何か言いかけてやめた。それで話は終わった。
サービスエリアに入り、十五分の休憩が入る。降りたのは倉科と江口だけだった。江口は喫煙所の方へ早足で向かい、落ち着かない様子で一本吸い終えると、灰皿の前で立ち止まり、また歩き出した。
向井は席に残った。外の照明が車内に差し込み、竹野内の顔を照らす。目は閉じている。眠っているようにも見えるが、呼吸は浅く、胸の上下が不規則だった。
そのとき、黒っぽい格好をした細身の人物が運転席に近づいた。何かを差し出し、運転手が一度うなずく。会話は聞こえなかった。
江口が戻ると、運転手は紙切れを渡した。江口はそれを一瞥し、反射的にメモ帳に挟み込む。理由は分からない。向井は、それ以上気に留めなかった。
再び走り出してしばらくしたあと、倉科が小さく声を出した。
「……動いてない。……なん……」
苛立ちではない。不安だった。
「さっきから、ずっとでしょ。なんで」
何が起こったのか分からず、声にならない声が漏れる。皆が同時に喋り出した。
江口が立ち上がり、周囲を落ち着かせるように言う。
「皆さん、少し落ち着きましょう」
そう言いながらも、竹野内の肩に触れようとして、途中で手を引っ込めた。触れていいのか、誰にも判断がつかなかった。その迷いが、かえって車内の緊張を浮き彫りにする。
「死んでるの?」
松岡が立ち上がりかけ、また座る。
「……私、寝てると思って……」
江口は皆に向かって両手を広げ、落ち着けというジェスチャーをしながら前へ進み、運転手に伝える。次のインターで降りることになった。
車内アナウンスで運転手が言う。
「運転中ですが、緊急時なので、携帯電話を使わせていただきます」
しばらくして、
「救急には、意識がない可能性があると伝えました。席についたままでお願いいたします」
という内容のアナウンスが入った。
松岡が、
「おじさん、おじさん」
と、震えた小さな声で竹野内に呼びかける。江口は何かを必死に書いている。藤岡が時計を見る。
「通報から、六分経過」
誰も頼んでいない報告だった。だが、時間を意識しないと、この状況に耐えられないのも事実だった。
倉科が耐えきれずに言う。
「……誰か、声、かけました?」
沈黙が落ちる。誰も肯定も否定もしない。寺島は竹野内を一度だけ見た。それ以上、視線を戻さなかった。
藤岡が言う。
「あと、九分」
数字だけが、空気を動かす。向井は思う。この時間は、助けるためというより、自分がどうしていたかを説明するための時間になっている。
やがてバスはインターを降りて停車し、救急車が到着した。処置は静かに行われ、竹野内は担架に乗せられた。全員がインター入り口の事務所で待機となる。
運転手が走って皆のもとに駆けつけた。
「急性の体調悪化です。命に別状はありません」
その一言で、張りつめていたものがほどけた。江口はその場で、挟んでいた紙切れを見つめる。時々、バスの皆の行動を書き留めていたのだった。
寺島は、介護疲れで足が動かなかったことを思い出す。何もかもが面倒になっていた。胸の奥で重く固まっていたものが、ゆっくりと解けていくのを感じる。
松岡は、知り合いのイケオジに竹野内が似ていたと言っている。
再びバスは走り出す。誰も人数を数えない。誰も振り返らない。向井は窓の外を見ながら思った。早計な判断。それは、誰か一人の失敗ではない。分かった気になって、急いでしまうこと。
夜行バスは、何事もなかったかのように、終点の酒田に向かって、静かに夜の道を進んでいった。

