車椅子のスプリンター【1話だけ大賞】


 速く走りたい。

 風を切って、もっと、もっと、速く、強くなりたい。

 誰よりも、速く。



「いいぞ、池園(いけぞの)、また自己新だ!」

 興奮する監督の鳥谷(とりたに)の声に、走り終えたばかりだというのに、息一つ切らしていない池園凜祢(いけぞのりんね)はほっとしたようにうなずくと微笑んでみせた。

「すげーな、また自己新かよ」

「日本代表に選ばれるのも時間の問題だな」

 周囲では、部員たちのそんなささやき声が交わされ、それは凜祢の耳にもしっかりと届いていた。

 走り終えた凜祢の肩を、同級生の秋葉(あきば)が晴れやかな笑顔でぽんと叩く。

「すげえな、凜祢。
 お前に敵うやつなんていないよ。
 本当、お前は天才だな」

 こともなげに言う秋葉に、「やめろよ」と凜祢は恥ずかしそうに謙遜する。

「俺もお前みたいに走ってみたいよ」

 秋葉の台詞に照れていると、後ろから声をかけられ、またしても肩を叩かれる。

「池園、この調子でいけばインターハイ優勝は確実だな」

「気が早いですよ、監督。
 まだまだレースによってムラがありますから」

 ベテランの指導者である鳥谷が顔を赤らめながら言い切ると、凜祢は苦笑いしながら先走る監督をなだめた。

「でも、この1年でぐっとタイムを縮めてる。
 昨年の優勝タイムとほぼ変わらんぞ。
 このまま順調にいけば、優勝だって、決して夢物語じゃない」

「プレッシャーかけられるの苦手だって言ったじゃないですか。
 あまり期待しないでください」

「なにを言っている。
 お前はオリンピックだって狙える逸材だ。
 期待するなというほうが無理な話だ」

 鼻息が荒い鳥谷は、凜祢の肩をがしっと掴み、ぎらぎらとした眼差しで熱弁する。

「……まあ、確かにオリンピックというのは俺の目標ではありますけど」

「お前なら夢じゃない。
 ぜひ、俺に金メダルをかけてくれ」

「そのときは、恩師として監督の名前を出させてもらいますよ」

「おおっ、そうか、それは嬉しいな」

 鳥谷がくしゃっと笑う。

 つられて凜祢も微笑んだ。

 四月の終わりのことだった。



 池園凜祢は、将来を嘱望される陸上部のエースだ。
 
 100メートルで10秒をつぎに切るのは、凜祢ではないかといわれている。
 
 目を引くビジュアルも相まって、高校に入ってすぐに『王子様』と持ち上げられ、学校の有名人になった。

 オリンピックに最も近い高校生として、地元の新聞のインタビューを受けたこともある。

 高校入学以来、出場したレースでは毎回優勝、高校生新記録の期待を一心に受けるスプリンターだ。

 すべてが順調。

 インターハイ優勝だって、オリンピック出場だって決して夢ではない。

 凜祢にとって、それらは『夢』ではなく『目標』だった。

 授業を終え、今日も今日とて練習に明け暮れていた凜祢が服の袖で汗を拭おうとしていると、「先輩!」と突然人影が目の前に現れた。

「タオルです!」

「あ、ああ、ありがとう。
 矢島(やじま)か」

 差し出されたタオルを受け取り、額や首筋に滲んだ汗を拭っていると、矢島と呼ばれた男子生徒──矢島紡(やじまつむぎ)は、嬉しそうににっこりと笑顔を作った。

 紡は、身長はやや低め、声はやや高めで、さらさらな黒髪が夕日を受けて、きらきらと輝いている。

 目が大きく、整ったビジュアルともいえるが、まだまだ中学生といったほうが似合っている1年生だ。

 凜祢と同じ短距離の選手だが、なぜ陸上部を選んだのか不思議なほど、走るのが遅かった。  
 
 聞けば、中学時代は文化部だったらしい。

 まだ入部して1ヶ月も経たないが、すでに戦力にならないと判断されたのか、練習に参加しているより他の部員の世話をするマネージャー的な役ばかりさせられている。

 そんな扱いでも、腐ることなくいつも笑顔、雑用の隙に走る練習をしているので、走ること自体は好きなのだろうと、凜祢は分析している。

 ただ、厳しい見方をすれば、紡が選手としてレースに出場することはないだろう、とも思う。

 中学生の平均にも届いていない、今のタイムでは無理からぬ話でもあった。

「先輩、田村(たむら)先輩が待ってる、って伝えてほしいって言ってました」

