俺の同居人は普通じゃない


 ――っ、は、……あああ……ッ!!

 喉が焼けるように痛くて、俺は布団の上で跳ね起きた。
 酸素が足りない。肺がうまく動かない。過呼吸のまま、肩が大きく上下する。

 視界が涙で滲む。理由なんて考えるより先に、涙が溢れて止まらず、俺の頬を伝ってシーツを濡らした。

(……っ、ああ……!)

 さっきまで、たしかに、腕の中で銀色が砕けて、消えていって。

「なおや……?」

 隣からかすれた声がした。
 見ると、宵が凍りついたように、俺を見つめている。
 その琥珀色の瞳。
 ――夢で見た、あの絶望の色と同じだった。

「なおや、なおや!……ぼく、ここに、いるよ……?」

 必死に言い聞かせるみたいな声で言って、しがみついてくる。
 胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられた。

(……思い出した。全部)

 俺は――あの日、あいつを独りにしたんだ。
 あんなに泣かせて、縋らせて、でも俺だけ消えた。
 震える喉が、勝手に名前を探す。

「……あ、や……」

 けれど、そこで言葉を飲み込んだ。
 違う。今、ここにいるのは――。

「……宵」

 その名前を呼んだ瞬間、堪えていた何かが切れた感じがした。
 俺は身を乗り出し、宵を抱きしめた。布団ごと押し倒すように、強く、離れないように。

「いた……」

 宵の肩に顔を埋めて、息を吸う。
 ちゃんと、体温がある。生きてる匂いがする。

「……ここに、いたんだ」
「なおや? どうしたの……?」

 腕に力を込めたまま、首筋に額を押し付けた。

 ――悲しい。灯弥としての記憶が、今も胸をえぐる。
 それでも。

(俺は、あの時死んだアイツじゃない)

 今、目の前で俺を求めて、泣き出しそうになっているこの存在を。
 狂おしいほど抱きしめたいと願う、この衝動を。

 そうしたいと思っているのは、今の俺――『南尚弥』だ。

「……もう、離さないよ」
 宵の首元に顔を埋めたまま、低く言った。

「絶対、ずっと。……もう二度とお前から離れないから」

 自分でも驚くほど必死な声が出た。

「なおや、きょう……せっきょくてき?」
 宵が少し照れたように、耳を、ぱたぱたと動かして、俺を見上げた。

「……いいの!」

 そう言いながら、俺は両手で宵の頬に包んだ。
 そして、今度は額ではなく、ゆっくりと彼の髪の生え際へ、慈しむようなキスを落とす。

「大丈夫。俺は、ここにいるからね」

 宵は一瞬きょとんと目を丸くしてから、ぎゅっと俺のパジャマの胸元を掴んだ。

「うん……」

 その小さな返事を聞いて、俺の胸の中がやっと静かになった。

『過去』は消えない。けれど、『今』はここにある。
 俺は、灯弥じゃない。尚弥だ。
 尚弥としてちゃんと、宵と生きていきたい。

 **
 
 それから、しばらくの記憶が曖昧だ。
 泣いて、息を乱して、宵を離さないようにただ抱きしめて。
 気づいたときには、長くて苦しい夜は終わり、外は明るくなっていた。

 腕の中には、まだ宵が穏やかな寝息を立てている。
 少しでも動けば起きてしまいそうで、俺は布団の中から出られないでいた。
 ふと、視界に入った宵の尻尾に手を伸ばす。
 美しいと思ったあの、綾空の白銀の毛並み。胸がチクリと痛んだが、昨日のような絶望はもうなかった。

「んー……。おはよ、なおや」
「おはよう」

 無意識に尻尾を撫でたせいで、起こしてしまったらしい。
(かわいいな、宵……)
 目をこする仕草さえ、たまらなく愛おしい。
 
 けれど、ふと思う。
 俺の記憶にある綾空と、目の前の宵は、同じであって全然違う。
 あの神々しい神獣が、どうしてこんなに子供っぽくて、危なっかしい存在になったんだろう。
 宵は、綾空だった頃のことを、一体どれくらい覚えているのか。
 
