俺の同居人は普通じゃない

(坂下side)


 俺、坂下 肇(さかしたはじめ)は今日ほど親友の南尚弥を遠くに感じたことはない。

 その南は、至って普通の青年だ。性格は優しいがツッコミ気質で話していると気を張らなくていい。良くも悪くも、その「普通」が彼の最大の長所だった。
 そんな彼のトレードマークが揺れ始めたのは、間違いなく、あの居候が彼の家に転がり込んでからだと思う。

 先日、南が高熱が出たとかで、一週間ほど大学を休んだ。
 久しぶりにキャンパスへ現れた南は、もうどう見ても『普通』じゃなかった。

 寝込んでやつれたかと心配したが、その逆で、肌に妙なツヤがある。
 目はどことなく泳いでいるし、スマホを眺める顔は無意識にだらしなくニヤけていた。

「おい南、顔! 顔緩んでんぞ。見てるこっちが恥ずかしくなるからやめろ」

 声をかけても、南は「あ……。いや、別になんでもないって」と耳まで赤くして視線を逸らす始末だ。
 挙動不審なところもだが、なんというか最近、雰囲気が絶対エロくなった気がする。
 
(やっぱ、彼女でもできたのか? それかあの尋常じゃなく綺麗な居候と一線越えたとか……。いや、想像しただけで俺の胃が痛い)

 **

 ある日の帰り際、南と二人でダラダラと校門へ向かっていると、例の銀髪美青年が待ち構えていた。
 遠目からでもすぐわかる。

(今日も来てやがる。っていうか、あいつが立ってるだけで校門が撮影現場かなんかに見えるんだよな)

 あの銀髪男――宵は、南を見つけた瞬間、犬のように小走りで駆け寄ってきた。
 そして俺の存在を完全に無視して、南に正面からガバッとしがみつく。そのまま首筋に顔を埋め、深く何度も息を吸い込んだ。
 夕暮れの校門前で、親友の首に顔を擦り付けるイケメン……。
 俺は、一体何を見せられているんだ。

「……おい南、お前の居候、いきなりお前の首の匂い嗅いでるぞ。……それ友達の距離感じゃねーだろ」
「ち、違うんだ! これはその……こいつ今不安定だから! 俺が(いかり)にならないと、あー……とにかく大変なんだよ」
 
(はあ? 何言ってんだ、こいつ)
 
「不安定? イカリ? お前、一週間の休みで変なカルト宗教にでもハマったのか?」

 本気で心配になり、南の肩を叩こうと手を伸ばした。
 その瞬間、宵が南をぐいっと引き寄せ、鋭い目つきで睨んできた。

(怖っ……! なんだ今の目。……南、お前完全に獲物になってんじゃねーの?)

 宵が満足げに南の手を握ると、そのままスタスタ歩き出した。南も文句を垂れつつ、その手を振りほどこうともしない。

「じゃあな、坂下! また明日!」
 笑顔で連行されていく親友の背中見送りながら、俺は今日何度目かわからない深い溜息をついた。

「……南、お前、あいつの犬になってる自覚、持った方がいいぞ。マジで」

 **

 翌日。講義室のいつもの席。
 隣に座る南尚弥の横顔を見て、俺はまたしても溜息を飲み込んだ。

「……南。お前、それ、やっぱり香水かなんかつけてるだろ?」

 こいつの身体から、やたらと鼻をくすぐる匂いが漂ってくるのだ。
 以前までの洗剤の匂いとは違う。雨上がりの森のような、澄んだ水のようなあまりにも甘い香り。
 それが、さっきから俺の集中力の邪魔をしていた。

(なんなんだこれ。本人、無自覚みたいだけど、むせ返るくらい匂ってるぞ。隣にいる俺の身にもなれっての!)