「待ってる?
 ああ、練習が終わるまでってことか。
 悪いな、矢島に関係ないことなのに、パシリみたいなことさせて」

「いえ!
 僕が先輩のためにって思ってやってることですから!
 田村先輩と、ラブラブですね!」

「……ラブラブ、ねえ」

 凜祢の表情がくもる。

 同級生の田村望未(たむらのぞみ)とは付き合いはじめて3ヶ月ほどが経つ。

 告白してきたのは望未で、凜祢は友達以上の感情を抱いてはいなかったのだが、彼女に対して好意は持っていたのできっぱりと断ることができず、曖昧な返事をしてしまった。

 その結果、望未は凜祢と恋人になったのだと思い込んで、周りの友人たちに自慢して回ったので、ふたりが付き合っているという噂は学校中に知れ渡ることになった。

 望未を傷つけることになると、凜祢はそれを否定しなかった。

 望未のことは嫌いではない。

 だから、いずれ恋人として特別な存在になるのだろう。

 凜祢はそう思っていた。

 今はまだ、そうなる気配は見えないけれど。

「田村先輩、毎日練習が終わるまで凜祢先輩を待ってますよね。
 一緒に帰るんですか?」

 紡が無邪気に尋ねてくる。

「んん、まあね。
 どこか寄り道したいんだろ。
 休みの日も練習ばかりであまり遊ぶこともできないから」

「優しいですね、さすが先輩です。
 凜祢先輩と田村先輩は、学校中のみんなの憧れの的ですよ!」

 凜祢は苦笑して紡を見下ろした。

「みんな、大袈裟なんだよな。
 俺に『王子様』の要素なんてないのにさ」

 紡がなぜか唇を尖らせる。

「そんなことないです!
 先輩は憧れで、『王子様』そのものですよ!」

 紡はどこか自慢げに薄い胸を反らして断言する。

「俺はただ、人よりちょっと速く走れるだけだよ、それだけだ」

「充分じゃないですか!
 僕には逆立ちしても叶わないすごい記録を打ち立てたり、努力を惜しまずに、みんなの期待に応えつづけるのは尊敬に値します!」

 きらきらと、紡の笑顔が輝いている。

──無垢だな。

 なんだか、紡が少しだけ羨ましく見えて、それはなぜだろうと凜祢は考える。 

 紡は、陸上部の部員から、見下されているふしがある。

 実力もなく、才能も感じられないのに、ただ走るのが好きだというだけで陸上部に籍を置く紡をどこか馬鹿にしたような空気が部員の間では流れている。

 その空気に、凜祢も流されているところがあり、そんな自分が嫌になることがある。

 紡には、凜祢が持っていないなにかがある。

 自分が見下されていること、対等に扱われていないことを充分承知しながら、なお、にこにこと笑顔を振りまきつづける。

 そんな紡のメンタルが、凜祢には不思議でたまらなかった。

 凜祢は、プレッシャーに弱い。

 周りの声に影響されるし、ちやほやしてくれる部員やクラスメイトが、腹の底では自分を嘲笑っているのではないかと被害妄想に囚われたりもしている。

 つまり、ビビりである。

 だから、自分とは真逆の性格である紡が羨ましく映り、へこたれない彼が眩しく見えるのだ。

「先輩?」

 紡に不思議そうな顔で覗き込まれ、凜祢は我に返る。

「ああ、悪い。
 で、なんの話だっけ?」

「だから、凜祢先輩はすごいって話ですよ!」

「買い被りすぎだって」

「そんなことないですよ、先輩は僕にとって憧れのヒーローなんですから!」

「……前から思ってたけど、矢島さ、なんでそんなに俺のこと褒めてくれるの?」

 紡がぱっと表情を明るくする。

 飢えた犬が、目の前に待望の餌を差し出された瞬間のような、嬉しさのあまり尻尾を千切れんばかりに振っている姿と紡を重ねて想像してしまい、凜祢は心の中だけで密かに笑った。

 よくぞ訊いてくれました、という顔で紡は深呼吸したあと前のめりに話しはじめた。

「僕、兄がいるんです。
 兄は高校で陸上部に所属していて、すっごく足が速くて、どのレースでも優勝を狙えるって言われてて。
 運動が得意じゃない僕にとって、自慢の兄だったんです。
 兄の応援に家族揃って行くのが恒例で、去年のインターハイにも行きました。
 そこで、1年生ながら圧倒的な速さで優勝した先輩のレースを見て、兄の応援そっちのけで見惚れてしまったんです」