 考えても答えは出ない。ただ、俺にしがみつく宵と、腕に絡みつく尻尾の感触だけは、間違いなく現実だった。
 銀の毛をふんわり触ると、毛の中に幾つかの絡まりがあるのを見つけた。
 俺は宵を一度布団に寝かせたまま、居間へと降りた。
 
「おばあちゃん、おはよう」
「尚弥、熱はもう下がったの? 三日も寝込んで、本当に心配したんだから」
 
 三日? そんなに時間が経っていたのか。
「……ありがと。もう大丈夫。宵の看病が、効いたみたい」
「ふふ、そうねぇ。あの子、ずっと尚弥のそばを離れなかったもの」

 おばあちゃんのその言葉に、胸が温かくなった。
 
「おばあちゃん、宵に使える(くし)とかないかな」
「それなら、いいものがあるわよ」

 手渡されたのは、丁寧なお手入れ用の獣毛ブラシだった。こんなのまで用意してたのか。
 
 部屋に戻り、俺はあぐらをかいて座ると、宵の身体を膝に預けさせた。
「なおや、なに……?」
「いいから、じっとしてて」

 銀色の尻尾に、ゆっくりとブラシを入れていく。
 毛先から少しずつ、丁寧に優しく、絡まりを解いていく。
 一掻きするごとに、宵の耳がぴく、ぴくっと可愛らしく揺れた。
 
「……っ、ぁ……なおや……」
 宵の声はもうトロトロに溶けていて、ブラッシングに合わせて、尻尾が甘えるように俺の腕をなぞった。
 
「痒いところある?」
「きもち、いい……」
 
 とろんと潤んだ目で見上げられ、顔が熱くなった。
 これ以上やったら、俺の理性がもたない気がする。
 ……けれど、無防備に全てを委ねてくるこの銀色を、俺はもう、手放すつもりはなかった。

「ねぇ、宵」

 ブラシを動かす手は止めずに、俺は、できるだけ何気なさを装って声をかけた。

「……んん?」
「お前さ、『綾空』って名前に聞き覚えある?」

 一瞬、宵の耳がぴくっと傾いた。
 膝の上の宵は、とろんとした瞳を瞬かせて、不思議そうに俺を見上げる。

「あやそら……? きれいで、なつかしい。……なおやの、おともだち?」

 ……ああ、やっぱり。
 俺の心臓はあんなにも激しく脈打ったのに。宵の中では、まだあの夜の記憶は、はっきりしないままなんだ。

 ――それでいい。

 そう思う。あんなに痛くて、冷たくて、惨めな別れなんて。
 神でも神獣でもなくなった今の宵は、もう知らなくていい。

 俺はブラシを置いて、宵の柔らかい頬を両手で包み込んだ。

「なおや?」
「……もし、お前がこのまま、何も思い出さなくても。ずっとこのまま、世間知らずで甘えん坊の宵のままでも」

 宵の琥珀色の瞳を、まっすぐに見つめ、俺は初めて、今の自分の言葉で告げた。

「俺は、お前と一緒にいたい。……今度は俺が、お前を一人にしないから」

 それは、過去の灯弥としての自分へのケジメであり、今の尚弥としての俺の、初めての誓い。
 宵は、意味がわかっていないのか、ただ嬉しそうに目を細めて笑った。

「うん。なおやといっしょがいい。だいすき、なおや」

 無邪気に首を寄せてくる宵を、俺は傷つけないように、優しく抱きしめた。

 たとえこの先、どんな運命が追いかけてこようと。
 俺は、この体温(ぬくもり)だけは、絶対に手放さない。

 あの地獄のような最期を、お前はもう知らなくていいんだ。
 俺が全部背負って、お前を一生甘やかしてやる。
 
 お前が生きて、ここにいてくれる。それだけで、もう十分なんだ。