 午後になり、俺の鼻もようやく慣れてきた頃。
 南と連れ立って校門まで歩きながら、俺は意を決して、彼の肩に手を置いて話しかけた。
「南。お前、ほんとに大丈夫か? ここ最近、明らかにおかしい――」
「あ……」

 南が何かに気づき、足を止めた。
 その目線の先には、新緑の並木道でひときわ目をひく銀髪――宵が立っていた。

(またあいつか。……っていうか、今日はなんか気合い入ってねーか? 獲物狙ってるみたいな目してやがる)

 俺が内心でボヤいていると、隣で南は「宵……!」と顔を上気させた。
 嬉しそうなのにバツが悪そうに視線を泳がせる、恋する乙女のような反応。

 けれど、何かがおかしかった。
 いつもなら「なおやー!」と駆け寄ってくるはずの銀髪が、今日は一歩も動かない。

 それどころか、遠目からでもわかるほど、あいつの目は鋭かった。
 しかも、視線の先にあるのは、南じゃない。
 ――この、俺だ。
 
「……おい南。あいつめちゃくちゃ俺のこと睨んでない? 俺、なんかしたっけ?」
「えっ? いや、そんなはずは……」

 南が首を傾げた瞬間、宵が動いた。

 一歩ずつ、ジリジリと詰めてくるような足取りは、再会を喜ぶ感じじゃない。まるで敵を追い詰めようとする獣の足取りだ。
 
(……え、なんかこれ、逃げた方がいいんじゃないか?)

 宵が俺たちの目の前まで来ると、南の腕を強引に引き寄せた。

「……宵? 急にどうしたの?」

 南が困惑した声を上げる。
 宵は相変わらず、俺のことをジロリと睨んだままだ。
 そして、俺に見せつけるように――。

 南のシャツの襟元に指をかけ、無理やり隙間を作った。

「っ!? ちょっと宵、な、なに……っ」

 驚いて固まる南の首筋に、宵がゆっくりと顔を寄せる。そこまでは昨日も見た。……けれど。

 宵は南の剥き出しになった首筋をゆっくりと、深く舐め上げた。
「ひゃっ!? 宵? ……くすぐったいし、坂下が見てるだろ!」
 
 南が情けない悲鳴と抗議の声を上げる。

「……は?」
 俺の思考が完全にフリーズする。
 
 さらに宵は、南のうなじあたりに躊躇なく牙を立てた。
 グッ、と首筋に食い込む白い歯。

「……っぅ、痛っ……、宵……っ!」

 南が顔を真っ赤にして宵の肩を叩くが、宵は離れない。
 たっぷり時間をかけて満足したのか、宵はゆっくりと唇を離した。
 そこには痛々しく、真っ赤な噛み跡がついていた。

 宵はそれを愛おしそうに親指でなぞると、ようやく俺に視線を戻した。
 その顔は、勝ち誇ったような、冷ややかな笑みを浮かべていた。

「……だめ。なおやは、ぼくの()だから。さわらないで」

 今の声。なんだよ、それ。
 めちゃくちゃなマウント取られたぞ、俺。
 昨日までのふわふわした喋り方はどこいった?

「おい、南。……お前、今、何されたか分かってんの? 舐めたぞ! 噛まれたぞ! っていうか、完全に『俺のものに手を出すな』って言われたよな!?」

 詰め寄る俺に、南は沸騰しそうなほど真っ赤な顔をして、必死に言い訳を並べ始めた。

「ち、違うんだ坂下! これは、その……昨日言っただろ! 俺は『(いかり)』なんだよ! 巫の特殊な……その、魔力供給みたいな……一種の儀式なんだ」
「儀式で首舐めるかよ!! お前それ、動物がメスにするマーキングそのものだぞ!」
「メ、メスって言うな! 義務なんだよ、巫としての義務!」

 南は宵に手を引かれるまま、「じゃ、じゃあな坂下! また来週!」と逃げるように去っていった。
 
 その後ろ姿。
 宵は最後に一度だけ振り返ると、俺に向かって優雅に、そして絶対的な拒絶を込めて目を細めた。

「……うわー、こっわ」
 カンナギの義務……。魔力供給……。あいつ、急に厨二病発症したのか!?
 ……どんどん俺の親友が『普通』じゃなくなっていく。

 南の身体から漂っていた、あの甘い匂い。今はさらに濃く、俺の鼻腔にこびりついている。

(あーあ、明日からあいつ、タートルネックで来るんだろうな。……もう夏なのにな)

「南……。お前、犬どころか、もうあいつに『食われてる』自覚、持った方がいいぞ」

 俺は一人、夕暮れの校門前で、親友の「普通」が完全に幕を閉じたことを悟って、深い深い溜息をついた。