 凜祢はストレッチしながら、興奮して話しつづける紡の言葉に耳を傾ける。

「凜祢先輩を見て、速く走ることって、あんなに格好いいことなんだって知りました。
 僕と1歳しか違わないのに、すごいなって。
 僕も、あんなふうに走りたいって、単純に思ってしまったんです。
 少しでも凜祢先輩に近づきたくて、同じ高校を受験して、念願の陸上部に入りました。
 まあ、やっぱり選手としてはまったく通用しませんでしたけど。
 僕にとって、先輩は憧れのヒーローなんです。
 そばにいられるなら、マネージャーだろうが、雑用だろうが、どんな扱いだって構いません」

「……それは、なかなか重い話だな」

 凜祢は瞳を輝かせる紡から少し距離を取り、頬を引きつらせる。

 プレッシャーを感じて凜祢のほうが萎縮してしまう。

 周りの期待値が大きければ大きいほど、凜祢は実力が出せなくなってしまう。

 メンタルを鍛えることに取り組みはじめたばかりの凜祢にとって、紡の純粋な憧憬は重荷でしかなかった。

 のしかかるプレッシャーに対抗するには、自信がつくまで愚直に練習を重ねるしかない。

「よし、最後、もう一本行くぞ!」

 鳥谷が部員に向かって声を張り上げる。

 なにかを言う前に、紡が凜祢の手からさっとタオルを取って邪魔にならないように立ち去っていく。

 1年生なのに、気遣いができる紡に凜祢は感心しているが、他の部員はそんなことはできて当たり前だと紡の働きを過小評価しており、複雑な思いがしないでもない。

 紡はマネージャーとして部に入ったわけではないのだから、練習に参加させてやるべきだとも思っていた。

「凜祢〜、頑張って!」

 常に見物人で溢れるグラウンドの向こうから、望未が手を振って笑っている。

 手を振り返すと、貼り付くように陸上部の練習を見守っていた女子生徒たちが唇を噛んで望未を睨んでいるのが見えてしまった。

 望未が自慢げに微笑して、勝ち誇っている(さま)も、凜祢には丸見えだ。

 望未は、本当に自分を好きなんだろうか。

 付き合いはじめてからずっと、凜祢はそんな思いを抱いている。

 望未を見ていると、ブランドもののバッグを見せびらかすように、凜祢というブランドを手に入れたという事実だけが重要であるような印象が拭いきれない。

 それでも、そんなことは口に出さない。

 自分の本心などどうでもいいことでしかない。

 望未が、それを望むのなら、彼女が自分なんかと付き合うことで幸せになれるのなら、凜祢から望未との関係を終わらせるつもりはなかった。

 波風が立たない生活を守ることが、凜祢のなによりの願いでもあったからだ。

「池園、ぼうっとしてるな!」

 鳥谷の怒鳴り声で我に返った凜祢は、「すみません」と頭を下げつつ慌ててグラウンドを小走りで駆けていく。

 スタート位置につくと、ゆっくり呼吸をして、瞳を閉じ、あらゆる雑音を排除して集中する。

 不安も重圧も、集中力でねじ伏せる。

 ぱっと目を開くと、前を見据えた凜祢は100メートルというたった数秒の闘いに身を投じた。

 ばねに押し出されるようにして走り出すと、無心で足を動かして自分の呼吸と足音だけの世界に到達する。

 ゴールを目指して風と一体になって駆け抜ける。

 鳥谷がストップウォッチをかちりと押す。

「んー、まあ、いいだろう。
 今日はこの辺で終わりにしよう」

 鳥谷は凜祢の記録に満足したのか部員に声をかけて練習を終わらせると告げた。

 そのとき、凜祢の視界に、グラウンドにぽつんと佇む紡の姿が目に入った。

 はっとして思わず鳥谷に声をかける。

「監督、まだ矢島が走っていません」

 すると、今、紡の存在に気づいたとでもいうように、鳥谷が怪訝な顔を紡に向ける。

 部員たちは帰宅するため、さっさとグラウンドを去っていく。

「矢島、ねえ。
 正直あいつは才能がない、伸びないだろう。
 走らせても無駄じゃないか」

「でも、矢島だって部員のひとりですよ。
 監督が指導してやれば、伸びる可能性がじゅうぶんにあります。
 指導してやらないのは、不公平じゃないですか?」

「んー、まあ、そうだな」

 腕を組んでうなった鳥谷は、降参したように肩をすくめた。

「矢島、最後の一本だ」

 すると、所在なさそうにしていた紡が、驚いたように目を丸くする。

「僕の走り、見てもらえるんですか?」

「お前で終わりだ、早く準備しろ」

 はい!と返事した紡が嬉しそうに駆け寄ってくる。

 鳥谷と凜祢が見守るなか、夕日が差し込むグラウンドのスタートラインに膝をつき、手を地面に置いた紡が体勢を低くして合図を待つ。

 合図とともに飛び出し、紡はグラウンドを疾走した。

「僕の走り、どうでした?」

 100メートルを駆け抜けたあと、尻尾を振る仔犬のような笑顔で紡が鳥谷に駆け寄って訊いてきた。

「……」

 鳥谷の手元を覗き込み、タイムを確認した凜祢は、黙ってしまった鳥谷をうまくフォローすることもできずに、曖昧に笑うことしかできなかった。

「どうしたんですか、やっぱり駄目でしたか?」

 紡は相変わらず眩しいほどの笑顔だ。

「まあ、入部したばかりだからな。
 ま、頑張れよ」

 鳥谷は紡の肩をぽんと叩くと、今度こそ、これで終わりだとでも言うように、校舎へと歩いていってしまった。

「……やっぱり僕、才能ないですよね」

 紡が寂しそうに呟く。

 それなのに、悲壮感は滲んではこない。

 なぜなら満面の笑顔だからだ。

「い、いや、まだ1年だろ。
 諦めるのは早いって」

 凜祢はできるだけ紡を傷つけないようにと気を遣って言葉を選んだ。

「先輩、ありがとうございます!」

 すると、突然紡が頭を下げた。

「はっ、え?」

 戸惑う凜祢に、顔をあげた紡がにこりとしながらつづける。

「先輩が監督に、僕の練習見てあげてほしいって言ってくれて、すごく嬉しかったんです。
 だから、感謝の気持ちです!」

「あ、ああ、そういうことね……。
 別にたいしたことはしてないけど」

 凜祢が鼻の頭を掻きながら、なんでもないことのように言う。

「先輩は僕みたいな出来損ないにも優しいですね!
 憧れます」

 凜祢も人間だ、褒められれば誰だって嬉しい。

「出来損ない……は、さすがに自分では言い過ぎじゃないか?
 過小評価し過ぎだよ」

 とはいえ、凜祢の脳裏には、先ほど見た紡のタイムが蘇る。

 中学生でも紡より早く走れるだろうというほどの、才能の片鱗すら見せぬタイムであった。


「でも、先輩……」

 なにごとかを言い募ろうとした紡の声を、「凜祢ー、帰ろう!」という望未の声が遮った。

「あ、邪魔しちゃいけませんね、後片付けは全部やりますから、先輩は田村先輩と帰ってください」

 凜祢はなにか言いたそうにしたが、結局、後片付けを紡に任せ、グラウンドをあとにした。


「でね、京子(きょうこ)が今度の休み、どっか行かないかって誘ってくれてるの。
 ほら、最近京子、彼氏できたでしょ?
 自慢したいみたい。
 まったく、京子ってば、凜祢を狙うなんて、身の程知らずだよねえ。
 でも、自分の身の丈をようやく理解して、ぎりぎり1軍の彼氏作ってさ。
 どんな彼氏作っても、凜祢と付き合ってるあたしに敵うはずないってわかってるのに、本当、負けず嫌いっていうか、呆れちゃう」

 制服に着替え、学校を出て駅に向かう間も、望未は訊いてもいないことを一方的に喋りつづけた。

 凜祢は密かに溜め息をついて空を見上げる。

 夕焼け空は、濃い紺に変わりつつあった。

「ねえ、聞いてる?」

 望未に顔を覗き込まれ、凜祢は慌てて愛想笑いを浮かべる。

「ああ、ちゃんと聞いてるよ」

「で、つぎの日曜とかどう?」

「……うん、いいよ、その日なら大丈夫」

「よかった!
 行く場所が決まったらLINEするね!」 

 望未が嬉しそうに声を弾ませた。

 望未が甘えるように凜祢の腕に自分の腕を絡め、歩行者用信号が青になったのを確認し、横断歩道を渡りはじめた、そのときだった。

 甲高いクラクションが鼓膜に突き刺さったかと思うと、1台の大型トラックが制御を失い、猛スピードで迫ってくるところだった。

 トラックのほうを振り向いたまま、凜祢と望未は動けずに立ちすくんでいる。

 それは、ほんの一瞬のことだった。

 望未を突き飛ばし、自分もトラックから逃れようとして──。

 身体に衝撃があったかと思うと、凜祢は空中を舞っていた。

 凜祢を跳ねてもなお、トラックの暴走は止まらない。

 けたたましい衝撃音がして、トラックが電柱に激突して、ようやく暴走が止まった。

「凜祢、凜祢!」

 遠くから望未の声が聞こえた気がしたが、地面に叩きつけられたその瞬間、凜祢は意識を失っていた。

 世界を、暗闇が支配した。

 凜祢の耳にはもう、なんの音も聞こえない。